第六十一話 願いの多い子
その納め物は、紙一枚だった。
黒い紐で括るには薄すぎ、箱に入れるには軽すぎる。けれど逓便局は、それをいつもの通りに扱った。厚紙で挟み、黒い紐をかけ、暗い赤の封蝋を落とし、納め札を結ぶ。
ココはそれを両手で持っていた。
「紙だけなのに、納め物なんですね」
隣を歩くロイが頷く。
「軽いからといって、普通便とは限らない」
「局長補佐みたいなこと言いますね」
「言われすぎた」
ココは耳を揺らした。
納め物は重いものばかりではない。小さな指輪、欠けた針、古い栞、一枚の紙。中身の重さと、扱う時の緊張は一致しない。ココもそれを少しずつ覚えてきた。
満願堂の扉を開けると、紅茶と古書の匂いがした。
「逓便局です、お届け物です!」
「いらっしゃいませ」
リゼットはいつものようにカウンターの奥にいた。モルは棚の上から顔を出し、納め物を見るなり耳を動かした。
「紙」
「紙です」
ココは少し得意げに言った。
「でも納め物です」
「うん。におい、ある」
リゼットは両手で受け取った。納め札を確認し、封蝋を見た。月環、扉、閉じた目。その紋章は今の逓便局のものだったが、紙を包む厚紙の中からは、それより古い気配が滲んでいるようだった。
「開けても?」
ロイが聞くと、リゼットは頷いた。
「ええ。これは満願堂へ戻ってきたものです」
黒い紐をほどく。封蝋は壊さず、結び目だけを解く。厚紙の間から出てきたのは、子どもの落書きのような紙だった。
線は拙い。丸い人、三角の屋根、雨のような点、鐘のような丸、箱のような四角。絵とも記号ともつかないものが、紙いっぱいに散っている。
ココは首を傾げた。
「かわいいですね」
ロイは答えなかった。
ただの子どもの絵に見える。けれど、目を離そうとすると、紙の上の丸や線が、ほんの少しだけ違う形に見えた。人形。鈴。箱。扉。鍵。
リゼットはしばらく紙を見ていた。
「願いの多い子の記録に似ています」
「願いの多い子?」
ココが聞く。
「月環の堂が、まだ堂と呼ばれる前の話です」
リゼットはそう言い、紙を黒布の上へ置いた。
ロイはその言い方に気づいた。リゼットは知っている。けれど、知っていることをそのまま口にしようとはしない。古い記録を扱う時、彼女はいつもより少しだけ遠くを見る。
モルが紙に鼻を寄せる。
「こども」
「子どもの匂いか」
ロイが聞くと、モルは首を横へ振った。
「こども、だけじゃない」
「では?」
「いっぱい」
モルは短く言った。
「願い、いっぱい」
その夜、リゼットは古い納願帳を開いた。
納願帳と呼ぶには、そこにあるのは今の帳面ではなかった。黒布に包まれ、鍵のない引き出しに眠っていた薄い写し。紙は古く、文字はところどころ失われている。
ココとロイは帰った。店にはエリアスが一人、窓際で本を読んでいる。オルスは来ていない。ヴェルナーもいない。
リゼットはカウンターの灯りを少し落とし、落書きの紙と古い写しを並べた。
モルが隣に座る。
「読む?」
「少しだけ」
「こども?」
「ええ。願いを宿しやすい子どもの話です」
昔、月環街が今の形になる前、ある家に子どもがいた。
その子は、よく泣き、よく笑い、よく寂しがった。特別な血筋だったのか、生まれつきそうだったのかは分からない。今の満願堂にも、そこまでの記録は残っていない。
ただ、その子の願いは物に宿りやすかった。
泣いた夜、枕元の布人形が湿り、翌朝には家の周りだけ雨が降っていた。
笑った時、小さな鈴が誰も触れていないのに鳴った。
夜にひとりで眠れないと泣いた時、空の箱の中から母の声が聞こえた。
最初、それは家の中だけの不思議だった。
母は怖がった。父は戸を閉めた。子どもは、自分が何をしたのか分からず、ただ人形を抱いていた。
願いは、まだ名を持たなかった。
願具とも、魔願具とも、満願具とも呼ばれない。ただ、子どもの周りの物が、子どもの気持ちに応える。
リゼットは写しの文字を指で追った。
「願い物という言葉も、まだ安定していませんね」
「ない?」
「ええ。ここでは、ただ“あの子の物”と書かれています」
モルは落書きの紙を見る。
丸い人。雨。箱。鈴。
「この子、泣いた?」
「泣いたでしょうね」
「笑った?」
「きっと」
「さびしい?」
リゼットは少しだけ黙った。
「とても」
エリアスが本の頁をめくる音がした。
彼女は会話に入らなかった。ただ、古い話の空気を邪魔しないように、静かにそこにいた。
リゼットは続ける。
子どもの願いは、最初は小さかった。
雨が降ってほしい。母の声が聞きたい。鈴が鳴れば楽しい。人形が濡れていると、自分が泣いたことを分かってもらえる。
それは誰にでもあるような願いだった。
けれど、物が応えたことで、願いは外へ形を持った。
形を持つと、人はそれを欲しがる。
最初に来たのは、近所の者だった。子どもが泣くと雨が降るという話を聞いた老人が、畑のために少しだけその人形を借りたいと言った。
次に来たのは、病人の家族だった。箱に声が残るなら、死にかけた母の声を残せないかと言った。
その次に来た者は、笑えば鳴る鈴を祭りで使いたいと言った。
どれも、完全な悪意ではなかった。
悪意ではなかったからこそ、母は断りきれなかった。
「悪い人じゃなかったんですね」
いつの間にか、エリアスが本から顔を上げていた。
リゼットは頷いた。
「ええ。願いを欲しがる人は、必ずしも悪い人ではありません」
「だから、難しいのね」
「はい」
モルが鼻を鳴らす。
「ほしいにおい、いっぱい」
「そうでしょうね」
子どもは、まだよく分からなかった。
自分の人形を貸せば、誰かの畑が潤う。鈴が鳴れば、祭りの人が笑う。箱に声が残れば、誰かが寂しくなくなる。
それは良いことのように見えた。
けれど、人形が戻ってきた時、子どもは泣いた。
人形は同じ形をしている。汚れてもいない。壊れてもいない。
それでも、自分のものではなくなった気がした。
願いが外へ使われるたび、その子の周りの物は少しずつ重くなっていった。
リゼットは落書きの紙を見つめる。
紙の中の丸い人は笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「この紙は、その子が描いたものなのですか?」
エリアスが尋ねる。
「それは分かりません」
リゼットは正直に答えた。
「後の誰かが、話を聞いて描いたのかもしれません。子どもの絵に似せて残したのかもしれません。ただ、匂いは近いようです」
モルは頷く。
「いっぱい。小さい。ふるい」
「では、奥へ?」
「いいえ」
リゼットは紙を黒布で包む。
「これは満願具ではありません。記録に近いものです。けれど、表へ置くものでもございません」
「奥の棚?」
「ええ。しばらく休ませましょう」
翌日、ロイが普通便を届けに来た時、リゼットは落書きの紙を奥の棚へ納めていた。
「昨日の紙ですか」
「はい」
「子どもの記録だと」
「そのようです」
ロイはそれ以上聞こうとして、一度言葉を止めた。
聞けば答えてくれるかもしれない。だが、まだ聞くには早いこともある。満願堂でそれを何度も学んできた。
「満願堂は、その子の願いから始まったのですか」
リゼットは少しだけ考えた。
「始まりの一つではあります」
「一つ」
「願いには、始まりが一つだけとは限りません」
その言葉は、どこかリゼット自身にも向いているように聞こえた。
カウンターの上で、モルが紙の包まれた棚を見上げている。
「願い、いっぱい」
「はい」
「だから、たいへん」
リゼットは微笑んだ。
「ええ。たいへんです」
ロイは、そのやり取りを黙って聞いた。
願いの多い子。
物に願いを宿した子。
それが満願堂の古い形へ繋がっていくのだとしたら、満願堂はただ人の願いを扱う店ではない。誰かの小さな泣き声や笑い声が、長い時間をかけて店になった場所なのかもしれない。
そう思うと、カウンターに置かれた一杯の紅茶まで、少し違って見えた。
その日の夕方、リゼットは奥の棚を閉じた。
中で、落書きの紙は静かにしている。雨の点、鈴の丸、箱の四角。それらはただの線に戻っていた。
けれど、モルはしばらく棚の前から動かなかった。
「モル?」
「この子、どこ?」
リゼットは答えなかった。
遠い昔の子どもが、どこへ行ったのか。生きたのか、老いたのか、忘れられたのか。記録はそこまで残していない。
ただ、その子の願いは物に宿り、物は人々に求められ、やがて納める場所を必要とした。
「どこでしょうね」
リゼットは静かに言った。
「けれど、願いは少しだけ、ここへ残っています」
モルは棚に鼻を近づけた。
「うん」
それから、小さく丸くなる。
「まだ、こども」
その言葉を聞いて、リゼットはしばらく奥の棚を見ていた。
古い願いほど大きいとは限らない。
ただ、長く残った願いの中には、時々、泣いている子どものような匂いがする。
満願堂の夜は静かだった。
棚の奥で、紙の中の小さな鈴が、鳴らないまま眠っていた。
翌日、逓便局ではロイが古い記録の写しを整理していた。
月環の堂という名は、何度見ても紙の上で少し沈んで見える。今の満願堂の軽い看板とは違う。だが、まったく別のものでもない。
ヴェルナーが背後から声をかけた。
「その紙ばかり見るな」
「すみません」
「謝る癖もつけるな。見たいなら見ろ。ただし、見たものをすぐ分かったことにするな」
ロイは写しを畳んだ。
「願いの多い子とは、実在したのでしょうか」
「記録に残る程度には、いたのだろう」
「程度、ですか」
「古い記録は、事実と恐れと噂が同じ箱に入っている」
ヴェルナーは局章を見上げた。
「大事なのは、その子が本当に何歳で、どこに住んでいたかではない。人々が、願いを物へ宿す者を恐れ、欲しがり、最後には納める場所を必要としたことだ」
ロイは黙った。
満願堂の始まりを知りたいと思っていた。けれど、ヴェルナーの言葉を聞くと、始まりを一点に絞ることが少し乱暴に思えた。
その夜、ロイは満願堂へ写しを届けた。
リゼットは受け取り、丁寧に礼を言った。モルは写しの端を嗅ぎ、「まだ、こども」と言った。
「子どもなのに、ずっと残っているんですね」
ロイが言うと、リゼットは写しを閉じた。
「子どもの願いは、小さいとは限りません」
「大きかったのでしょうか」
「いいえ」
リゼットは少しだけ首を横へ振る。
「小さかったから、長く残ったのかもしれません。泣くこと、笑うこと、寂しがること。誰もが知っている願いですから」
その言葉で、ロイは少しだけ胸の奥が冷えるような、温まるような気がした。
満願堂の奥は遠い。けれど、その始まりにあったのは、特別な呪いや大きな奇跡ではなく、子どもが泣き、笑い、寂しがったことだった。
だからこそ、今も誰かがこの店の扉を開けるのだろう。




