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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第二章 奥の棚に眠るもの

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第五十七話 忘れたくなかった箱

箱の中には、何も入っていなかった。


それでも、リゼットはそれを空箱とは呼ばなかった。


黒い紐で括られ、暗い赤の封蝋が押された小さな箱。納め札には、差出人の名がなかった。ただ、月環街の古い処分場跡から出たもの、とだけ記されている。


ココはその札を見て、いつもの明るさを少しだけ抑えた。


「処分場跡、ですか」


ロイも隣で眉を寄せる。


「月環街に、そんな場所があったんですね」


「今は倉庫になっています」


リゼットは箱を受け取りながら答えた。


「昔の話です」


昔。


その言葉が、最近の満願堂では少しずつ重くなっていた。


モルは箱の前へ来ると、すぐには鼻を近づけなかった。いつもなら好奇心のまま匂いを嗅ぐのに、その日は少し離れて座る。


「灰のにおい」


「燃えたものですか」


ロイが聞く。


モルは首を横に振った。


「燃やすまえ」


リゼットの指が、一瞬だけ止まった。


ココはそれに気づかなかった。ロイは気づいた。


リゼットは箱を黒布の上に置き、封蝋を確かめる。封蝋の紋章は新しい逓便局のものだった。つまり、この箱自体は最近納め物として扱われたものだ。


だが、箱の木は古かった。


小さな手で持てるほどの大きさ。蓋は軽く、金具は錆びている。開けても、中には何もない。


何もないはずなのに、耳を近づけると、かすかに音がした。


リゼットはそれを聞いた。


ロイも、思わず息を止める。


子どもの声のようだった。


言葉にはならない。笑い声でも泣き声でもない。ただ、遠くで誰かが名前を呼ぼうとして、途中で思い出せなくなったような音。


ココの耳が震えた。


「今、何か」


「聞こえましたね」


リゼットは静かに言った。


モルが低く言う。


「忘れたくない」


箱の中は空だった。


けれど、その空っぽが、何かを必死に抱えているように見えた。


ロイはリゼットを見た。


「こういう箱を、以前にも見たことがあるんですか」


聞いてから、自分でも少し踏み込みすぎたと思った。


だがリゼットは怒らなかった。


「ございます」


その一言で、店内の温度が少し変わった。


「昔、処分されるはずだった箱に、よく似ています」


処分場の建物は、満願堂とはまるで違った。


リゼットがまだ管理人ではなかった頃の話だ。


石造りの広い部屋。高い窓。濡れた灰と鉄の匂い。壊すための道具が壁に掛かり、床には火に強い黒い板が敷かれていた。


そこには、願いに関わる品が持ち込まれた。


人々はそれを、厄介なもの、気味の悪いもの、終わらせるべきものとして差し出した。願具という言葉はあったが、今の満願堂のように表の棚や奥の棚へ分ける考え方はない。使い終わったもの、怖くなったもの、持ち主が死んだもの、家族が処分したいもの。


それらは壊された。


すべてが燃やされるわけではない。割られ、ほどかれ、沈められ、削られ、願いの形を失うように処理される。


リゼットの家は、その仕事を担っていた。


若いリゼットは、そこで小さな箱を見た。


古い木箱だった。蓋には子どもの手でつけたらしい傷があり、内側には布が貼られている。何かを大切にしまうための箱だった。


持ち主の女は、疲れた顔をしていた。


「もう、これを置いておくと苦しくて」


彼女はそう言った。


箱には、死んだ弟の声が残っているのだという。


幼い頃、弟はその箱に石や木の実を入れて遊んでいた。死んだ後、箱を開けると、時々弟が姉を呼ぶ声がした。


最初はそれが救いだった。


けれど、年月が経つにつれ、女はその声から離れられなくなった。声を聞くために箱を開け、声がしない日は泣き、声がすればまた手放せなくなる。


だから処分場へ持ってきた。


壊せば終わると言われたから。


リゼットは、その箱を受け取る係ではなかった。まだ若く、家の仕事を手伝うだけの立場だった。


だが、箱が台の上へ置かれた時、確かに聞いた。


姉さん。


小さな声だった。


女は耳を塞いだ。


「お願い。もう聞きたくないの」


処分役は頷いた。


箱は壊された。


木は割れ、金具は外され、内側の布は剥がされた。


火は使わなかった。けれど、箱は箱ではなくなった。


女はしばらく泣いた。


その後、顔を上げた時、彼女は少し楽になったように見えた。


「弟の声が、思い出せません」


彼女はそう言った。


その声は、安堵にも、恐怖にも似ていた。


リゼットは何も言えなかった。


壊したことで、女は箱から離れられた。


だが、弟の声も遠くなった。


それは救いだったのか。


喪失だったのか。


若いリゼットには、どちらとも決められなかった。


ただ、一つだけ強く思った。


壊す前に、せめて何を願ったのか書き残したい。


その箱が何を抱えていたのか。誰が何を忘れたくなかったのか。壊した後に消えてしまうなら、消える前に言葉だけでも残したい。


現代の満願堂で、リゼットは箱を見つめていた。


ココもロイも、黙っている。


モルは箱のそばに座り、尻尾を体に巻いていた。


「この箱も、弟の声ですか」


ロイが静かに尋ねた。


「同じとは限りません」


リゼットは答えた。


「ただ、忘れたくなかったものが入っていたのでしょう」


「空なのに」


ココが小さく言う。


「空だから、残っていることもございます」


リゼットは箱の内側を見た。


布は剥がれていない。木も割れていない。処分場跡から出たものだということは、壊されずに残ったのだろう。誰かが途中でためらったのか。あるいは壊す前に紛れたのか。


「これは納められますか」


ロイが聞く。


「はい」


リゼットは頷いた。


「けれど、納める前に記しておきましょう」


納願帳が開かれる。


リゼットは箱について書き始めた。


差出人不明。処分場跡より発見。中は空。忘れたくなかった声の気配あり。


その文字を見て、ロイはふと思った。


リゼットの文字は、いつも整っている。願いに触れる時ほど、乱れない。まるで、文字が崩れれば願いまで迷うと知っているようだ。


「リゼットさんは、昔からこうして書いていたんですか」


ココが聞いた。


リゼットのペンが止まる。


ほんの一瞬。


「ええ」


「満願堂になる前から?」


「はい」


ココは素直に感心した。


「じゃあ、納願帳もリゼットさんが始めたんですね」


リゼットは少しだけ微笑んだ。


「今の形にしたのは、そうかもしれません」


ロイはその答えの隙間を感じた。


今の形にした。つまり、もっと前にも何かがあったのだ。納め台。月環の堂。願い物。そこへリゼットの帳面が加わった。


満願堂は、最初から今の満願堂だったわけではない。


そのことが、少しずつ輪郭を持ち始めていた。


箱は奥の棚ではなく、リゼットが納願帳の隣に一晩だけ置いた。


「すぐ納めないのですか」


ロイが聞く。


「今夜だけ、書かれたことのそばに置いておきます」


「なぜですか」


「忘れたくなかった箱ですから」


リゼットは蓋をそっと閉じた。


「書かれたことを、少し読ませてあげましょう」


その夜、満願堂は静かだった。


閉店後、リゼットは納願帳を開いたまま、箱の隣に置いた。モルはカウンターの上で丸くなり、時々片耳だけを動かす。


箱の中から、かすかな声がした。


言葉にはならない。


けれど、リゼットには昔の処分場の箱が重なった。


姉さん。


あの声は、もうどこにもないのだろうか。


壊された箱の持ち主は、その後どう生きたのだろう。弟の声を忘れて、楽になったのか。忘れたことを後悔したのか。リゼットには分からない。


分からないから、書くしかなかった。


壊された願いも、納められなかった願いも、少なくともここに一度はあったと。


モルが目を開ける。


「リゼット」


「はい」


「かなしい?」


リゼットは少しだけ考えた。


「悲しい、だけではありません」


「じゃあ、なに」


「忘れたくないのだと思います」


モルは箱を見た。


「箱と、おなじ?」


リゼットは微笑んだ。


「そうかもしれませんね」


翌朝、箱は奥の棚へ納められた。


黒布に包まれる前、リゼットは蓋を一度だけ開けた。


中は空だった。


けれど、もう完全な空ではない。


納願帳に書かれたことで、そこに何があったのか、少なくとも満願堂は知っている。


モルが鼻を近づけた。


「声、すこし寝た」


「ええ」


「忘れない?」


「忘れないために、ここへ」


リゼットは箱を棚へ置いた。


「ただ、戻るわけではございません」


モルは頷いた。


「返さない」


「ええ」


「でも、迷わない」


リゼットはその言葉に少しだけ目を細めた。


「そうですね」


その日、ロイは逓便局へ戻ってからも、空の箱のことを考えていた。


何も入っていない箱。けれど、誰かが忘れたくなかったものの形をしていた箱。


願いは、見えないものを物に残す。


そして物が壊れれば、見えないものまで遠くなることがある。


満願堂は、それをなかったことにしない場所なのだろう。


ロイは受け取り帳を閉じた。


その文字の一つ一つが、いつもより少しだけ重く見えた。


箱が奥の棚へ納まった後、リゼットは処分場跡から届いた納め札をもう一度見た。


差出人の名はない。けれど、封蝋は正式な逓便局のものだ。つまり、誰かがこの箱をただ捨てるのではなく、納め物として扱うことを選んだ。


それが誰なのかは分からない。


倉庫を整理した役人かもしれない。古い記録を見つけた逓便局員かもしれない。処分場の跡を知る誰かかもしれない。


リゼットは、その名のない選択をありがたいと思った。


名前がなくても、願いを迷わせない選択はできる。


夜、リゼットは昔のことをさらに少し思い出した。


処分場の床に落ちた木片。壊された箱の内側に貼られていた青い布。女が耳を塞いだ時の手の震え。処分役が何も言わずに金具を外した音。


あの日、リゼットは処分を止めなかった。


止められなかった。


それを今でも悔いているのかと問われれば、答えは簡単ではない。あの女は、あの箱から離れる必要があったのかもしれない。壊さなければ、生きていけなかったのかもしれない。


けれど、壊す前に書いておけばよかった。


弟の声があったこと。姉さんと呼んだこと。女が聞きたくないと言いながら、最後まで箱から手を離すのをためらっていたこと。


それだけでも残せたなら、消え方は少し違ったのではないか。


モルが寝ぼけた声で言う。


「リゼット、まだ書く?」


「ええ」


「もう、箱、寝た」


「箱のためだけではありません」


「だれのため?」


リゼットはペンを持った。


「私が、忘れないためです」


モルはそれ以上聞かなかった。


翌朝、納願帳の隣には新しい一行が増えていた。


壊すことが必要な時でも、何が壊されるのかを忘れないこと。


その一行は、誰にも読まれなかった。


けれど、満願堂の中に確かに置かれた。


ロイが次に来た時、リゼットの顔はいつも通りだった。だが、彼は気づいた。納願帳の置かれた位置が、ほんの少しだけ変わっている。客のためだけでなく、リゼット自身が手を伸ばしやすい場所にある。


彼はそれを指摘しなかった。


ただ、受け取り帳を差し出す時、いつもより少しだけ丁寧に置いた。


モルが言う。


「ロイ、今日は静か」


「そうか」


「うん。紙のにおい」


「紙?」


「書くまえ」


ロイは答えに困った。


リゼットは小さく微笑んでいた。


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