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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第二章 奥の棚に眠るもの

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第五十九話 壊さない手

処分場で最初に滞った仕事は、小さな櫛だった。


象牙ではない。高価なものでもない。木でできた、粗末な櫛。歯の一部が欠け、油も抜けている。普通なら、処分役はそれをためらわず折っただろう。


けれど、その日、櫛を受け取った男は手を止めた。


「本当に壊していいのか」


誰に向けた言葉でもなかった。


それでも、部屋にいた者たちは彼を見た。


リゼットは隅で帳面を抱えていた。


櫛の持ち主は、老いた母の遺品を処分したいと言っていた。母はその櫛で、毎朝髪を梳いていた。持ち主は、それを見るたびに母の背中を思い出す。苦しいから処分したい、と。


リゼットはそれを書き留めた。


櫛は、母の背中を覚えている。


その文字を、処分役の男はちらりと見てしまった。


見て、それから櫛を折れなくなった。


それが始まりだった。


リゼットの帳面は、願具として働き始めていた。読んだ人に、失われた願いを少しだけ思い出させる。それだけなら、まだ仕事に大きな支障はなかった。


だが、やがて帳面はもっと強くなった。


読むと、壊す前に迷う。


強制ではない。手が動かなくなるわけではない。壊そうと思えば壊せる。だが、心のどこかで一度、問いが起こる。


本当に、これを壊していいのか。


処分場では、それが問題になった。


仕事は速さが必要だった。願具は持ち主の手を離れた後も、いつまでも安全とは限らない。思い出を呼びすぎるもの、痛みを移すもの、眠りを奪うもの、家の中で勝手に動くもの。持ち込まれた品を長く置けば、処分場そのものが願いの溜まり場になる。


だから壊す。


そう教えられてきた。


リゼットの家族も、その仕事で暮らしていた。


「余計なことをするな」


父は言った。


「処分する品に、名前を残す必要はない」


「でも、誰かが願ったものです」


「願ったから厄介になったんだ」


父の声は冷たかったわけではない。


むしろ、疲れていた。


長く願具の処分に関わってきた者ほど、壊すことの必要を知っている。壊さなければ、持ち主が離れられない品もある。家族を苦しめ続ける品もある。


リゼットも、それを知らないわけではなかった。


ただ、壊した後に願いまで消えることが、どうしても嫌だった。


現代の満願堂で、リゼットは古い帳面の欠片を見ていた。


それは処分場跡から出た紙片の一部で、端が焼けている。文字は半分しか読めない。


壊す前に――


本当に――


どこかへ――


それだけだった。


ロイは配達の帰りに、リゼットがその紙片を見つめているところに出会った。


「お届け物です」


「ありがとうございます、ロイさん」


いつもの声だった。


だが、紙片を隠そうとはしない。


ロイは尋ねるか迷った。最近、満願堂には古いものが次々に戻ってきている。月環の堂、納め台、処分場、リゼットの帳面。何かが一つの場所へ向かっている気がする。


「その紙も、処分場のものですか」


「ええ」


「リゼットさんが書いたものですか」


「おそらく」


おそらく、という言い方が少し不思議だった。


自分の文字なら分かるはずだ。けれど、長い時間を隔てると、自分の文字でさえ他人のもののようになるのかもしれない。


モルがカウンターの上で紙片の匂いを嗅いだ。


「迷うにおい」


「迷う?」


「壊す手、止まる」


リゼットは頷いた。


「この頃、私の帳面は魔願具になり始めていたのだと思います」


ロイは驚いた。


「リゼットさんの帳面が」


「はい」


「願具ではなく、魔願具に」


「ええ」


リゼットは紙片を黒布ではなく、白い紙の上に置いた。


「書かれた願いを思い出すだけでなく、壊そうとする方を迷わせるようになりました」


「それは、悪いことだったんですか」


ロイが聞くと、リゼットは少しだけ目を伏せた。


「必要な処分を遅らせることもございました」


「でも」


「はい」


リゼットは静かに続ける。


「救われた方も、いたかもしれません」


処分場では、意見が割れた。


ある者は、リゼットの帳面を危険だと言った。壊すべき品を壊せなくするなど、処分場にとっては害でしかない。


ある者は、帳面を密かに読みに来た。


自分が処分する品に、何が願われていたのかを知るために。


リゼットの母は泣いた。


「あなたは、家の仕事を壊すつもりなの」


リゼットは答えられなかった。


壊したいわけではない。


けれど、壊す前に立ち止まってほしかった。


それは優しさだったのか。傲慢だったのか。


今のリゼットにも、完全には分からない。


ある日、処分場に持ち込まれたのは、古い鏡だった。


若い娘が死んだ母の姿を見てしまう鏡。父親は、それを処分してほしいと言った。娘は鏡を見るたびに母に話しかけ、学校にも行かず、食事も減っていた。


処分役は、壊すべきだと判断した。


リゼットも、そう思った。


だが、帳面には娘の言葉が書かれていた。


母を忘れたくない。


母の声はもう思い出せない。でも鏡の中では、母が笑っている。


処分役はその文を読み、手を止めた。


壊せば、娘は鏡から離れられるかもしれない。だが、母の笑顔も遠くなるだろう。


どうするべきか。


迷っている間に、娘が処分場へ駆け込んできた。


彼女は泣きながら鏡を抱いた。


「壊さないで」


父親は怒った。


処分役たちは困った。


リゼットは、帳面を抱えて立っていた。


最終的に鏡はその場では壊されなかった。


別の方法で、娘が少しずつ鏡から離れる時間を作ることになった。完全な救いではない。家族は疲れ、処分場は責められた。だが、少なくとも、その日、鏡は壊されなかった。


リゼットはそれを正しいと言い切れなかった。


けれど、間違いだったとも言えなかった。


現代の満願堂で、ロイはその話を聞きながら思った。


リゼットは、最初から満願堂の管理人だったわけではない。


納める場所を作る前に、壊す場所にいた。


だからこそ、壊すことの必要も、壊さないことの苦しさも知っている。


「その帳面は、処分場ではどうなったんですか」


ロイが聞くと、リゼットは紙片を見た。


「長くは置いておけませんでした」


「捨てられたんですか」


「燃やされかけました」


モルが低く言う。


「灰のにおい」


リゼットは頷く。


「けれど、全部は燃えなかったのでしょう。こうして欠片が戻ってきていますから」


ロイは何も言えなかった。


燃やされかけた帳面。壊す前に迷わせる記録。それが今、満願堂へ戻ってきている。


何かが、長い時間をかけて帰ってきている。


その夕方、オルスが満願堂へ寄った。


修理依頼ではなく、紅茶だけだった。最近の彼は、時々そうして来る。


カウンターの紙片を見ると、すぐに顔をしかめた。


「焦げた紙か」


「ええ」


「燃え残りは厄介だ」


「どうしてですか」


ロイが尋ねる。


オルスは椅子に座りながら答えた。


「燃えたものは戻らない。燃え残ったものは、何で残ったのか考えさせる」


リゼットは静かに微笑んだ。


「職人らしい言葉ですね」


「褒めるな。落ち着かん」


オルスは紙片を見て言った。


「これは直せないな」


「はい」


「だが、読めるところはある」


「ええ」


「なら、読め」


リゼットは少しだけ目を見開いた。


オルスは紅茶を受け取り、ぶっきらぼうに続ける。


「読めるものを読まずに、燃えたものばかり見てても仕方ないだろ」


その言葉は乱暴だった。


けれど、リゼットの胸に静かに届いた。


処分場にいられなくなった頃、リゼットは月環街の噂を聞いた。


願い物を壊さずに納める場所がある。


月環の堂。


最初は、ただの噂だと思った。


処分場の誰かが言った。


「そんな場所があるなら、持ち込む者は皆そちらへ行くだろう」


別の者は笑った。


「壊さずに済むなら、誰も苦労しない」


リゼットも、すぐには信じなかった。


だが、燃えかけた帳面の欠片を抱えた夜、彼女は初めて、その名をもう一度思い出した。


月環の堂。


壊さずに、納める場所。


その言葉は、救いではなく、問いだった。


本当にそんな場所があるのか。


もしあるなら、自分はそこへ行くべきなのか。


逃げるために。


それとも、願いを壊さないために。


満願堂のカウンターで、リゼットは紙片を納願帳の隣へ置いた。


「これはまだ納めません」


「またですか」


オルスが言う。


「最近、納めないものが増えたな」


「ええ」


「満願堂なのに」


「満願堂だからこそ、でしょうか」


オルスは鼻を鳴らした。


「ややこしい店だ」


モルが言う。


「まだ、読む」


「はい」


リゼットは紙片を見た。


壊す前に。


本当に。


どこかへ。


欠けた文字の間に、若い頃の自分がいる。


そして、その先に月環街へ向かう道があった。


ロイは帰り際、満願堂の看板を見上げた。


ティーポット。古書。小さな鍵。


今では見慣れた紋章だ。


けれど最近、その可愛らしい看板の奥に、壊されかけた帳面や、月環の堂や、納め台や、白いものの気配が重なって見える。


満願堂は、ただ願いを売る店ではない。


願いを壊す前に、一度立ち止まるための場所でもある。


そのことを、ロイはようやく少しだけ理解し始めていた。


リゼットが月環の堂の噂を聞いた夜、処分場では雨が降っていた。


屋根を叩く雨音が強く、壊される品の小さな音をかき消していた。処分役たちは黙々と働き、リゼットの帳面は、作業台の下に隠されていた。


その帳面を、同じ年頃の処分役見習いが見つけた。


彼はリゼットを責めなかった。


ただ、ぱらぱらと頁をめくり、困ったように言った。


「これを読むと、手が止まる」


「ごめんなさい」


リゼットは謝った。


「謝ることかは分からない」


彼は帳面を返した。


「でも、俺は仕事ができなくなる」


その言葉は、父や母の叱責よりもリゼットに刺さった。


壊す仕事をしている人々も、悪人ではない。彼らは必要な仕事をしている。誰かが苦しみから離れるために、願具を壊す。危険な品を終わらせる。


自分の帳面は、その手を止める。


それは優しさなのか、邪魔なのか。


リゼットは分からなくなった。


だからこそ、月環の堂という噂が胸に残った。


壊さない場所があるなら。


処分場の手を止めず、願いをなかったことにもしない場所があるなら。


それは逃げ道ではなく、別の行き先になり得るのではないか。


現代の満願堂で、リゼットはそのことをロイに話さなかった。


まだ話すには、言葉が足りなかった。


けれどロイは、彼女が何かを言わずにいることに気づいた。


「リゼットさん」


「はい」


「満願堂は、処分場の代わりなんですか」


リゼットは少しだけ目を見開いた。


ロイは慌てて続ける。


「すみません。違うなら」


「いいえ」


リゼットは静かに首を横へ振った。


「違います」


その声ははっきりしていた。


「満願堂は、処分場の代わりではございません。壊す仕事を否定するための場所でもありません」


「では」


「壊す前に、あるいは壊せなかった後に、別の行き先を持てる願いのための場所です」


ロイはその言葉をゆっくり受け取った。


代わりではない。


否定でもない。


別の行き先。


それは、満願堂の根にある言葉のように思えた。


モルが横から言う。


「行き先」


「はい」


「リゼットの?」


リゼットは一瞬、答えを失った。


ロイはその沈黙を見た。


モルは何気なく言っただけかもしれない。けれど、その短い言葉は、後にもっと大きな問いとして戻ってくる。


リゼットは微笑んだ。


「今は、願い物の話です」


モルは納得したような顔をした。


ロイは納得しなかった。


ただ、今は聞かなかった。


その夜、オルスは満願堂から帰る途中で、ひどく古い木槌を拾った。


拾ったというより、店の軒下に置かれていた。誰かが捨てたものだろう。柄は割れ、頭の部分は欠けている。道具としてはもう危ない。


普通なら、燃やすか、金具を外して終わりだ。


だが、オルスは持ち帰った。


満願堂で聞いた、処分場の話が頭に残っていたからだ。


壊す仕事。壊せない手。壊す前に迷わせる帳面。


職人は壊すこともある。古い接着を剥がし、腐った部分を切り落とし、残すために壊す。だから、壊すこと自体を悪いとは思わない。


けれど、壊す前に何を壊すのか見ろ、という感覚は分かった。


木槌を作業台に置き、オルスはしばらく眺めた。


誰が使っていたのか。何を叩いたのか。何度手に馴染んだのか。


分からない。


分からないからといって、すぐに燃やす必要はない。


「お前は少し待て」


そう言って、オルスは木槌を棚に置いた。


翌日、満願堂へ寄った時、その話をすると、リゼットは微笑んだ。


「オルスさんも、壊さない手をお持ちなのですね」


「やめろ。気色悪い」


「褒めたつもりでした」


「余計だ」


モルが言う。


「オルス、手、こわい。でも、やさしい」


「どっちだ」


「どっちも」


オルスはため息をついた。


リゼットは何も言わず、紅茶を出した。


壊さないという選択は、必ずしも優しいだけではない。棚に置けば場所を取る。迷えば仕事が遅れる。危ない物を残せば、誰かを傷つけることもある。


それでも、一度立ち止まる手がある。


リゼットの帳面は、かつてその手を増やしてしまった。


処分場にとっては迷惑だったかもしれない。


けれど、その迷惑がなければ、満願堂は今の形にならなかったのかもしれない。


オルスは紅茶を飲みながら、ぼそりと言った。


「壊さないのも、仕事になる日があるんだろうな」


「ええ」


リゼットは頷いた。


「きっと」


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