第六十話 白いもの
リゼットが月環街へ向かった日は、雨ではなかった。
それなのに、空はずっと濡れたような色をしていた。
処分場を出る時、彼女は大きな荷物を持たなかった。衣服を少し。帳面を数冊。燃え残った紙片。小さなペン。壊されるはずだったが、まだ壊されていない願具の記録。
それだけで、十分重かった。
家族に止められたかと聞かれれば、止められた。怒鳴られもした。泣かれもした。だが、完全に引き止める者はいなかった。
リゼットの帳面は、すでに処分場にとって厄介なものになっていた。
彼女がいると、処分役が迷う。持ち主が思い出す。壊す前に話を聞きたがる者が増える。
願具処分を担う家にとって、それは仕事を鈍らせる行為だった。
父は最後に言った。
「行くなら、壊せないものをすべて背負う覚悟をしろ」
リゼットは答えられなかった。
壊せないものをすべて背負えるなど、思っていなかったからだ。
ただ、壊したくないと思ってしまったものから目を逸らして、処分場に居続けることもできなかった。
月環の堂。
壊さずに納める場所があるという噂。
本当にあるのかどうかも分からない。その名を口にする者も少なく、教えてくれる道も曖昧だった。
月環街へ行け。
古い通りを探せ。
文字のない場所を探せ。
納める台がある。
そういう断片だけを頼りに、リゼットは旅に出た。
最初に白いものを見たのは、処分場を出て三日目の夕方だった。
街道沿いの小さな宿へ向かう道で、彼女は分かれ道に立っていた。右へ行けば大きな町。左へ行けば古い森を抜ける道。どちらが月環街へ近いのか、道標は雨で読めなくなっていた。
その時、左の道の先に、白いものがいた。
猫より大きい。犬より小さい。長い毛が夕方の光を受けて、ぼんやり光っているように見えた。耳は少し長く、尻尾はふさふさしている。
リゼットが一歩近づくと、白いものは少し進んで立ち止まった。
「あなたは」
問いかけても、返事はない。
ただ、こちらを見ている。
リゼットは左の道を選んだ。
次に見たのは、宿を出た翌朝だった。
白いものは、道の脇に座っていた。リゼットの荷物を見て、鼻をひくつかせるような仕草をする。
その仕草が、今のモルに少し似ていると、後のリゼットなら思ったかもしれない。
けれどその頃の白いものは、まだ何も喋らなかった。
名前もなかった。
ただ、願い物の匂いに惹かれるように現れた。
リゼットの鞄には、願具そのものはほとんど入っていない。だが、帳面には壊された願いや、壊されなかった願いや、壊す前に迷った願いが書かれていた。白いものは、その匂いを嗅いでいたのかもしれない。
旅は長かった。
リゼットは道を間違え、宿を間違え、時には数日同じ町に足止めされた。月環街の名は知っている者もいたが、満願堂の名を知る者はいなかった。月環の堂を知る者は、もっと少ない。
ある村で、リゼットは古い願具を見た。
村の井戸のそばに吊るされた小さな瓶。雨乞いのためのものだという。願いが染みすぎていて、触れれば小雨が降る。村人はそれを大切にしているが、怖がってもいた。
「月環の堂へ持っていけばいいと、昔は言ったらしい」
年老いた村人が教えてくれた。
「だが、道を知る者はもういない」
リゼットは白いものを見た。
白いものは、村の外れの道で待っていた。
また別の町では、壊された願具の跡を見た。
古い鈴が割られた後、持ち主だった女が、誰を待っていたのか思い出せなくなったという。人々は、それでよかったのだと言った。女は楽になったのだから、と。
リゼットは何も言えなかった。
その夜、帳面に書いた。
楽になることと、なかったことになることは、同じではない。
翌朝、白いものが宿の窓の下にいた。
まるで、その文字の匂いを嗅ぎに来たようだった。
現代の満願堂で、モルはカウンターの上にいた。
リゼットは古い紙片を前に、しばらく黙っている。
ロイはその日、普通便を届けに来ていた。ココは別の区画を回っている。店内には他に客が少なく、エリアスがいつもの席で本を読んでいるだけだった。
「リゼットさん」
ロイはためらいながら聞いた。
「月環街へ来た時、モルさんはもういたんですか」
モルが顔を上げる。
「モル、いる」
「今の話ではなく」
「今も、いる」
「そうですね」
ロイは苦笑した。
リゼットは少しだけ微笑んだ。
「いました。ただし、今のモルではありませんでした」
「今のモルではない」
「ええ。白いもの、としか呼びようのない存在でした」
モルは尻尾を揺らす。
「しらない」
「覚えていませんか」
「しらない」
そう言いながら、モルはそっとリゼットの帳面の上に前足を置いた。
ロイはその矛盾に気づいたが、口にはしなかった。
リゼットは続ける。
「その白いものは、道を教えるわけではありませんでした。言葉もありません。ただ、私が迷うと、少し先で待っているのです」
「導いた、ということですか」
「そう言えるのかもしれません」
旅の終わりに近づく頃、リゼットは疲れていた。
月環街はもう近いと聞いた。けれど、古い通りは入り組み、地図にはない道が多い。町の外れで道を聞いても、人によって答えが違う。
「満願堂なら知らないね」
「月環の堂? 古い話だよ」
「そんなもの、もう残ってないんじゃないか」
そう言われるたび、リゼットの足は重くなった。
本当にあるのか。
自分は処分場から逃げてきただけではないのか。
壊さずに納める場所など、ただの噂だったのではないか。
その夕方、リゼットは月環街の外れの橋で立ち止まった。
川は細く、石橋は古い。橋の向こうに、月環街の屋根が重なって見えた。煙突、塔、古い家々の影。
白いものは橋の上にいた。
リゼットが近づくと、白いものは橋を渡らず、こちらを見た。
初めて、待つだけではなかった。
まるで、ここから先は自分で行けと言っているようだった。
「あなたは、ここまでなのですか」
返事はない。
「私は、本当に行ってよいのでしょうか」
白いものは、リゼットの鞄へ鼻を近づけた。
そこには帳面があった。壊された願い、壊せなかった願い、忘れられたくなかった願い。重く、拙く、まだ行き先のない文字たち。
白いものは、それを嗅いでから、橋の向こうを見た。
リゼットは歩き出した。
月環街へ入ると、街は思ったより普通だった。
市場がある。馬車が通る。子どもが走る。パン屋の匂いがする。願い物の気配など、どこにでもあるようで、どこにもないように感じられた。
リゼットは古い通りを探した。
文字のない場所を探した。
紅茶の香りは、まだない。
古書の棚も、まだない。
ただ、細い路地の奥に、古い壁と、扉のないような暗がりがあった。
そこに、白いものが座っていた。
今度は、橋の上ではなく、暗がりの入口で。
リゼットは足を止めた。
「ここですか」
白いものは答えない。
ただ、少しだけ尾を揺らした。
その奥に、納め台があった。
古い木の台。使われていないのに、磨かれたような艶がある。周囲には誰もいない。看板もない。店でもない。けれど、そこは確かに何かを置くための場所だった。
月環の堂。
リゼットは、その名を声に出さなかった。
声に出せば、旅が終わってしまう気がしたからだ。
現代の満願堂で、ロイはリゼットの話を聞き終えても、しばらく何も言えなかった。
モルはカウンターの上で丸くなっている。
「モルさんは、リゼットさんを導いたんですね」
「しらない」
モルは即座に言う。
「でも、いたのでしょう」
「いた」
「覚えているんじゃないですか」
「しらない」
その繰り返しに、エリアスが窓際で小さく笑った。
「モルは、知っていることと覚えていることを、よく別々に持っているわ」
リゼットは微笑んだ。
「そうかもしれません」
ロイはモルを見た。
リゼットより古い存在。納め台のそばにいた白い影。願いを叶えず、返さず、ただ迷っているもののそばにいたもの。
今のモルは、はんこを押し、クッキーを気にし、ココに撫でられ、店番もする。
その差が、不思議に胸を温かくした。
「モルさん」
「なに」
「今の方が、楽しそうですね」
モルは首を傾けた。
「今?」
「はい」
「リゼットいる。紅茶ある。クッキーある。ココ、なでる。ロイ、かたい」
「最後は必要ですか」
「いる」
エリアスがまた少し笑った。
リゼットも微笑む。
その笑みは、昔を語る時の遠さから、今の満願堂の柔らかさへ少し戻っていた。
夜、閉店後の満願堂で、リゼットは一人、納願帳を開いた。
モルはカウンターの上で眠っている。
白いものだった頃、モルは喋らなかった。名前もなかった。ただ、願いの匂いに反応し、納め台のそばで丸くなっていた。
リゼットが名前をつけた。
けれど、その話はまだ少し先にある。
今はただ、あの白いものがいなければ、自分は月環の堂へ辿り着けなかったのだと、リゼットは思う。
「モル」
小さく呼ぶと、モルは眠ったまま尻尾を動かした。
「しらない」
寝言のように言う。
リゼットは静かに笑った。
「ええ。そういうことにしておきましょう」
満願堂の奥で、黒鉄の扉が静かに閉じている。
その向こうには、まだ語られていない古い願いが眠っている。
リゼットが月環街へ辿り着いた時、そこはまだ満願堂ではなかった。
ただの月環の堂だった。
願い物を置くための場所。
白いものが眠る場所。
そして、リゼットの願いが、まだ形を持つ前の場所だった。
月環街へ入ってからも、リゼットはすぐに月環の堂へ辿り着いたわけではない。
街は入り組んでいた。表通りは賑やかで、商人の声が飛び交い、子どもが走り、石畳には馬車の跡が残っている。路地へ入れば、急に音が遠くなり、古い店の看板が影のように並ぶ。
リゼットは何人にも尋ねた。
月環の堂をご存じですか。
願い物を納める場所はありませんか。
多くの人は首を傾げた。何人かは、古い言い伝えなら聞いたことがあると言った。ひとりの老人は、昔はこの奥に何かあったらしいと教えてくれた。
白いものは、姿を見せたり消えたりした。
リゼットが焦るといなくなる。諦めかけると、少し先の角にいる。まるで、道そのものではなく、リゼットの迷いを見ているようだった。
三日目の夕方、リゼットは細い路地で足を止めた。
そこには店のようで店ではない場所があった。扉はない。看板もない。古い壁の奥に、小さな空間があり、その中央に納め台がある。
白いものは、台のそばに座っていた。
リゼットは息を詰めた。
ここだ、と思った。
なぜそう思ったのかは分からない。月環の堂と書かれた札があったわけではない。誰かが教えてくれたわけでもない。ただ、鞄の中の帳面が、そこへ向かって重くなった。
リゼットは納め台へ近づいた。
台の上には何もない。だが、何もないからこそ、そこは何かを待っているように見えた。
白いものは鳴かない。
喋らない。
ただ、リゼットと帳面を見ている。
「私は、ここへ来てよかったのでしょうか」
返事はない。
リゼットは帳面を取り出した。
壊された願い、壊せなかった願い、処分場で迷った願い。若い文字で埋まった頁たち。
それを台へ置くことは、少し怖かった。
置けば、何かが終わる気がした。
同時に、何かが始まる気もした。
リゼットはまだ置かなかった。
その時、白いものが初めて、台へ前足をかけた。
小さく、静かな動きだった。
リゼットはそれを見て、ようやく理解した。
ここは、奪う場所ではない。
置かせる場所でもない。
置きたいものが、自分で置かれるのを待つ場所なのだ。
現代の満願堂で、モルはその話を聞きながら、眠そうに目を細めていた。
「モル、本当に覚えていないのですか」
リゼットが聞くと、モルはいつものように言った。
「しらない」
「そうですか」
「でも」
モルは少しだけ尻尾を動かした。
「台、すき」
リゼットは微笑んだ。
「ええ。知っています」
ロイはそのやり取りを見て、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
モルは古い。リゼットより古い。けれど、今のモルには、リゼットと過ごした時間がある。はんこを押し、クッキーを選び、店番をし、ココに撫でられ、ロイを硬いと言う。
古い白いものが、今のモルになるまでには、きっと長い時間があった。
その時間もまた、満願堂の一部なのだ。
夜、リゼットは一人でカウンターを拭いた。
かつて納め台へ帳面を置く前、彼女は長く迷った。今の満願堂があるのは、その迷いの後だ。
迷ったことは、無駄ではなかった。
それでも、あの時の白いものがいなければ、彼女は台の前から逃げていたかもしれない。
「モル」
リゼットは眠っている白い背に向けて言った。
「ありがとうございます」
モルは目を開けずに答えた。
「しらない」
「ええ」
リゼットは灯りを落とした。
「それでも、ありがとうございます」
黒鉄の扉の向こうには、まだ語られるべき古い願いが眠っている。
月環の堂は、まだ満願堂ではない。
けれど、そこにはもう、納める場所と、白いものと、リゼットの帳面があった。
リゼットは、ようやく満願堂の奥へ近づき始めていた。
月環の堂へ辿り着いた日の夜、リゼットは近くの安宿に泊まった。
帳面はまだ台へ置いていない。鞄の中にある。だが、前日までとは重さが違った。行き先のない重さではなく、行き先の前で待っている重さだった。
リゼットは眠れなかった。
処分場を出たこと。家族の顔。壊された箱。止まった手。帳面を燃やそうとした炎。すべてが順番もなく浮かぶ。
夜明け前、窓の外を見ると、白いものが宿の向かいの屋根にいた。
月明かりの残る屋根瓦の上で、静かに丸くなっている。
「あなたは、あそこで眠るのですね」
もちろん、返事はない。
それでもリゼットは少し安心した。
自分だけが、この場所に辿り着いたわけではない。あの白いものも、ここにいる。理由は分からない。けれど、完全に一人ではない。
朝になると、白いものはいなくなっていた。
リゼットは帳面を持ち、再び納め台の前へ向かった。
その時の話を、現代のリゼットはまだ誰にも詳しく語っていない。
帳面を台へ置いた瞬間に何が起きたのか。月環の堂がどのように応えたのか。白いものが何をしたのか。
それは、もう少し後に語られるべきことだった。
今はただ、ロイが満願堂の奥を見つめている。
「リゼットさん」
「はい」
「その白いものは、リゼットさんを助けたんですね」
リゼットは少し考えた。
「助けた、という言葉が合うかは分かりません」
「では」
「待っていてくれました」
ロイは黙った。
助けるのではなく、待つ。
道を教えるのではなく、少し先で待つ。
それはモルらしい気がした。
モルはカウンターの上で丸くなっている。
「モル、待てる」
「そうですね」
「クッキーも、待てる」
「それは時々、待てていません」
「待てる日もある」
リゼットは笑った。
その笑いは、白いものを語る時の遠さから、今の満願堂へ戻ってくる笑いだった。
ロイはその笑顔を見て、胸の奥で思った。
満願堂の過去は、暗いだけではない。
そこには、待っていた白いものがいた。
そして今、その白いものは、モルという名前でカウンターの上にいる。
それだけで、古い物語は少しだけ温かくなる。




