第六十二話 雨を呼ぶ人形
雨の日に届いた納め物は、濡れていなかった。
不思議なことではない。逓便局の鞄はよく手入れされているし、ココは雨の日の配達に慣れている。荷物を包む布にも油が引かれ、納め札にも水は染みていなかった。
それでも、満願堂のカウンターに置かれた瞬間、その包みは雨の匂いを強くした。
「ぬれてないのに」
モルが鼻をひくつかせる。
「雨」
ココは外套の雫を払った。
「今日は外も雨ですよ」
「外じゃない」
「中の雨ですか?」
「うん」
モルが真面目に頷いたので、ココは少し困った顔をした。
リゼットは包みを受け取る。黒い紐。暗い赤の封蝋。納め札。札には、差出人の名が書かれていなかった。代わりに、かすれた字で一言だけある。
古き布人形の欠片。
ロイも同行していた。雨の日の納め物は二人で回るよう、ヴェルナーが念を押したからだ。ロイはカウンターに置かれた包みを見て、少しだけ息を詰めた。
昨日の落書きの紙。願いの多い子。雨の点。
その続きが届いたのだと、理屈ではなく感じた。
リゼットは封蝋を確かめ、紐をほどいた。
中には、小さな布片があった。
白かったのだろう。今は古びて、灰色とも黄ばみともつかない色をしている。端には細い糸が残り、丸い頭の一部だったようにも見えた。
ココは言った。
「人形、ですか?」
「人形の一部でしょう」
リゼットは黒布の上へ置く。
布片は動かない。けれど、置いた場所の周りだけ、空気が湿った。
モルが一歩下がった。
「泣いたにおい」
「子どもの?」
ロイが聞く。
「うん。あと、土」
「土?」
「かわいた土」
リゼットは頷いた。
「雨を呼ぶ人形に関わる欠片かもしれません」
雨は窓を叩いていた。
満願堂の中は暖かい。茶葉の香りもある。それなのに、布片を見ていると、乾ききった畑の匂いがするようだった。
昔、願いの多い子が泣いた夜、人形が雨を呼んだ。
リゼットは静かに話し始めた。
最初の雨は、家の周りだけに降った。
子どもが夜泣きをした。母は抱き上げ、背を撫で、眠らせようとした。だが子どもは人形を握りしめたまま泣き続けた。
翌朝、家の軒先だけが濡れていた。
空は晴れている。周りの道は乾いている。けれど、その家の庭と、井戸の周りと、子どもの寝室の窓下だけが、雨に打たれたように黒く湿っていた。
母は怖がった。
父は屋根を調べた。どこにも水は漏れていない。
子どもは泣き疲れて眠っていた。手の中の布人形だけが、しっとりと濡れていた。
それが最初だった。
「家の人たちは、どうしたんですか」
ココが聞いた。
「最初は、誰にも言わなかったのでしょう」
リゼットは答える。
「言えば、怖がられるからです」
けれど、秘密は長く続かなかった。
その年、雨が少なかった。井戸は浅くなり、畑の土はひび割れた。水をめぐって人々は苛立ち、祈りを捧げ、雲のない空を恨んだ。
そんな時、子どもの家の周りだけが濡れていることに、誰かが気づいた。
はじめに頼みに来たのは、近所の老人だった。
彼は悪い人ではなかった。
畑が乾いている。孫に食べさせる麦が枯れる。少しだけでいい。人形を持って畑の近くで泣いてくれないか。
そう頼んだ。
母は断った。
子どもを泣かせるために連れていくなど、できない。
だが老人は土の入った手を見せた。乾ききり、指の間で粉になって落ちる土だった。
母は迷った。
そして、子どもを抱いて畑の端まで行った。
子どもは人形を持っていた。
泣く必要はなかった。知らない場所に連れてこられ、人々に見られ、空気の乾いた畑で怖くなっただけで、すぐに泣いた。
その夜、畑に雨が降った。
人々は喜んだ。
母は、子どもを強く抱きしめた。
「悪いことじゃないのに、嫌ですね」
ココが小さく言った。
リゼットは頷く。
「ええ。悪いことだけで願いは歪みません」
ロイは布片を見た。
子どもが泣いたことで、畑は助かった。老人も孫も救われたのかもしれない。けれど、その雨は子どもの涙を使った雨だった。
どこからが優しさで、どこからが利用なのか。
満願堂では何度も見てきた境目だった。
雨を呼ぶ人形の噂は広がった。
次に来た者は、もっと遠い畑の者だった。さらに次は、商人だった。雨が降れば運河の水位が戻り、荷が運べると言った。誰かは薬草畑を救いたいと言い、誰かは井戸が涸れる前に水を戻したいと言った。
母は断るたびに苦しんだ。
助けられるのに助けないのか、と言われる。子どもの涙で人が救えるなら、それは恵みではないか、と言われる。
父は戸を閉める時間を早めた。
窓に布を掛け、子どもを人の目に触れさせないようにした。
けれど、雨を求める者たちは戸口に立ち続けた。
子どもはだんだん、人形を隠すようになった。
「人形は、雨を降らせたがっていたのでしょうか」
ロイが尋ねた。
リゼットはすぐには答えなかった。
布片に目を落とす。
「願い物は、持ち主の願いに応えます。けれど、応え続けるうちに、応える形だけを覚えてしまうことがございます」
「泣けば雨、ですか」
「ええ」
「それは……つらいですね」
「はい」
モルが布片に鼻を近づけた。
「雨、ほしい。泣く、いや。雨、ほしい。泣く、いや」
短い言葉が、布片の中に残った気配をなぞるようだった。
リゼットは布片を黒布で包み直さず、そのまま少しだけ置いておいた。
雨はまだ窓を叩いている。
やがて、母の願いが強くなった。
この子の大切なものを守りたい。
人形を誰にも奪わせたくない。子どもの涙を誰かの都合に使わせたくない。雨を願う人々が悪人ではなくても、この子の人形はこの子のものでいてほしい。
その願いは、母の中で少しずつ形を持つ。
まだ金庫ではない。まだ奥の部屋でもない。
ただ、守る場所がほしいという切実な思いだった。
リゼットはそこまで話して、言葉を止めた。
ココは息をしていなかったことに気づいたように、深く息を吐いた。
「その人形は、どうなったんですか」
「全部は残っていません」
リゼットは言った。
「だから、今日来たのは欠片なのでしょう」
「納めますか?」
ロイが聞く。
「ええ。ですが、奥の部屋ではありません。これは満願具そのものではなく、古い願い物の欠片です」
モルが言う。
「泣いたの、まだある」
「はい」
「雨、まだある」
「ええ」
リゼットは黒布を用意した。
その時、扉の鈴が鳴った。
入ってきたのは、ニナだった。
花屋の娘。かつて晴れ乞いの人形を納めた客。今は花屋の仕事にも慣れ、雨の日用の花を自分で選べるようになっている。
彼女は腕に雨粒のついた花束を抱えていた。
「こんにちは。雨の日の花を少し置かせてもらおうと思って」
リゼットは微笑んだ。
「ありがとうございます、ニナさん」
ニナはカウンターの上の布片を見て、ふと足を止めた。
「……雨の匂いがしますね」
モルが顔を上げる。
「わかる?」
「なんとなく」
ニナは苦笑した。
「前に、晴れを借りすぎたからかもしれません」
ココはニナを見て首を傾げたが、深くは聞かなかった。
ニナは布片が何かを知らない。リゼットも説明しなかった。ただ、ニナは花束から一輪、雨粒をよく受ける白い花を抜き、カウンターの端に置いた。
「雨の日には、雨の日の花があるって、やっと分かってきました」
その言葉は、布片へ向けられたものではなかった。
けれどロイには、欠けた人形のそばに小さな返事のように置かれた気がした。
ニナは紅茶を一杯飲み、雨が少し弱まる頃に帰っていった。
リゼットは布片を黒布に包む。
「雨を借りる願いも、雨を呼ぶ願いも、似ているようで違いますね」
ロイが言った。
「ええ」
リゼットは頷く。
「けれど、どちらも空へ手を伸ばす願いです」
「空は、誰のものでもないのに」
「だからこそ、人は欲しがるのかもしれません」
奥の棚に、雨を呼ぶ人形の欠片は納められた。
棚を閉じると、窓の雨音が少しだけ遠くなった。
その夜、満願堂の外ではまだ雨が降っていた。
だが店内の空気は、昼より軽い。カウンターの端には、ニナの置いていった白い花がある。雨粒を受けて、花弁の縁が静かに光っていた。
モルがその花の匂いを嗅ぐ。
「雨、きらいじゃない」
「そうですね」
リゼットは答える。
「雨は、泣くためだけのものではありませんから」
棚の奥で、古い布片は沈黙している。
もう雨を呼ぶことはない。子どもを泣かせることもない。
ただ、どこか遠い昔に泣いた子どもの願いだけが、満願堂の奥でようやく少し乾き始めていた。
数日後、雨が上がった朝に、ニナはもう一度満願堂へ来た。
今日は花束ではなく、小さな鉢を抱えている。雨上がりの土に強い、薄い紫の花だった。
「これ、雨のあとに元気になる花なんです」
ニナは少し恥ずかしそうに言った。
「前は、晴れた時に綺麗な花ばかり見ていました。でも最近は、雨のあとに立ち直る花を見るのも好きになりました」
リゼットは鉢を受け取らず、カウンターの端に置いてもらった。
「満願堂に合いますね」
「そうですか?」
「ええ。満願堂には、雨が止んだ後に来る方も多いですから」
ニナは笑った。
「私もそうでしたね」
モルが鉢の匂いを嗅ぐ。
「土、いい」
「モルさん、花も分かるんですか」
「土」
「花じゃなくて土なんですね」
ニナが笑うと、モルは真面目に頷いた。
雨を呼ぶ人形の欠片は、奥の棚で静かにしている。ニナはそれを知らない。それでも、彼女が雨の日の花を満願堂へ置いたことは、どこかで人形の欠片に届くような気がした。
リゼットは鉢の下へ小さな皿を敷いた。
「雨を避けることだけが、花を守ることではありませんね」
「はい」
ニナは少しだけ遠い目をした。
「でも、晴れてほしい日は、今でもあります」
「当然です」
リゼットは穏やかに言った。
「願いは、消さなくてよいものです。ただ、借りすぎないようにすれば」
ニナは頷いた。
その言葉は、かつての自分へ届いているようでもあり、遠い昔の雨を呼ぶ子どもへ届いているようでもあった。
雨を呼ぶ人形の欠片が来てから、リゼットは雨の日に窓を少しだけ開けるようになった。
湿った空気が本を傷めない程度に。茶葉の香りが逃げすぎない程度に。外の雨が、店の中の願いと混ざりすぎない程度に。
その加減は難しい。
願いも、雨も、完全に閉じ込めれば重くなる。好きに入れれば濡れてしまう。
リゼットは窓の留め具を調整しながら、遠い昔の母もまた、戸と窓の開け方に迷ったのだろうと思った。




