第六十六話 父の扉と鍵
鍵穴のない扉板が届いた時、オルスは不機嫌だった。
「これを扉と呼ぶのは、扉に失礼だ」
彼はそう言った。
厚い木板の一部だった。端は焦げ、表面には古い傷がある。蝶番の跡も、取っ手の跡もない。鍵穴もない。ただ、中央に小さな窪みがあり、そこだけ何度も触れられたように滑らかになっていた。
「扉に必要なものが、だいたいない」
オルスは続ける。
「だが、扉だった感じがする」
「感じですか」
ロイが聞く。
「職人の感じだ。文句あるか」
「ありません」
ロイはすぐに答えた。
満願堂のカウンターに置かれた扉板は、ただの木片には見えなかった。木目の奥に、どこか硬い沈黙がある。何かを通さないために立っていたものの沈黙だ。
ココも一緒に来ている。納め物として届いたものを、逓便局から満願堂へ届ける途中でオルスの店に寄り、鑑定めいたことを頼んだのだ。
「鍵穴がないのに、鍵のにおい」
モルが言った。
「鍵穴がないのに?」
ココが首を傾げる。
「うん。鍵、あった」
リゼットは扉板を見つめる。
「父の扉と鍵に関わるものかもしれません」
「母の次は父か」
オルスは椅子に腰を下ろした。
「家族総出だな」
「ええ」
リゼットは静かに答えた。
「願いの多い子を守るには、家族の願いが必要だったのでしょう」
父は、最初から強い人ではなかった。
古い記録には、父の名はほとんど残っていない。仕事も、顔立ちも、年齢も分からない。ただ、家の戸を何度も直した人として記録されている。
最初は、普通の戸だった。
人が来るようになり、母が疲れ、子どもが物を隠すようになってから、父は戸を直した。蝶番を替え、閂を太くし、窓に内側から木板を打った。
それは、家族を守るための普通の作業だった。
だが、願い物を欲しがる人々は、ただの戸では止まらなかった。
戸口で祈る人がいた。泣く人がいた。金を差し出す人がいた。怒る人がいた。
「うちの畑を見捨てるのか」
「母の声を残したいだけなのに」
「村のためだ」
「子ども一人のものにしておくのは惜しい」
どの言葉も、父にとっては刃だった。
追い返せば、冷たい人間になる。通せば、子どもの大切なものが奪われる。
父は迷った。
迷いながら、戸を直した。
そのうち、父の願いは戸そのものへ染みていった。
この子と、この子を守る母を、通してはいけないものから守りたい。
「通してはいけないもの」
ロイが呟いた。
「人ではなく、ものですか」
「人そのものを拒んだわけではないのでしょう」
リゼットは言った。
「願いを奪おうとする手、入り込もうとする欲、善意の形をした圧力。そういうものを通したくなかったのだと思います」
オルスは腕を組む。
「善意も通すなってか」
「善意だからこそ、通すと傷つくこともございます」
「面倒だな」
「ええ」
リゼットは頷いた。
「願いは、面倒です」
父の戸は、やがて普通の戸ではなくなった。
開けようとする者の前では重くなり、叩く音を吸い込み、怒声を内側へ通さなかった。だが、本当に助けを求める者の声だけは、かすかに母へ届いたという。
完全に閉じたわけではない。
何もかも拒んだわけでもない。
通してよいものと、通してはいけないものを、選びたがる戸だった。
そのために、鍵が生まれた。
鍵は開けるためだけのものではなかった。
閉めるためだけでもない。
何を通すかを見定めるためのものだった。
「鍵なのに、見定めるんですか」
ココが言った。
「鍵は、開けるか閉めるかだけじゃないんですね」
「そういう鍵もあるのでしょう」
リゼットはモルの首元を見た。
古い鍵はリボンに下がっている。小さく見えるが、古さだけは隠しようがない。
モルは鍵を前足で押さえた。
「モルの」
「はい。モルのです」
「でも、もともと?」
モルはそこまで言って、首を傾げた。
リゼットは答えなかった。
扉板の中央の窪みは、鍵穴ではない。
だが、鍵をかざす場所だったのかもしれない。
ロイはそう思った。
「リゼットさん」
「はい」
「黒鉄の扉にも、鍵穴はありません」
「ええ」
「モルさんの鍵をかざすだけです」
「はい」
ロイは扉板を見る。
「この扉も、同じように開いたのですか」
リゼットは少しだけ黙った。
「同じではございません」
「けれど、近い」
「近いのかもしれません」
ココは二人を見比べた。
「リゼットさん、今日ちょっと答えがふわっとしてますね」
「古いことですから」
「便利な言葉です」
オルスが横から言う。
リゼットは微笑んだ。
「ええ。たいへん便利です」
その場の空気が少しだけ軽くなった。
だが扉板は沈黙したままだった。
リゼットは扉板の中央へ手をかざす。
触れはしない。ただ、指先を近づける。
その瞬間、モルの鍵がかすかに揺れた。
音はほとんどしない。だが、ロイには見えた。鍵の中央にある小さな意匠が、ほんの一瞬だけ深くなったように。
閉じた目。
まだ開いてはいない。
だが、眠っているだけでもない。
「動いた?」
ココが小声で言った。
「風だ」
ロイは思わずそう答えた。
「満願堂でそれ言うの、リゼットさんみたいです」
「……忘れてくれ」
オルスが鼻で笑う。
リゼットは何も言わなかった。
父の願いは、扉と鍵を作った。
だが、それだけでは足りなかった。
扉は守る。鍵は通すものを選ぼうとする。けれど、何を通してよいのかを見定めるには、さらに別の願いが必要だった。
それは、子ども自身の中に生まれていた。
誰に渡せばいいのか。
誰を入れていいのか。
誰の願いを信じればいいのか。
父の鍵は、その問いを受け取る場所になった。
「次は、子どもの目ですか」
ロイが言った。
リゼットはわずかに目を細めた。
「そのように、続いております」
「記録が?」
「ええ」
「リゼットさんの記憶ではなく?」
言ってから、ロイは踏み込みすぎたと思った。
リゼットはしばらく彼を見た。
責めてはいない。けれど、答えるかどうかを選んでいる顔だった。
「記録も、記憶も、古いものは少しずつ混ざります」
それだけを言った。
ロイは頭を下げた。
「すみません」
「いいえ」
リゼットは扉板を黒布で包んだ。
「気にしてくださることは、悪いことではございません」
その言葉で、ロイはさらに何も言えなくなった。
扉板は奥の棚へ納められた。
隣には、開かない小箱がある。少し離れた場所には、雨を呼ぶ人形の欠片、鳴らない鈴、声のない箱。願いの多い子の周りにあったものが、満願堂の奥で少しずつ並び始めている。
オルスは棚を見て、低く言った。
「集めてるみたいだな」
「集めているわけではございません」
リゼットは答えた。
「戻ってきているだけです」
「その違いは大きいのか」
「ええ」
リゼットは棚を閉じる。
「集めるのは、こちらの都合です。戻ってくるのは、願いの行き先です」
オルスは少し黙り、それから肩をすくめた。
「やっぱり面倒だ」
「はい」
モルが言う。
「でも、だいじ」
オルスはモルを見た。
「お前が言うと、少し腹が立たないな」
「モル、えらい」
「そこまでは言ってない」
その夜、ロイは逓便局へ戻ってから、局章を見上げた。
月環。扉。閉じた目。
扉は守るもの。鍵は通すものを選ぶもの。そして目は、見定めるもの。
今までただの紋章として見ていた線が、少しずつ意味を持ち始めている。
ヴェルナーが背後から声をかけた。
「見すぎるな」
「すみません」
「謝る必要はない。ただ、見たものをすぐ分かった気になるな」
「はい」
ヴェルナーは局章を見上げた。
「あれは、逓便局の印だ。だが、逓便局だけのものではない」
「局長補佐は、どこまでご存じなのですか」
ヴェルナーは答えなかった。
ただ、手袋の下の右手を握る。
「知っていることと、運べることは違う」
それだけ言って、彼は自分の机へ戻った。
ロイはもう一度、局章を見た。
閉じた目は、やはり閉じている。
だが、閉じているから何も見ていないとは限らない。
満願堂の奥の棚で、扉板は静かに眠っている。
鍵穴のない扉。開けるためではなく、通すものを選ぶための扉。
その前で、モルはしばらく自分の鍵を舐めていた。
「味、しないでしょう」
リゼットが言うと、モルは顔を上げた。
「しない」
「では、なぜ」
「たしかめた」
「何を?」
モルは少し考えた。
「ある」
リゼットは微笑んだ。
「そうですね。あります」
鍵は今も、モルの首元にある。
それが何を通し、何を閉じ、何を見定めるのか。
すべてを語るには、まだ少し早かった。
その後、ヴェルナーは逓便局の若い局員を集め、扉と鍵の古い規則について短い講義をした。
若い局員たちは、満願堂担当ではない者も含め、少し緊張していた。ヴェルナーが満願堂に関する話をする時は、冗談が少ないからだ。
「扉は開けるものだと思うな」
ヴェルナーは言った。
「閉めるものだとも思うな。少なくとも、満願堂に関わる古い扉は、それだけではない」
ココは横で小さく頷いた。ロイは記録を取っている。
「納め物を満願堂へ届ける時、お前たちは扉を叩く。だが、その前に確認することがある。荷は正しいか。納め札はあるか。封蝋は壊れていないか。届ける者の手は乱れていないか」
若い局員の一人が手を上げた。
「手が乱れている、とは?」
「欲で触っていないかということだ」
場が静かになった。
「中身を見たい。早く終わらせたい。面白がりたい。怖いから投げ出したい。そういう手で扉を叩くな」
ヴェルナーの右手の古傷が、手袋の下でわずかに動いた。
ロイはその言葉を、ただの訓示としては聞けなかった。
扉は、荷の前に人の手も見ているのかもしれない。
講義の後、ココが小声で言った。
「局長補佐、今日はかなり怖かったですね」
「いつも怖い」
ロイが答える。
「でも、今日は扉みたいでした」
「扉?」
「通してくれるけど、変なことしたら通さない感じ」
ロイは少し笑った。
それを聞いていたヴェルナーが振り返る。
「聞こえている」
ココの耳が跳ねた。
「すみません!」
ヴェルナーは叱らなかった。
ただ、古い局章を見上げて言った。
「扉に例えられるなら、まだましだ」
ロイはその横顔を見た。
満願堂を恐れる男。けれど、その恐れは逃げるためではなく、通すべきものを間違えないためのものだった。
その日から、ロイは満願堂の扉を叩く前に、自分の手を一度見るようになった。
荷を持つ手。
リゼットに会いたいと思う手。
知りたいと願う手。
その全部を消すことはできない。けれど、どんな手で扉を叩いているのかを知ることはできる。
それも、見定めることの一部なのかもしれなかった。




