第六十三話 鳴らない鈴
その日は、音のない納め物が二つ届いた。
ひとつは小さな鈴だった。銅とも真鍮ともつかない古い金属で、表面は鈍く曇っている。手に取って振っても鳴らない。中に舌はあるのに、動かない。
もうひとつは空箱だった。
木でできた、掌に収まるほどの箱。蓋を開けても何も入っていない。底にも側面にも文字はない。ただ、蓋の内側に小さな月環のような傷がある。
「二つ一緒に?」
リゼットが聞くと、ココは頷いた。
「はい。納め札が同じ紐で結ばれていました」
「差出人は?」
「ありません」
ロイが伝票を示す。
「ただ、逓便局の古い保管庫から出たものではありません。外から届いています」
「外から」
リゼットは鈴と箱を並べた。
モルがカウンターの上へ来る。まず鈴へ鼻を寄せ、次に箱の蓋を前足で軽く押した。
「鳴らない」
「振っても鳴りませんでした」
ココが言う。
「でも、鈴です」
「鳴ったこと、ある」
モルは短く言った。
ロイが箱を見る。
「こっちは?」
「声、ない」
「空箱ですからね」
「でも、残ってた」
ココは耳をぴんと立てた。
「鳴らない鈴と、空っぽなのに残っていた箱、ですか」
モルは小さく頷いた。
リゼットは静かに鈴を黒布へ置く。
「願いの多い子の周りには、鈴と箱の記録もございます」
ロイはまた、話が一段古い場所へ降りていくのを感じた。
泣けば雨を呼ぶ人形。笑えば鳴る鈴。寂しがれば声を残す空箱。
満願堂の表の棚にある小さな願具にも似たものはある。けれど、今カウンターに置かれている鈴と箱は、可愛らしい願具とは違う。もっと原初的で、まだ名前を与えられる前の願いに近い。
リゼットは話し始めた。
雨を呼ぶ人形の噂が広がった頃、子どもの家には人が来るようになっていた。
母は人形を隠し、父は戸を強くした。だが、人は雨だけを欲しがったわけではない。
ある日、祭りの世話役が来た。
彼は子どもを笑わせるのが得意だった。変な顔をし、古い歌を歌い、小さな木の鳥を手の中から出した。子どもは笑った。
その瞬間、子どものそばにあった鈴が鳴った。
誰も触れていないのに、明るく、よく響く音だった。
祭りの世話役は驚き、それから喜んだ。
「この鈴があれば、祭りはきっと明るくなる」
彼はそう言った。
「子どもが笑えば、鈴が鳴る。鈴が鳴れば、みんなが笑う。良いことじゃないか」
父は断った。
母も断った。
けれど世話役は、悪いことを言っているつもりはなかった。
実際、祭りの日にその鈴が鳴れば、村は明るくなっただろう。雨で重くなった心も、争いも、貧しさも、その音の間だけは軽くなったかもしれない。
だが、鈴は子どもの笑いで鳴るものだった。
祭りのために鳴らすなら、子どもは笑わなければならない。
「笑わせるなら、いいんじゃないですか」
ココが言ってから、すぐに少し困った顔をした。
「でも、笑わなきゃいけないのは、嫌ですね」
リゼットは頷いた。
「笑うことも、求められると重くなります」
ココは思い出したように言う。
「人形劇師のパウルさんも、子どもを笑わせたい人でしたね」
「ええ」
「笑いって、いいものなのに」
「はい。よいものです」
リゼットは鈴を見る。
「だから、願いになるのでしょう」
鈴は祭りへは行かなかった。
けれど、その音の噂は残った。子どもが笑えば鳴る鈴。悲しい家でも、病人の寝室でも、葬儀の後でも、その鈴が鳴れば少しだけ空気が明るくなる。
そう思う人は多かった。
一方で、空箱の噂も広がった。
それはもっと静かな願いだった。
子どもが寂しがって眠れない夜、母は隣の部屋で仕事をしていた。何度も呼ばれるたび、母は手を止めて寝室へ行った。
「ここにいるわ」
母はそう言った。
「でも、眠る時には一人にならなければならないの」
子どもは箱を抱いた。
「声を置いていって」
そう願ったのかもしれない。
母が箱の中へ向かって「おやすみ」と囁くと、蓋を閉めた後も、その声が少しだけ残った。
子どもは箱を抱いて眠った。
翌朝、箱は空だった。
けれど、夜の間だけ、母の声が残っていた。
「それは……欲しい人、多そうですね」
ロイが言った。
「ええ」
リゼットは静かに答える。
死にゆく人の声を残したい者。遠くへ行く家族の声を持ちたい者。もう会えない人の声を、少しでいいから閉じ込めたい者。
空箱の噂は、雨を呼ぶ人形や笑う鈴よりも静かに、しかし深く広がった。
人々は箱を欲しがった。
借りたいと言う者もいた。買いたいと言う者もいた。ほんの一晩でいいから、と頼む者もいた。
母は、箱を子どもから遠ざけようとした。
けれど子どもは嫌がった。
あの箱は、自分が一人で眠るために必要だった。母の声を全部欲しいわけではない。一晩だけ、寂しくないようにするための箱だった。
誰かの死に際の声を入れるためのものではなかった。
「願いは、使い道が増えるほど、元の場所から離れていくんですね」
ロイが言う。
「そういうこともございます」
「満願堂は、それを戻す場所ですか」
リゼットは少し考えた。
「戻す、というより、行き着かせる場所です」
「元には戻らない」
「はい」
モルが空箱の蓋を覗き込む。
「声、ない。でも、さびしいはある」
箱の中は空だった。
だが、空であることが、かえって寂しさの形を持っているように見えた。
その日の午後、エリアスがいつもの席で紅茶を飲んでいた。
彼女は鈴と箱の話を聞いていたが、自分からは口を出さなかった。リゼットが空箱を黒布に置いた時、ようやく小さく言った。
「声が残る箱があったら、私はどうしたかしら」
「誰かの声を残したい方がいらっしゃいましたか」
リゼットが尋ねると、エリアスは少しだけ笑った。
「いたのだと思うわ」
「思う?」
「もう、よく思い出せないから」
エリアスの願いは、変わらないことだった。彼女は仕上がり済みの常連であり、満願堂の中で静かに同じ日を続けている。
声を残す箱は、彼女には似合わないようにも思える。けれど、変わらない日々の中に残らなかった声があるのかもしれない。
リゼットは何も言わず、紅茶を注ぎ足した。
「いつものものを?」
「ええ。いつものものを」
エリアスはそう言って、カップを受け取った。
鈴は鳴らない。箱は声を持たない。
それでも二つは、一緒に納められた。
「別々ではないのですね」
ロイが聞く。
「笑いと寂しさは、離れているようで近いのかもしれません」
リゼットは答えた。
「子どもの周りでは、きっとそうだったのでしょう」
ココは鈴を見た。
「これ、もう鳴らないんですか」
モルが言う。
「鳴るかも」
「いつ?」
「しらない」
「モルさんでも分からないんですか」
「うん」
少しだけ驚いたココに、モルは胸を張った。
「分からないも、ある」
ロイは笑いかけて、やめた。モルの言葉は子どもっぽいが、時々、満願堂の奥より深いところから出てくる。
分からないものもある。
それは、満願堂にとって大切なことなのかもしれない。
夕方、リゼットは鈴と箱を奥の棚へ納めた。
二つを隣り合わせに置くと、棚の中の空気が少しだけ丸くなった。鈴は鳴らない。箱も声を返さない。けれど、二つが並ぶことで、失われた笑いと寂しさが互いに相手を見つけたように見えた。
モルが棚の前で耳を立てる。
「鳴った?」
「聞こえましたか」
「ちょっと」
「どんな音でした?」
モルは考えた。
「声みたいな、鈴」
リゼットは微笑んだ。
「そうですか」
夜になり、満願堂の灯りが落ちる頃、奥の棚からかすかな音がした。
鈴とも、箱の蓋が閉じる音ともつかない。
それは、笑い声の終わりに似ていた。
楽しいから笑ったのか、寂しいから笑ったのかは分からない。
ただ、その音はすぐに消えた。
リゼットは灯りを落とし、モルはカウンターで丸くなる。
「リゼット」
「はい」
「笑うのと、さびしいの、いっしょ?」
「いつもではありません」
「でも?」
「時々、近くにあります」
モルは少し考えた。
「じゃあ、いっしょに置く」
「ええ」
リゼットは奥の棚を見た。
「今日は、それがよいでしょう」
満願堂の夜は静かだった。
静けさの中で、鳴らない鈴と声のない箱は、互いの隣で眠っていた。
鈴と空箱が納められた後、満願堂ではしばらく小さな変化があった。
モルが、客の笑い声に敏感になったのだ。
誰かが紅茶を飲んで小さく笑うと、モルは耳を立てる。ココが配達の途中で転びかけ、慌てて立て直した時も、ココ自身が笑うより先にモルが棚の方を見た。
「鳴った?」
「鳴ってませんよ、モルさん」
ココは頬を赤くして言った。
「僕が転びそうになっただけです」
「笑った」
「笑いましたけど」
「じゃあ、鳴るかも」
リゼットはその様子を見て、静かに微笑んだ。
鈴は鳴らない。箱から声も聞こえない。けれど、二つが満願堂に来てから、笑い声と静けさの境目が少しだけ柔らかくなった。
ある夕方、エリアスが席を立つ前に言った。
「残したい声がある時、人は箱を欲しがるのね」
「はい」
リゼットは答える。
「でも、残した声だけでは、きっと足りないわ」
エリアスは自分の本を胸に抱いた。
「声は、聞こえる相手がいて、初めて声なのでしょうから」
リゼットはその言葉を覚えておくことにした。
後で納願帳へ書くかどうかは分からない。けれど、満願堂にはそういう言葉がいくつも積もっている。
鈴が鳴らなくても、箱が声を返さなくても、人は時々、誰かの言葉を少しだけ残していく。
その夜、モルは奥の棚へ向かって小さく言った。
「おやすみ」
箱から返事はなかった。
けれどモルは満足そうに戻ってきた。
「声、ない」
「ええ」
「でも、言った」
「はい」
リゼットは灯りを落とした。
言った言葉が残るとは限らない。けれど、言わなければ残る可能性もない。
鳴らない鈴と声のない箱は、そんな当たり前のことを、静かに棚の奥で示しているようだった。
後日、ココは逓便局の休憩室で、小さな鈴を見つけた。
普通の呼び鈴だ。誰かが鳴らせば音がする。誰も鳴らさなければ黙っている。
それを見て、満願堂の鳴らない鈴を思い出した。
鳴らす人がいる鈴と、笑いに応えて鳴る鈴。声を入れる箱と、声を待って空でいる箱。
普通の道具が普通でいられることも、案外ありがたいのかもしれない。
ココはそう思い、誰も呼ぶ用がないのに鈴へ触れそうになって、やめた。




