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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第二章 奥の棚に眠るもの

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第六十四話 欲しがる人々

満願堂に、三人の客が同じ品を持ち込んだ。


正確には、持ち込んだのは一つの古い輪だった。


銀か鉄か分からない金属でできた、掌ほどの丸い輪。飾りはなく、ただ内側に擦れた跡がある。何かの持ち手だったのか、箱の留め具だったのか、祭具の一部だったのか、見ただけでは分からない。


それを持ってきた三人は、それぞれ違うことを言った。


「これは私の家に伝わるものです」


最初の男が言った。


「祖父の代から保管していました」


「いいえ、元は私の母方の家にあったものです」


二人目の女が言った。


「盗まれたものが、巡り巡ってそちらへ行っただけです」


「どちらも違う」


三人目の老人が低く言った。


「これは村のものだった。個人の持ち物ではない」


三人とも、自分が正しいと思っていた。


リゼットは三人を喫茶席へ案内した。満願堂で声を荒げる客は少ないが、その日は最初から空気が少し硬かった。


モルはカウンターの下で丸くなり、鼻だけを出して輪を見ている。


「ほしいにおい」


小さく言った。


オルスもいた。


偶然、棚の金具を見に来ていたのだが、三人の会話を聞くうちに帰るタイミングを失った。彼は輪を一目見て、顔をしかめた。


「古いな」


「どれくらい古いですか」


ロイが聞いた。今日は逓便局の普通便で来ていたが、荷を渡した後も気になって残っている。


「少なくとも、俺の店に来る骨董より古い」


「それはかなり古いんですか」


ココが聞くと、オルスは鼻を鳴らした。


「お前に言っても分からん」


「ひどいです」


「だが、古いから価値があるわけじゃない」


オルスは輪を見た。


「こいつは、誰かに握られすぎてる」


三人はそれぞれ反応した。


「だから、私の家で大切にされていたのです」


「大切にしていたなら、なぜ手放したのです」


「村のものだから、皆が使ったのだ」


また言い争いになりかけたところで、リゼットが紅茶を置いた。


「まず、お茶をどうぞ」


その声は強くなかった。だが、三人は不思議と口を閉じた。


満願堂の紅茶には、争いを止める力があるわけではない。けれど、熱いカップを持つためには両手を使う。両手を使えば、指を突きつけることはできない。


リゼットは輪を黒布の上へ置いた。


「これは、願い物の一部かもしれません」


「願い物?」


老人が聞く。


「今の言葉で言えば、願具に近いものです。ただし、かなり古い」


「なら、なおさら私の家で保管すべきです」


男が言った。


女はすぐに反論する。


「所有をはっきりさせてからでしょう」


老人は重々しく首を振る。


「個人のものにしてはいかん」


三者三様だった。


だが、モルはもう一度言った。


「ほしい」


リゼットが見ると、モルは輪ではなく三人を見ていた。


「みんな、ほしい」


三人は黙った。


ほしい。


その言葉は、子どもじみている。だからこそ、取り繕えなかった。


男は家の誇りとして欲しい。女は奪われたものを取り戻す証として欲しい。老人は村の記憶を守るために欲しい。


誰か一人だけが欲張りなのではない。


全員が、それぞれの正しさで欲しがっていた。


リゼットは静かに言った。


「古い記録には、願いの多い子の周りに集まった人々のことが残っています」


ロイは背筋を伸ばした。


この輪も、そこへ繋がるのか。


リゼットは続ける。


子どもの人形は雨を呼んだ。鈴は笑いに応えた。箱は寂しさに声を残した。


最初、人々は遠慮がちだった。


少しだけ貸してほしい。今日だけ使わせてほしい。困っている人を助けたい。皆のためになる。


その言葉に、嘘ばかりがあったわけではない。


雨を求めた畑は本当に乾いていた。声を残したい家には本当に死にゆく人がいた。鈴の音で祭りを明るくしたい者も、村を元気づけたかったのかもしれない。


だが、願い物は持ち主の願いから生まれたものだった。


それを他人が使う時、願いは少しずつ別の形へ引っ張られる。


「欲しがる人が増えたのですね」


ロイが言った。


「ええ」


「悪人ばかりではなく」


「はい」


リゼットは三人を見る。


「だから、困ったのでしょう」


過去の子どもは、誰に渡してよいのか分からなくなった。


畑の老人には貸した方がよいのか。病人の家族には箱を使わせるべきか。祭りの世話役に鈴を渡せば、皆が笑うのか。


誰かの願いを断ることは、誰かを見捨てることのように見えた。


だが、すべてに応えれば、自分の大切なものが自分のものではなくなっていく。


子どもは考えた。


誰が本当に必要としているのか。


誰が欲しがっているだけなのか。


何を渡してよくて、何を渡してはいけないのか。


その願いは、まだ言葉にならなかった。


ただ、見定めたい、という形のない願いが、子どもの中に生まれた。


モルが鍵を前足で押さえた。


首元の古い鍵。その中央にある小さな意匠は、普段はただの飾りに見える。けれどロイには、その日だけ、閉じた目のように見えた。


三人の客は、黙っていた。


それぞれが自分の手元のカップを見ている。


「では、この輪は誰のものなのですか」


女が静かに聞いた。


「私が決めることではございません」


リゼットは答える。


「満願堂でも?」


「ええ」


「では、どうすれば」


「まず、なぜ欲しいのかを、それぞれ持ち帰ってください」


男が眉を寄せる。


「持ち帰る?」


「今日ここへ置いていくことは、おすすめ致しません」


「満願堂は納める場所ではないのか」


老人が言う。


「納める場所です。ですが、まだ納める形ではありません」


リゼットは輪を黒布ごと三人の前へ戻した。


「これは、誰かが不要だから捨てるものでも、誰か一人が勝ち取るものでもございません。まだ、願い同士が絡まっています」


「では、誰が預かるのです」


三人はまた互いを見た。


オルスがため息をついた。


「俺の店に置いとけ」


全員が彼を見る。


「俺は欲しくない。売る気もない。直すものでもない。しばらく棚に置くだけだ」


「職人さんが?」


ココが言う。


「職人だからだ。持ち主が決まらない古道具を、いくつも見てきた。誰かが欲しがっている間は、物が壊れやすい」


「壊れやすい?」


「力を入れすぎるからな」


オルスは三人を見た。


「一月預かる。その間に、あんたらはそれぞれ、なぜ欲しいのか書いてこい。家の誇りか、取り戻したいのか、村の記憶か。書けないなら、たぶん欲しい理由を自分でも見てない」


三人は不満そうだった。


だが、誰もすぐには反論しなかった。


リゼットは微笑んだ。


「よい預かり方かと」


「納めるわけじゃない」


オルスは念を押す。


「ただ置くだけだ」


「ええ。置くことにも、意味がある日がございます」


その日、古い輪は満願堂には納められなかった。


黒布に包まれ、オルスの工具袋とは別の小さな箱に入れられた。三人はそれぞれ不満を抱えながらも、店を出た。


ココは見送った後、小さく言った。


「受け取らないのも、満願堂なんですね」


「ええ」


リゼットは頷く。


「受け取らないことで、迷わせずに済む願いもございます」


ロイは首元の鍵を見るモルを見た。


「見定めたい、という願いが、鍵の目へ繋がるのですか」


リゼットはロイを見た。


ほんの少しだけ、驚いたように。


「そのように、考えられております」


「考えられている?」


「古いことですから」


それ以上、彼女は言わなかった。


だがロイには、リゼットが知らないのではなく、言い切らないのだと分かった。


満願堂には、言葉にすると形が固まりすぎるものがある。


閉じた目は、まだ完全には開かない。


数日後、オルスの店で、古い輪は棚の上に置かれていた。


三人はまだ誰も来ていない。輪は静かにしている。欲しがる声から少し離れただけで、金属のくすみが落ち着いたように見えた。


オルスはそれを見て呟いた。


「誰のものか分からない物は、しばらく誰のものでもない場所に置くのが一番だ」


満願堂では、モルがその日のことを思い出したように鍵をつついていた。


「ほしい、いっぱい」


「ええ」


リゼットは答える。


「願いが多いと、見定めるものが必要になります」


「鍵?」


「いつか、そうなったのでしょう」


モルは自分の首元の鍵を見下ろした。


「モル、鍵もってる」


「はい」


「でも、見てない」


「閉じた目は、いつも開いているわけではございませんから」


モルは納得したような、していないような顔で丸くなった。


棚の奥では、鈴と箱と布人形の欠片が静かに眠っている。


そしてどこか遠くで、願いの多い子が、誰に何を渡せばよいのか分からず、小さな手を握っていた。


一月後、三人は本当にオルスの店へ戻ってきた。


男は家系図の写しを持っていた。女は母方の家に残っていた古い手紙を持ってきた。老人は村の共同倉庫にあった祭礼記録を持っていた。


三人とも、自分の正しさを証明するために来たはずだった。


だが、紙を広げてみると、話は少し変わった。


男の家系図には、輪を保管していたという記述がある。女の手紙には、輪が一度持ち出されたとある。老人の祭礼記録には、同じ輪らしきものが村の儀式で使われていたと書かれている。


どれも完全ではない。だが、どれも嘘ではなかった。


オルスは三つの紙を見て、言った。


「つまり、誰のものでもあって、誰のものでもない」


三人は黙った。


満願堂へ輪を持ち込んだ時より、空気は少しだけ違っていた。自分だけが正しいと言うには、他の二人の紙にも重みがあった。


結局、輪はすぐには誰のものにもならなかった。


半年ごとに三家で預かる、という案も出た。村の記録館へ置く案も出た。満願堂へ納める案も出たが、リゼットはまだ受け取らなかった。


「納める時ではございません」


そう言っただけだった。


帰り道、ロイはオルスに聞いた。


「解決したのでしょうか」


「してない」


オルスは即答した。


「でも、壊れなかった」


「それでいいのですか」


「今日のところはな」


その言葉は、妙に満願堂らしかった。


すべての願いが、一度で納まるわけではない。誰かの手に戻るわけでも、奥の棚へ行くわけでもない。


時には、欲しがる人々が自分の欲しさを見つめる間、ただ壊れないように置かれるものもある。


モルはその話を聞いて、満足そうに言った。


「まだ」


「ええ」


リゼットは頷く。


「まだ、なのですね」


その“まだ”が、拒絶ではなく余白として響いたことを、ロイは覚えていた。


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