第七十五話 月環街へ
リゼットは、処分場を夜明け前に出た。
荷物は多くなかった。古い外套。少しの着替え。筆記具。小さな財布。手袋。そして、帳面。
帳面は布に包み、鞄の一番奥へ入れた。けれど、不思議なことに、鞄は帳面の重さで沈むようだった。紙の重さではない。書かれた願いの重さでもない。まだ行き先のないものを持っている重さだった。
処分場の門を出る時、リゼットは一度だけ振り返った。
高い壁の向こうに、炉の煙突が見えた。朝の空は薄く灰色で、煙はその中へ溶けていた。
彼女は処分場を憎んではいなかった。
処分場の人々も、すべてが冷たい人間だったわけではない。壊すしかない品を壊し、持ち主を帰し、返りが少しでも軽く済むよう手順を守る。そういう仕事を、長く続けてきた人たちだった。
だが、リゼットはもうそこにいられなかった。
壊す前に書くことはできた。けれど、書いたものの行き先がない。帳面に残した願いを、また自分だけが抱えている。処分場を離れても、その重さだけはついてきた。
月環街へ向かう道は、まっすぐではなかった。
地図には載っている。馬車も通る。旅人もいる。けれど、リゼットが聞いた「月環の堂」への道は、誰に尋ねても曖昧だった。
「月環街なら東の街道だ」
「月環の堂? 古い祠のことか?」
「もうないんじゃないか」
「願具を壊さずに置いておく場所だって? そんなもの、あったら困るだろう」
人々は少し笑い、少し怖がり、少しだけ知っているような顔をした。
確かなことは、誰も知らなかった。
リゼットは宿を転々とし、古い市場で噂を拾い、小さな村で処分場の依頼札に似た印を探した。帳面は時々、鞄の中で勝手に開いていることがあった。開いた頁には、月環という言葉に関わる記録ばかりが並んでいた。
月環の堂へ納められたらしい鈴。
月環の堂へ向かう途中で失われた箱。
月環の堂へ届かなかった誰かの手紙。
噂は薄く、古く、ほとんど消えかけていた。
それでも、帳面はそちらへ行きたがっていた。
そして、白いものが現れた。
最初に見たのは、雨上がりの石橋の上だった。
橋の端に、白い毛の塊のようなものが座っている。猫にしては大きく、犬にしては丸い。耳の形もはっきりしない。目は見えたような、見えなかったような気がした。
リゼットが近づくと、それは立ち上がった。
何も言わない。
ただ、橋の向こうへ歩き出す。
「待ってください」
リゼットが声をかけても、白いものは振り返らなかった。だが、遠くへ逃げるわけでもない。一定の距離を保ち、リゼットがついて来るのを確かめるように歩く。
その時は、ただの野良の魔獣かと思った。
けれど、次の町でも現れた。
道を間違え、古い街道ではなく新しい馬車道へ進もうとした時、白いものは脇道の石垣の上にいた。ふわりと尻尾のようなものを揺らし、古い街道の方へ歩いていく。
三度目には、リゼットも気づいた。
白いものは、彼女を導いている。
言葉はなかった。
名前もなかった。
手を伸ばすと、するりと距離を取る。けれど、夜になると宿の窓の下で丸くなっていることがある。朝にはいない。だが道に迷うと、必ずどこかに現れる。
リゼットはその白いものを、最初は少し怖がった。
処分場には、願具から抜け落ちた気配が残ることがある。白いものも、そうした残り香が形を取ったものかもしれないと思った。けれど、白いものは願いを叶えない。帳面を開かせることも、道を曲げることもない。ただ、そこにいる。
そして時々、リゼットの鞄を見た。
帳面の匂いを知っているのだと、彼女は思った。
旅の途中、リゼットは何度も自分に問うた。
これは逃げではないのか。
処分場でできることから逃げているだけではないのか。
壊す仕事が嫌になったから、壊さずに済む場所を探しているだけではないのか。
白いものは答えない。
当然だ。喋らないのだから。
ただ、リゼットが足を止めるたび、少し先の道で待っていた。
ある夕方、彼女は小さな宿場町で、古い荷車を見た。荷車の横板には、月環と扉と閉じた目に似た印が薄く残っていた。今の逓便局の紋章とは違う。もっと古く、線が深い。
荷車の持ち主は、年老いた男だった。
「その印をご存じですか」
リゼットが尋ねると、男は目を細めた。
「昔の納め番の印だろう」
「納め番」
「願い物を運ぶ連中だ。俺の祖父がそう呼んでいた。月環街の古い方へ行くなら、その印を探せと言われた」
「月環の堂ですか」
男は少しだけ顔を変えた。
「まだ、その名を追う者がいるのか」
リゼットは答えなかった。
男は道を教えてくれた。大きな街道ではなく、古い水路沿いの道。石橋を三つ越え、月の形に欠けた石灯籠を左へ折れる。そこから先は、地図よりも勘を信じろと言われた。
宿を出ると、白いものが石灯籠の下にいた。
リゼットは、初めて少し笑った。
「あなたは、知っていたのですね」
白いものは答えない。
ただ、尻尾のようなものを一度揺らした。
月環街へ近づくにつれ、リゼットの帳面は重くなった。
重いのに、苦しくはなかった。処分場を出た時の重さとは違う。行き先のない願いを抱えている重さではなく、どこかへ届きかけている重さだった。
やがて、古い石畳の街へ入った。
今の月環街よりも、当時はまだ静かな場所だった。大通りは狭く、店も少ない。古書店や茶房も、今ほど並んではいない。けれど、街の中心から少し外れた路地に入ると、空気が変わった。
リゼットはその路地で足を止めた。
白いものは、少し先にいる。
曲がり角の向こうへ進み、そして姿を消した。
リゼットは追った。
曲がり角の先にあったのは、店ではなかった。
看板もない。紅茶の香りもない。窓も少なく、扉は古い。石と木でできた、倉庫のようにも、祠のようにも見える建物だった。
入口の横には、台が一つ置かれていた。
白いものは、その台のそばで丸くなっている。
リゼットは息を止めた。
月環の堂。
誰かにそう教えられたわけではない。
けれど、帳面が鞄の中で静かに開いた音がした。
長い旅は終わったのではなかった。
ここから始まるのだと、リゼットはその時まだ知らない。
現代の満願堂で、モルはカウンターの上で丸くなっていた。
「モル」
リゼットが呼ぶ。
「昔、道案内をしてくれた白いものを覚えていますか」
モルは目を細めた。
「しらない」
「そうですか」
「でも、道、しってる」
リゼットは笑った。
旅の途中、リゼットは一度だけ帳面を捨てようとした。
山間の小さな川沿いだった。雨の後で水かさが増し、川は濁っていた。橋の上で鞄を下ろし、帳面を取り出す。
この帳面がなければ、処分場に戻れるかもしれない。
そう思ったわけではない。もう戻れないことは分かっていた。ただ、どこにも辿り着けないなら、この重さだけでも手放したかった。
帳面を川へ落とせば、書かれた願いは水にほどけるだろう。紙は濡れ、文字は滲み、やがて読めなくなる。燃やすよりは優しい終わり方に思えた。
リゼットは橋の欄干へ手をかけた。
その時、白いものが対岸に現れた。
逃げるでもなく、鳴くでもなく、ただそこに座っていた。
濡れた石の上で、白い毛だけがぼんやり浮いている。まるで、帳面を捨ててもよいし、捨てなくてもよいと言っているようだった。
だからこそ、リゼットは捨てられなかった。
強制されていれば反発できた。止められれば、言い訳にできた。けれど白いものは何も命じない。
選ぶのは自分だった。
リゼットは帳面を鞄へ戻した。
「まだ、行きましょう」
誰に言ったのか分からない。
白いものは立ち上がり、月環街へ続く道を歩き出した。
その背中を追いながら、リゼットは初めて少しだけ理解した。
納める場所は、願いを捨てさせる場所ではない。
手放すかどうかを、自分で決めるための場所なのだ。
月環街へ向かう道で、リゼットは何度も満願堂ではない場所を見た。
願具を売る露店。旅人から不思議な品を買い取る商人。壊れた願具をただの骨董として並べる店。願い物を怖がり、井戸へ沈めた村。
どこも、願いに触れていた。
けれど、どこも納める場所ではなかった。
売る場所は、願いを値段に変える。沈める場所は、願いを見えなくする。祈る場所は、願いを神や精霊へ預ける。処分場は、願いを壊してほどく。
それぞれに役目はある。
けれど、リゼットが探しているものとは違った。
彼女は、誰かの願いを正したいわけではない。叶えたいわけでも、消したいわけでもない。願いが願いとしてあったことを、そのまま置ける場所を探していた。
その考えは、まだ曖昧だった。
白いものは、曖昧なままのリゼットを急かさなかった。
道に迷えば待つ。雨が降れば軒下に座る。リゼットが宿で帳面を書いている間、窓の外で丸くなる。
その沈黙が、彼女には不思議とありがたかった。
処分場では、答えが必要だった。
壊すか、壊さないか。持ち帰るか、処分するか。
白いものは、答えの前で待ってくれた。
月環街の手前で、白いものは一度姿を消した。
リゼットは初めて、本当に一人になった気がした。
白いものは何も教えない存在だった。けれど、いるだけで道の形が少し分かった。いなくなると、急に自分の足だけが頼りになる。
その夜、彼女は宿の小さな部屋で帳面を開いた。
月環の堂へ辿り着いたとして、何をするのか。
願い物を全部そこへ運ぶのか。処分場の代わりを作るのか。自分の帳面を納めて終わりにするのか。
どれも違う気がした。
リゼットは何も書けなかった。
白いものがいない部屋は、妙に広かった。
翌朝、宿の入口を出ると、白いものは道端にいた。昨日からずっとそこにいたような顔で、丸くなっている。
リゼットは少しだけ息を吐いた。
「待っていてくれたのですか」
白いものは答えない。
けれど、リゼットには十分だった。
行き先が分からない時、答えではなく、待っているものがあるだけで歩けることがある。
そのことを、彼女はこの旅で覚えた。
「ええ。今も、時々助かっています」
モルは満足そうに尻尾を揺らした。
その尻尾の揺れ方は、石灯籠の下で見た白いものと、少しだけ同じだった。




