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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第二章 奥の棚に眠るもの

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第五十八話 思いを忘れない帳面

満願堂には、いくつもの帳面がある。


客が見るのは納願帳だけだ。深い茶色の表紙に、月環と鍵の紋章が小さく押されている。奥の棚の魔願具や、奥の部屋の満願具を求める時、そこへ願いを書く。


だが、カウンターの奥には別の帳面もある。


納められた品の記録。奥の棚へ移した品の記録。満願具の仕上がりを記した記録。表の棚へ戻せる願具と、戻せない願具の覚え書き。


それらはすべて、リゼットの文字で整えられている。


ロイはある日、普通便を届けた際に、その帳面の一冊が開かれているのを見た。


見るつもりはなかった。だが、風が頁をめくり、そこに書かれた細い文字が目に入った。


誰が願ったのか。


何を叶えたかったのか。


何を失いたくなかったのか。


その三行を見た瞬間、ロイは動けなくなった。


それは記録というより、祈りに近かった。


「ロイさん」


リゼットの声で、彼は我に返った。


「失礼しました。見るつもりでは」


「構いません」


リゼットは帳面を閉じなかった。


「これは、納願帳ではありません」


「記録ですか」


「ええ。けれど、最初はただの記録ではございませんでした」


モルがカウンターの下から顔を出す。


「ふるい帳面」


「はい」


その日、満願堂には納め物が届いていた。


黒い紐と暗い赤の封蝋に包まれたものではなく、古い書類束として逓便局から預かったものだ。処分場跡の整理で見つかった紙片の一部だという。


その中に、リゼットの筆跡に似た古い文字があった。


ロイはそれを見て、現在の帳面と同じ手だと感じた。


ただし、若い。


文字の線が今より少し強い。余白の取り方が、今より少し迷っている。


リゼットはその紙片を見つめていた。


「昔、私は願具を壊す前に、話を聞いていました」


ロイは黙って聞いた。


「持ち込まれた方が、何を願っていたのか。なぜ手放すのか。壊した後に何が薄れてしまうのか。分からないことばかりでしたから」


「処分場で、ですか」


「はい」


リゼットは紙片に指を置いた。


「最初は、ただ忘れないために書いていました」


処分場の朝は、満願堂の朝とは違う。


紅茶の香りはない。古書の頁が湿気を吸う音もない。あるのは、鉄の道具が壁に触れる音、灰を掃く音、持ち込まれた品を分類するための乾いた声だった。


リゼットはその中で、帳面を持っていた。


小さな帳面だった。家の者に見つかれば、また余計なことをしていると言われただろう。だから袖の内側へ隠し、休憩の短い時間や夜に、聞いた話を書いた。


薄紅のリボン。


娘が初めて髪に結んだもの。病で亡くなった後、母はそのリボンを握るたびに娘の笑顔を見た。けれど、笑顔が見えるたびに前へ進めなくなると、処分場へ持ち込んだ。


欠けた銀杯。


亡き夫と交わした誓いを忘れたくない妻のもの。けれど、杯を見ていると新しい人との暮らしを受け入れられない。


小さな鍵。


帰ってこない兄の部屋を、いつか開けるために持っていた弟のもの。兄の部屋はもう取り壊されたのに、鍵だけが手の中で重い。


リゼットは書いた。


誰が願ったのか。


何を叶えたかったのか。


何を失いたくなかったのか。


書いても、品は壊された。


願いは薄れた。


持ち主たちは少し楽になり、少し何かを失った。


リゼットの帳面だけが、壊される前の願いを覚えていた。


ある日、処分場に一人の老人が戻ってきた。


彼は、若い頃に持っていた鈴を処分した男だった。鈴は、亡くなった妻が彼を呼ぶように鳴る品だったという。壊した後、彼は妻の声を思い出すと胸が痛まなくなった。だが同時に、どんな声だったかも分からなくなった。


老人は言った。


「楽にはなった」


それから、ひどく困った顔をした。


「でも、私は何を楽にしてもらったんだったか」


リゼットは帳面を開いた。


本当は見せるべきではなかった。処分場の記録は仕事の外へ出すものではない。まして、リゼットの私的な帳面など存在しないことになっている。


それでも、見せた。


そこには、鈴について書かれていた。


妻が台所から彼を呼ぶ声を残した鈴。


老人は文字を読んだ。


最初は、ただ目で追っているだけだった。


やがて、指が震え始めた。


「そうだ」


彼は言った。


「そうだ。あの人は、私を名前で呼ぶ時、少しだけ語尾を上げた」


老人は泣いた。


思い出せたのは、ほんの少しだった。


完全に戻ったわけではない。声そのものが戻ったわけでもない。けれど、彼は自分が何を失ったのかを思い出した。


「ありがとう」


老人は言った。


「痛いな」


リゼットは何も言えなかった。


「でも、痛い方が、あの人がいたことが分かる」


その日から、帳面はただの帳面ではなくなった。


処分された願具の持ち主が文字を読むと、失われた願いを少しだけ思い出すことがある。すべてではない。返りで落ちたものが戻るわけでもない。


ただ、なかったことにはならない。


帳面は、願具になり始めていた。


現代の満願堂で、リゼットは古い紙片をそっと閉じた。


ロイは長く黙っていた。


「それが、納願帳の始まりですか」


「始まりの一つです」


「一つ」


「ええ。納願帳になるまでには、まだ多くのことがありました」


モルが言う。


「帳面、いいにおい」


「どういう匂いですか」


ロイが聞くと、モルは考え込んだ。


「泣いて、覚えてるにおい」


リゼットは小さく笑った。


「モルらしい言い方ですね」


その時、扉の鈴が鳴った。


入ってきたのはミレーヌだった。嘘を飾る口紅を納めた女性で、今は普通の手帳を買いに来ることがある。


「お邪魔かしら」


「いいえ。いらっしゃいませ」


ミレーヌはカウンターの古い紙片に目を留めた。


「帳面?」


「古い記録です」


「満願堂には、本当にたくさんの記録があるのね」


彼女は少しだけ自分の鞄を押さえた。そこには、彼女が買った無地の手帳が入っている。嘘も本音も書くと言っていた手帳だ。


「書くと、楽になる?」


ミレーヌはふと聞いた。


リゼットはすぐには答えない。


「楽になることもございます」


「ならないことも?」


「ええ。書けば、そこにあったことが見えてしまいますから」


ミレーヌは少し笑った。


「そうね。見たくない本音ほど、紙に書くと居座るわ」


ロイはその言葉を聞き、リゼットの帳面を思った。


願いも同じなのだろう。書けば、消えない。痛みも残る。けれど、何があったのか分からなくなるよりは、きっとましな時がある。


ミレーヌは手帳を一冊買い、紅茶を飲んで帰った。


その後、リゼットは古い紙片を納願帳の近くへ置いた。


「納めないのですか」


ロイが聞く。


「これは、まだ読み返す必要がありそうです」


「リゼットさんが?」


「ええ」


リゼットは微笑んだ。


「私が」


その言葉は小さかったが、ロイには大きく聞こえた。


リゼットはいつも、客の願いを記録する。納め物の行き先を見る。奥の棚の品を休ませる。だが、自分が読み返す必要があると言ったのは、ロイが聞く限り初めてだった。


満願堂の帳面は、願いを迷わせないためにある。


ならば、リゼット自身の願いも、いつかそこに書かれるのだろうか。


ロイは聞かなかった。


今はまだ、その時ではないと分かったからだ。


夜、リゼットは一人で古い紙片を読んだ。


若い頃の自分の文字は、今より少し強く、少し固かった。


願ったことを、なかったことにしたくない。


その文は、まだ書かれていない。けれど、どの記録の下にもその言葉が隠れているように見えた。


モルがカウンターの上へ上がる。


「リゼット、読む?」


「ええ」


「思い出す?」


「少し」


「痛い?」


リゼットは紙片から目を離さずに答えた。


「ええ」


モルは丸くなった。


「じゃあ、ある」


「何がですか」


「痛いの、ある」


リゼットは少しだけ微笑んだ。


「そうですね」


願いを思い出す帳面は、痛みを消さない。


けれど、痛みがあるということは、まだそこに何かがあるということでもあった。


満願堂の夜は静かに更けていく。


古い紙片の上で、若いリゼットの文字が、今のリゼットをじっと見つめ返していた。


古い帳面の話を聞いた後、ロイは逓便局の受け取り帳を見る目が少し変わった。


受け取り帳には願いは書かれていない。荷物の種類、差出人、宛先、受け取り印。仕事のための記録だ。けれど、それでも誰かが何かを届けようとした痕跡ではある。


ココが言った。


「ロイさん、今日は帳面見る顔が怖いです」


「いつも通りだ」


「いつもより考えてます」


「仕事だからな」


「満願堂の影響ですか?」


ロイは否定しようとして、やめた。


「少しは」


ココは嬉しそうに笑った。


「分かります。僕も最近、普通便がちょっと特別に見えます」


「全部を特別扱いすると仕事にならないぞ」


「はい。でも、全部ただの荷物だと思うよりは、丁寧に持てます」


ロイは何も言わなかった。


ココの言葉は軽い。けれど、時々正しい。


満願堂では、リゼットが古い紙片を新しい帳面へ写していた。


元の紙は脆い。触れるたびに端が崩れそうになる。だから、読めるうちに写す必要がある。


しかし、写すことは単なる複製ではなかった。


若い頃の自分の文字を、今の自分の手で書き直す。すると、当時分からなかったことが、行間から少しずつ見えてくる。


あの頃のリゼットは、願いを残すことだけを考えていた。壊された後も、なかったことにしたくなかった。


今のリゼットは、もう少し知っている。


願いを残せば、痛みも残る。記録は優しいだけではない。誰かが忘れて楽になったものを、もう一度揺らすこともある。


それでも、書く。


モルが隣で言った。


「リゼット、書くの好き?」


「好き、とは少し違います」


「じゃあ、なに」


「必要なのだと思います」


「紅茶も?」


「紅茶は、好きですよ」


モルは満足そうに頷いた。


「じゃあ、書くのは必要。紅茶は好き」


「ええ」


その単純な分類に、リゼットは少し笑った。


エリアスは窓際でその会話を聞いていた。


「必要なものと好きなものは、同じとは限らないのね」


「そうですね」


リゼットが答える。


エリアスは詩集の頁を撫でた。


「私にとって、この本はどちらかしら」


モルが即答する。


「いつもの」


エリアスは小さく笑った。


「それが一番近いわね」


リゼットは帳面に目を戻した。


必要なもの。好きなもの。いつものもの。


願いの行き先は、そういう言葉の間にもあるのかもしれなかった。


その晩、リゼットは古い帳面の写しを作りながら、ふと手を止めた。


昔の自分は、願いを残すことだけを考えていた。消えないように。なかったことにならないように。けれど、残された願いが誰に読まれるのかまでは、あまり考えていなかった。


今の満願堂では違う。


納願帳は、ただ保存するためだけの帳面ではない。客が自分の願いを見つめるための場所であり、納める時に行き先を迷わせないための場所でもある。


書くことは、閉じ込めることではない。


置くことだ。


リゼットはそう思い、古い紙片の横へ新しい紙を一枚置いた。


そこにはまだ何も書かない。


ただ、余白として置く。


モルがそれを見て言った。


「白い」


「ええ」


「書かない?」


「今は、まだ」


「まだの紙」


「そうですね」


その言い方が、リゼットの胸に少し残った。


まだの紙。


願いが書かれる前の紙。記録になる前の余白。行き先が決まる前の場所。


リゼットは、なぜその白い紙を置いたのか、自分でもよく分からなかった。


けれど、捨てる気にはならなかった。


翌日、ロイがその白い紙に気づいた。


「新しい記録ですか」


「いいえ」


リゼットは少しだけ迷い、答えた。


「まだ、何も書いていない紙です」


「何かを書く予定が?」


「分かりません」


リゼットが分からないと言うことは珍しくない。だが、その声はいつもの説明の余白ではなく、本当に分からないように聞こえた。


ロイはその紙を見た。


ただの白い紙。なのに、満願堂のどの願具よりも不思議に見えた。


「では、置いておくんですね」


「はい」


「書くまで」


リゼットは彼を見た。


「ええ。書くまで」


モルが足元で言う。


「まだの紙」


ロイは小さく頷いた。


「いい名前ですね」


その白い紙は、以後しばらく納願帳の横に置かれることになる。


誰の願いも書かれていない。けれど、いつか何かが書かれるかもしれない紙として。


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