第六十四話 欲しがる人々
満願堂に、三人の客が同じ品を持ち込んだ。
正確には、持ち込んだのは一つの古い輪だった。
銀か鉄か分からない金属でできた、掌ほどの丸い輪。飾りはなく、ただ内側に擦れた跡がある。何かの持ち手だったのか、箱の留め具だったのか、祭具の一部だったのか、見ただけでは分からない。
それを持ってきた三人は、それぞれ違うことを言った。
「これは私の家に伝わるものです」
最初の男が言った。
「祖父の代から保管していました」
「いいえ、元は私の母方の家にあったものです」
二人目の女が言った。
「盗まれたものが、巡り巡ってそちらへ行っただけです」
「どちらも違う」
三人目の老人が低く言った。
「これは村のものだった。個人の持ち物ではない」
三人とも、自分が正しいと思っていた。
リゼットは三人を喫茶席へ案内した。満願堂で声を荒げる客は少ないが、その日は最初から空気が少し硬かった。
モルはカウンターの下で丸くなり、鼻だけを出して輪を見ている。
「ほしいにおい」
小さく言った。
オルスもいた。
偶然、棚の金具を見に来ていたのだが、三人の会話を聞くうちに帰るタイミングを失った。彼は輪を一目見て、顔をしかめた。
「古いな」
「どれくらい古いですか」
ロイが聞いた。今日は逓便局の普通便で来ていたが、荷を渡した後も気になって残っている。
「少なくとも、俺の店に来る骨董より古い」
「それはかなり古いんですか」
ココが聞くと、オルスは鼻を鳴らした。
「お前に言っても分からん」
「ひどいです」
「だが、古いから価値があるわけじゃない」
オルスは輪を見た。
「こいつは、誰かに握られすぎてる」
三人はそれぞれ反応した。
「だから、私の家で大切にされていたのです」
「大切にしていたなら、なぜ手放したのです」
「村のものだから、皆が使ったのだ」
また言い争いになりかけたところで、リゼットが紅茶を置いた。
「まず、お茶をどうぞ」
その声は強くなかった。だが、三人は不思議と口を閉じた。
満願堂の紅茶には、争いを止める力があるわけではない。けれど、熱いカップを持つためには両手を使う。両手を使えば、指を突きつけることはできない。
リゼットは輪を黒布の上へ置いた。
「これは、願い物の一部かもしれません」
「願い物?」
老人が聞く。
「今の言葉で言えば、願具に近いものです。ただし、かなり古い」
「なら、なおさら私の家で保管すべきです」
男が言った。
女はすぐに反論する。
「所有をはっきりさせてからでしょう」
老人は重々しく首を振る。
「個人のものにしてはいかん」
三者三様だった。
だが、モルはもう一度言った。
「ほしい」
リゼットが見ると、モルは輪ではなく三人を見ていた。
「みんな、ほしい」
三人は黙った。
ほしい。
その言葉は、子どもじみている。だからこそ、取り繕えなかった。
男は家の誇りとして欲しい。女は奪われたものを取り戻す証として欲しい。老人は村の記憶を守るために欲しい。
誰か一人だけが欲張りなのではない。
全員が、それぞれの正しさで欲しがっていた。
リゼットは静かに言った。
「古い記録には、願いの多い子の周りに集まった人々のことが残っています」
ロイは背筋を伸ばした。
この輪も、そこへ繋がるのか。
リゼットは続ける。
子どもの人形は雨を呼んだ。鈴は笑いに応えた。箱は寂しさに声を残した。
最初、人々は遠慮がちだった。
少しだけ貸してほしい。今日だけ使わせてほしい。困っている人を助けたい。皆のためになる。
その言葉に、嘘ばかりがあったわけではない。
雨を求めた畑は本当に乾いていた。声を残したい家には本当に死にゆく人がいた。鈴の音で祭りを明るくしたい者も、村を元気づけたかったのかもしれない。
だが、願い物は持ち主の願いから生まれたものだった。
それを他人が使う時、願いは少しずつ別の形へ引っ張られる。
「欲しがる人が増えたのですね」
ロイが言った。
「ええ」
「悪人ばかりではなく」
「はい」
リゼットは三人を見る。
「だから、困ったのでしょう」
過去の子どもは、誰に渡してよいのか分からなくなった。
畑の老人には貸した方がよいのか。病人の家族には箱を使わせるべきか。祭りの世話役に鈴を渡せば、皆が笑うのか。
誰かの願いを断ることは、誰かを見捨てることのように見えた。
だが、すべてに応えれば、自分の大切なものが自分のものではなくなっていく。
子どもは考えた。
誰が本当に必要としているのか。
誰が欲しがっているだけなのか。
何を渡してよくて、何を渡してはいけないのか。
その願いは、まだ言葉にならなかった。
ただ、見定めたい、という形のない願いが、子どもの中に生まれた。
モルが鍵を前足で押さえた。
首元の古い鍵。その中央にある小さな意匠は、普段はただの飾りに見える。けれどロイには、その日だけ、閉じた目のように見えた。
三人の客は、黙っていた。
それぞれが自分の手元のカップを見ている。
「では、この輪は誰のものなのですか」
女が静かに聞いた。
「私が決めることではございません」
リゼットは答える。
「満願堂でも?」
「ええ」
「では、どうすれば」
「まず、なぜ欲しいのかを、それぞれ持ち帰ってください」
男が眉を寄せる。
「持ち帰る?」
「今日ここへ置いていくことは、おすすめ致しません」
「満願堂は納める場所ではないのか」
老人が言う。
「納める場所です。ですが、まだ納める形ではありません」
リゼットは輪を黒布ごと三人の前へ戻した。
「これは、誰かが不要だから捨てるものでも、誰か一人が勝ち取るものでもございません。まだ、願い同士が絡まっています」
「では、誰が預かるのです」
三人はまた互いを見た。
オルスがため息をついた。
「俺の店に置いとけ」
全員が彼を見る。
「俺は欲しくない。売る気もない。直すものでもない。しばらく棚に置くだけだ」
「職人さんが?」
ココが言う。
「職人だからだ。持ち主が決まらない古道具を、いくつも見てきた。誰かが欲しがっている間は、物が壊れやすい」
「壊れやすい?」
「力を入れすぎるからな」
オルスは三人を見た。
「一月預かる。その間に、あんたらはそれぞれ、なぜ欲しいのか書いてこい。家の誇りか、取り戻したいのか、村の記憶か。書けないなら、たぶん欲しい理由を自分でも見てない」
三人は不満そうだった。
だが、誰もすぐには反論しなかった。
リゼットは微笑んだ。
「よい預かり方かと」
「納めるわけじゃない」
オルスは念を押す。
「ただ置くだけだ」
「ええ。置くことにも、意味がある日がございます」
その日、古い輪は満願堂には納められなかった。
黒布に包まれ、オルスの工具袋とは別の小さな箱に入れられた。三人はそれぞれ不満を抱えながらも、店を出た。
ココは見送った後、小さく言った。
「受け取らないのも、満願堂なんですね」
「ええ」
リゼットは頷く。
「受け取らないことで、迷わせずに済む願いもございます」
ロイは首元の鍵を見るモルを見た。
「見定めたい、という願いが、鍵の目へ繋がるのですか」
リゼットはロイを見た。
ほんの少しだけ、驚いたように。
「そのように、考えられております」
「考えられている?」
「古いことですから」
それ以上、彼女は言わなかった。
だがロイには、リゼットが知らないのではなく、言い切らないのだと分かった。
満願堂には、言葉にすると形が固まりすぎるものがある。
閉じた目は、まだ完全には開かない。
数日後、オルスの店で、古い輪は棚の上に置かれていた。
三人はまだ誰も来ていない。輪は静かにしている。欲しがる声から少し離れただけで、金属のくすみが落ち着いたように見えた。
オルスはそれを見て呟いた。
「誰のものか分からない物は、しばらく誰のものでもない場所に置くのが一番だ」
満願堂では、モルがその日のことを思い出したように鍵をつついていた。
「ほしい、いっぱい」
「ええ」
リゼットは答える。
「願いが多いと、見定めるものが必要になります」
「鍵?」
「いつか、そうなったのでしょう」
モルは自分の首元の鍵を見下ろした。
「モル、鍵もってる」
「はい」
「でも、見てない」
「閉じた目は、いつも開いているわけではございませんから」
モルは納得したような、していないような顔で丸くなった。
棚の奥では、鈴と箱と布人形の欠片が静かに眠っている。
そしてどこか遠くで、願いの多い子が、誰に何を渡せばよいのか分からず、小さな手を握っていた。
一月後、三人は本当にオルスの店へ戻ってきた。
男は家系図の写しを持っていた。女は母方の家に残っていた古い手紙を持ってきた。老人は村の共同倉庫にあった祭礼記録を持っていた。
三人とも、自分の正しさを証明するために来たはずだった。
だが、紙を広げてみると、話は少し変わった。
男の家系図には、輪を保管していたという記述がある。女の手紙には、輪が一度持ち出されたとある。老人の祭礼記録には、同じ輪らしきものが村の儀式で使われていたと書かれている。
どれも完全ではない。だが、どれも嘘ではなかった。
オルスは三つの紙を見て、言った。
「つまり、誰のものでもあって、誰のものでもない」
三人は黙った。
満願堂へ輪を持ち込んだ時より、空気は少しだけ違っていた。自分だけが正しいと言うには、他の二人の紙にも重みがあった。
結局、輪はすぐには誰のものにもならなかった。
半年ごとに三家で預かる、という案も出た。村の記録館へ置く案も出た。満願堂へ納める案も出たが、リゼットはまだ受け取らなかった。
「納める時ではございません」
そう言っただけだった。
帰り道、ロイはオルスに聞いた。
「解決したのでしょうか」
「してない」
オルスは即答した。
「でも、壊れなかった」
「それでいいのですか」
「今日のところはな」
その言葉は、妙に満願堂らしかった。
すべての願いが、一度で納まるわけではない。誰かの手に戻るわけでも、奥の棚へ行くわけでもない。
時には、欲しがる人々が自分の欲しさを見つめる間、ただ壊れないように置かれるものもある。
モルはその話を聞いて、満足そうに言った。
「まだ」
「ええ」
リゼットは頷く。
「まだ、なのですね」
その“まだ”が、拒絶ではなく余白として響いたことを、ロイは覚えていた。




