第六十七話 子どもの目
閉じた目の封蝋だけが届いた。
箱はなかった。手紙もない。品物もない。厚紙に挟まれていたのは、暗い赤の封蝋の欠片だけだった。
ココはそれを見た瞬間、耳をぴんと立てた。
「封蝋だけって、納め物になるんですか?」
「なることもある」
ロイは答えたが、自分でも少し不思議だった。
封蝋は、本来なら何かを閉じていた証だ。開けられていないことを示すもの。封が破られれば、役目を終えるもの。
だが、目の前の封蝋は違った。
月環も扉もほとんど欠けている。残っているのは、中央の閉じた目だけ。細い線で描かれた瞼のような意匠が、暗い赤の中に沈んでいた。
満願堂へ届けると、リゼットはそれを見てすぐに黒布を出した。
「ずいぶん、中心だけが残りましたね」
モルがカウンターへ上がる。
「目」
「ええ」
「見てる?」
「閉じています」
「でも、見るにおい」
ココは少し背筋を伸ばした。
「見るにおいって、なんだか怖いですね」
「こわくない」
モルは封蝋を見た。
「まだ、閉じてる」
ロイはリゼットを見る。
「子どもの目、ですか」
リゼットは静かに頷いた。
「その話へ、繋がるのでしょう」
閉じた目は、子ども自身が物になったものではない。
リゼットは最初にそう言った。
「そこは、間違えてはいけません」
その声はいつもより少しだけはっきりしていた。
「子どもが鍵になったわけではございません。子どもが扉の中に閉じ込められたわけでもありません」
「では、何が宿ったんですか」
ロイが聞く。
「願いです」
リゼットは封蝋の欠片を見た。
「見定めたい、という願いです」
願いの多い子は、誰に何を渡してよいのか分からなくなっていた。
畑を救いたい老人。病人の声を残したい家族。祭りを明るくしたい世話役。母を責める人。父を説得しようとする人。泣く人。怒る人。祈る人。
誰もが、自分の願いを本物だと言った。
実際、本物だったのだろう。
畑は乾いていた。病人は死に近かった。祭りは沈んでいた。困っている人々は、本当に困っていた。
だが、本物の願いが集まるほど、子どもには分からなくなった。
誰の願いを通せばいいのか。
誰の願いを止めればいいのか。
願いを断ることは、その人を見捨てることなのか。
願いを通すことは、自分の大切なものを失うことなのか。
子どもは、まだ小さかった。
だから、正しく判断したいと願ったのではない。
ただ、見定めたいと願った。
誰が欲しがっているだけなのか。誰が本当に必要としているのか。何を渡してよいのか。何を守らなければならないのか。
その願いは、父の鍵へ宿った。
鍵は、開けるものでも閉めるものでもなくなっていく。
通すものを選ぶものになる。
そして、その中心に目が現れた。
「閉じた目なのに、見定めるんですか」
ココが聞いた。
「開きっぱなしの目は、見すぎてしまいます」
リゼットは答えた。
「閉じているからこそ、必要な時だけ見ることができるのかもしれません」
ココは自分の目をぎゅっと閉じてみた。
「見えません」
「ココさんは、目を閉じたばかりですから」
ロイが言う。
「ロイさんは見えるんですか」
「俺も見えない」
「じゃあ、だめですね」
「そうだな」
二人のやり取りに、リゼットは少しだけ笑った。
封蝋の欠片は、黒布の上で静かにしている。
だがロイには、その閉じた目がただの線には見えなかった。見られているわけではない。けれど、見られていないから安心できるわけでもない。
満願堂の奥の扉にも、同じような意匠がある。
モルの鍵にも、よく見れば似た線がある。
逓便局の紋章にも。
「この目は、願いが澄んだ者だけを見るのですか」
ロイが尋ねる。
「そうとも言えます」
リゼットは答える。
「けれど、澄んだ願いがすべてよい願いとは限りません」
「それは、満願具の客を見てきたから分かります」
「はい」
「では、見定めるというのは、良し悪しを決めることではない」
リゼットはロイを見た。
「そうです」
その声には、ほんの少しだけ安堵のようなものがあった。
「見定めるとは、その願いがどこへ行こうとしているのかを見ることです。良いか悪いかを裁くことではございません」
ロイは黙った。
満願堂は、願いを裁かない。何度も見てきた。正しい願いも、優しい願いも、恐ろしい願いも、リゼットはまず否定しない。ただ、その行き先を見ようとする。
それは、閉じた目の性質と同じなのかもしれない。
「でも、通さないこともあるんですよね」
ココが言った。
「富豪さんの箱みたいに」
「ええ」
「それは、裁くのと違うんですか」
リゼットは少し考えた。
「違います。通さないのは、願いを否定するためではなく、迷わせないためです」
「難しいです」
「はい」
リゼットは素直に頷いた。
「たいへん難しいことです」
その時、封蝋の欠片がかすかに音を立てた。
ぱき、と乾いた小さな音。
全員が視線を向ける。
封蝋は割れていない。けれど、閉じた目の線だけが、ほんの少し深くなったように見えた。
モルが一歩下がる。
「見た」
「何を?」
ココが小声で聞く。
「しらない」
「モルさんでも分からない?」
「うん」
モルは珍しく真面目な顔をしていた。
「でも、見た」
リゼットは封蝋へ手を伸ばさなかった。
ただ、黒布の端を少しだけ整える。
「必要な時だけ、目は開くのでしょう」
「今、必要だったんですか」
ロイが聞く。
「分かりません」
「リゼットさんでも?」
「はい」
その答えは意外だった。
リゼットは何でも知っているように見える。少なくとも、満願堂の中ではそう見える。だが、彼女は今、分からないと言った。
それがロイには少しだけ大事なことに思えた。
満願堂の管理人であっても、すべてを見ているわけではない。
閉じた目は、リゼットの目ではない。
子どもの願いから生まれた、別の見定めるものなのだ。
封蝋の欠片は、奥の棚ではなく、黒鉄の扉の前へ一時的に置かれることになった。
「奥の部屋へ?」
ココが聞く。
「いいえ。まだ入れません」
リゼットは言った。
「これは欠片です。扉そのものでも、鍵そのものでもございません。ただ、少しだけ近くで休ませます」
モルが扉の前に座る。
「見る?」
「誰が?」
「目」
「閉じていますよ」
「でも」
モルは言った。
「近い」
その日は、満願堂の奥がいつもより静かだった。
喫茶席ではエリアスが本を読んでいる。紅茶の香りもある。外では馬車が通り、逓便局の鐘も鳴った。
それでも、店の奥だけが、まるで誰かが息を潜めているように静かだった。
夕方、ヴェルナーが満願堂へ来た。
封蝋だけの納め物について、逓便局で控えを確認したらしい。彼は欠片を見ると、手袋の下の右手を一度握った。
「古式よりも古い」
低く言う。
「記録にありますか」
ロイが聞く。
「完全な形ではない。ただ、納め番の記録に、目だけの封蝋についての記述がある」
「何と?」
「通らなかった願いに残る印、と」
ココの耳が下がった。
「通らなかった願い」
リゼットは目を伏せた。
「通らなかったから悪い、という意味ではございません」
ヴェルナーは頷く。
「ああ。むしろ、通さないことで守られたものもある」
その言葉は、ヴェルナーにしては少し柔らかかった。
ロイは彼を見た。ヴェルナーはリゼットではなく、封蝋の目を見ている。
彼もまた、満願堂を恐れるだけではない。必要な場所だと知っている。
封蝋はその夜、黒鉄の扉の前で静かに休んだ。
モルはしばらく隣で丸くなっていたが、夜更けにカウンターへ戻ってきた。
「リゼット」
「はい」
「見るの、たいへん?」
「そうですね」
「閉じるのも?」
リゼットは少しだけ考えた。
「ええ。きっと」
「じゃあ、目、つかれる」
「そうかもしれません」
モルは自分の目を細く閉じた。
「モル、ねる」
「はい。おやすみなさい」
モルは丸くなった。
リゼットは奥の扉を見る。
閉じた目の意匠は、今日も閉じている。だが、その奥には長い時間が眠っている。
子どもが誰の願いを通すべきか分からず、見定めたいと願ったこと。
父の鍵がその願いを受け取ったこと。
そして今も、満願堂の奥で、願いがどこへ行くのかを見ていること。
閉じた目は、裁かない。
ただ、見定める。
その違いを忘れないために、リゼットは長い間、扉の前を通るたび少しだけ足を止めてきたのかもしれない。
翌朝、封蝋の欠片は奥の棚へ移された。
黒布に包まれた小さな欠片は、何も見ていないように静かだった。
けれどロイは満願堂を出る時、一度だけ振り返った。
見られている気はしない。
ただ、自分の願いがどこへ向かっているのか、自分自身にもまだ見えていないのだと思った。
リゼットに会いたい。役に立ちたい。満願堂を知りたい。
その願いは、まだ澄んでいない。
澄んでいないからこそ、彼は今日も荷物を運ぶ。
扉を開けるのではなく、まず正しく届けるために。
封蝋の欠片を納めた日の翌日、ロイは配達帳の余白に一行だけ書いた。
見定めることと、裁くことは違う。
書いてから、すぐに消そうとした。仕事の帳面に私的なことを書くべきではない。だが、インクはすでに乾き始めていた。
ココが横から覗き込む。
「ロイさん、詩ですか?」
「違う」
「じゃあ、満願堂メモですね」
「そういう名前をつけるな」
「いいと思いますけど」
ロイは帳面を閉じた。
その一行は、満願堂で何度も見てきたものに近かった。リゼットは客の願いを裁かない。けれど、何でも通すわけではない。満願具へ進む者には、すすめないと言う。受け取れないものは受け取らない。
それは優柔不断ではない。
見定めるということなのだろう。
その夕方、ロイは満願堂へ普通便を届けた。
リゼットは受け取り帳に署名しながら、ふとロイの手元を見た。
「今日は、何か書かれていましたか」
「え?」
「インクの匂いが少し」
ロイは顔を熱くした。
モルがすかさず顔を上げる。
「ロイ、書いた?」
「仕事の記録です」
「うそ?」
「嘘ではない」
リゼットは追及しなかった。ただ、穏やかに言った。
「書くことで、見えるものもございます」
その言葉に、ロイは少しだけ息を呑んだ。
リゼット自身も、昔、何かを書いていたのではないか。願いを壊す前に、誰かの願いを書き留めていたのではないか。
まだ確かめるには早い。
だが、閉じた目の話を聞いた後では、ロイもまた、見すぎないようにしながら見てしまう。
満願堂は、人をそういう目にする場所だった。
帰り際、モルが言った。
「ロイ、まだ閉じてる」
「何が?」
「目」
ロイは一瞬、黒鉄の扉を見た。
モルは自分の目を細める。
「でも、ちょっと見る」
それが褒め言葉なのか警告なのか、ロイには分からなかった。
分からないまま、彼は満願堂を出た。
見定めることと、裁くことは違う。
その一行は、配達帳の余白に残ったままだった。




