第五十六話 壊された椅子
壊された椅子は、椅子の形をほとんど失っていた。
届いたのは、脚の一本と、背もたれの欠片と、座面だったらしい板が少し。どれも別々の布に包まれ、黒い紐でまとめられている。暗い赤の封蝋には、月環と扉と閉じた目の紋章が押されていた。
納め札には、遠方の町の名がある。
月環街から馬車で十日。さらに川を渡る小さな町。そこから逓便を何度も継いで、ようやく満願堂へ届いたらしい。
ココは包みを両手で抱え、いつもより慎重にカウンターへ置いた。
「納め物です」
ロイも横にいた。
二人体制で回す納め物の中でも、これは特に扱いづらかった。箱ではなく、壊れた家具の欠片だからだ。どこを持てばいいか分かりにくい。力を入れればさらに割れる。軽そうに見えて、布越しに妙な重みがある。
リゼットは両手で受け取った。
「ありがとうございます」
モルが鼻をひくつかせる。
「家のにおい」
少し間を置いて、耳を下げた。
「でも、忘れてる」
「忘れている?」
ココが聞くと、モルは布の周りを一周した。
「座ってた人、薄い」
リゼットの表情が静かに変わった。
「壊された願い物ですね」
ロイは息を呑んだ。
「壊された……願い物」
「ええ」
リゼットは黒布を広げる。
包みを解くと、古い木の匂いがした。乾いているのに、どこか湿った家の奥を思わせる匂いだった。座面の板には、長く人が座っていた跡がある。木目が沈み、端が少し丸い。
オルスが来たのは、そのすぐ後だった。
リゼットが呼んだわけではない。だが、ココが逓便局で「壊れた椅子の納め物」と話していたのを聞き、嫌な予感がして来たのだ。
「見せろ」
入るなりそう言ったので、ロイが少しだけ眉をひそめた。
「お客様への挨拶が先では」
「椅子に挨拶した方が早い」
「オルスさんらしいですね」
リゼットは静かに言った。
オルスは椅子の欠片に触れた。
その瞬間、顔が険しくなる。
「壊れてるんじゃない。壊したな」
「分かるのですか」
ロイが聞く。
「割れ方が違う。古くなって折れたなら、木の筋に沿う。これは、力をかけて割ってる。しかも一度じゃない。嫌になって叩いたんじゃない。壊すために壊した」
ココの耳が下がった。
「どうして、そんなことを」
リゼットは納め札と一緒に届いた手紙を開いた。
差出人は、その町の小さな教会の管理人だった。満願堂のことを古い記録で知り、壊された椅子の欠片を送るしかないと思った、とある。
椅子は、ある家の奥に長く置かれていた。
その家では、祖母がいつもその椅子に座っていたという。孫たちは、祖母が亡くなった後も椅子を残した。誰も座らないが、誰も捨てなかった。
ところが家を建て替える時、若い当主がそれを邪魔だと言って壊した。
壊しても、何も起こらなかった。
呪いもない。病もない。怪我人も出ない。
ただ、その家では、祖母の顔を誰もうまく思い出せなくなった。
手紙の文字は途中で少し震えていた。
家族は、祖母がいたことは覚えている。名前も記録にある。写真のような肖像画も残っている。けれど、その声、座っていた姿、手の温度、笑い方が、急に遠くなった。
椅子を壊した若い当主は、最初は偶然だと言った。だが数日後、彼は教会へ椅子の欠片を持ち込んだ。
「これをどこかへやらなければならない気がする」
そう言ったという。
オルスは手紙を聞き終え、低く舌打ちした。
「壊せば終わりだと思ってる奴は、物を見てない」
リゼットは欠片を見た。
「壊すことも、終わらせ方の一つではあります」
「分かってる」
オルスは不機嫌そうに言う。
「腐った椅子を残して家が崩れたら意味がない。捨てなきゃならない物もある。壊さなきゃ危ない物もある」
「はい」
「だが、これは違う。壊す前に、誰が座っていたかを見るべきだった」
リゼットは頷いた。
「けれど、見なかったのでしょう」
その言葉は責めていなかった。
だからこそ、静かに重かった。
その日、満願堂の窓際にはメリルがいた。
夫を亡くし、忘れものの櫛と名残をほどく櫛を使ったことのある女性だ。今は願具を求めて来ているわけではない。ただ、月に何度か紅茶を飲みに来る。
メリルは手紙の内容をすべて聞いたわけではない。だが、椅子の欠片が運ばれ、祖母の記憶が薄れたという言葉だけは耳に入った。
彼女はカップを持ったまま、小さく言った。
「思い出せないのは、楽な時もあります」
店内の視線が、少しだけ彼女へ向く。
メリルは恥ずかしそうに目を伏せた。
「ごめんなさい。聞くつもりでは」
「いいえ」
リゼットは穏やかに言った。
メリルは少し迷い、それから続けた。
「でも、思い出したかったことまで遠くなるのは、怖いです」
それだけ言うと、彼女はまた紅茶へ目を落とした。
長く語らなかった。
だからこそ、オルスの眉間の皺が少しだけ緩んだ。
ロイは、メリルの言葉を忘れないように心に留めた。満願堂には、時々こういうことがある。誰かの過去の願いが、別の誰かの願いの隣に静かに座る。
リゼットは椅子の欠片を黒布に置いた。
「これは、完全には戻せません」
「当たり前だ」
オルスが言う。
「継げる部分はある。だが、椅子にはならない。座るための力はもう残ってない」
「では、納める形を整えることはできますか」
「やる」
即答だった。
リゼットは少しだけ微笑む。
「お願いいたします」
オルスは満願堂の奥ではなく、店の片隅の作業机を借りた。
座面の欠片を磨く。割れた脚のささくれを落とす。背もたれの木片を、折れたままの形で小さな台に固定する。椅子には戻さない。椅子だったことが分かる形にする。
作業を見ながら、ココは小声でロイに言った。
「直さない修理ですね」
「たぶん、そうだな」
「オルスさん、怖いけどすごいですね」
「本人に言えば喜ばないだろうな」
「じゃあ、モルさんに言ってもらいましょう」
「なぜそうなる」
モルは作業机の下で、木屑の匂いを嗅いでいた。
「座ってたにおい、すこし」
「残ってるか」
オルスが聞くと、モルは頷いた。
「すこし」
「なら、まだ間に合う」
「何がですか」
ココが聞く。
オルスは手を止めずに答えた。
「全部忘れる前に、ここへ来た」
作業が終わった時、椅子の欠片は小さな記念碑のようになっていた。
座れない。使えない。だが、椅子だったことは分かる。誰かがそこに座り、家族がその周りで過ごした時間があったと、少なくとも思える形だった。
リゼットはそれを両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「礼を言うなら、座ってた婆さんに言え」
「ええ」
リゼットは黒布で包む。
「奥の棚で休ませましょう」
「奥の部屋じゃないのか」
ロイが聞くと、リゼットは首を横へ振った。
「壊されても、まだ誰かを仕上げるほどではありません。ただ、行き先を失いかけていました」
「行き先」
「はい」
リゼットは棚の方へ歩く。
「壊された願い物は、壊れた場所に留まることも、壊した人の元へ戻ることもできないことがございます」
「だから納める」
「ええ」
奥の棚に置かれると、椅子の欠片は静かになった。
だが、その夜、満願堂の床が一度だけ小さく軋んだ。
誰かが座り直したような音だった。
モルが耳を動かす。
「座った」
リゼットは棚を見る。
「ええ」
「思い出した?」
「少しだけ、どこかで」
そのどこかが、遠い町の家なのか、壊した若い当主の夢なのか、椅子に座っていた祖母自身の願いなのか、リゼットには分からない。
けれど、壊したからすべて消えるわけではない。
なかったことには、ならない。
翌日、メリルは帰り際にリゼットへ言った。
「少し、怖かったです」
「椅子がですか」
「いいえ。思い出せないことが、です」
リゼットは何も急かさず聞いた。
「でも、怖いと思えるなら、まだ思い出したいのでしょうね」
メリルは少し笑った。
「そう思えるようになりました」
満願堂の紅茶の湯気が、静かに上がっていた。
オルスはその後、自分の作業場へ戻り、壊す予定だった古い椅子を一つ、しばらく棚の横へ置いた。
腐ってはいない。直すには時間がかかる。持ち主は処分していいと言った。
だが、オルスはまだ斧を入れなかった。
「誰が座ってたんだ、お前」
そう呟くと、椅子はもちろん答えなかった。
けれど、その沈黙は以前より少しだけ重かった。
遠方の町から、後日もう一通の手紙が届いた。
椅子を壊した若い当主からだった。字は硬く、何度も書き直した跡があった。
祖母の顔を完全に思い出せるようになったわけではありません。
けれど、台所の窓辺に座っていた背中を、少しだけ思い出しました。
あの椅子の欠片を送った夜、夢を見ました。祖母は怒っていませんでした。ただ、そこに座る場所がないと、少し困った顔をしていました。
手紙はそこで少し途切れていた。
最後に、彼はこう書いていた。
新しい椅子を買いました。誰も座らない椅子です。祖母のためか、自分のためかは分かりません。
リゼットはその手紙を読み、椅子の記録へ挟んだ。
オルスが来た時、そのことを伝えると、彼は複雑そうな顔をした。
「新しい椅子ね」
「いけませんか」
「悪くはない」
「では?」
「誰も座らない椅子を買うってのは、贅沢だ」
「そうですね」
「だが、必要な贅沢もある」
オルスは奥の棚を見た。
「壊したものは戻らない。だが、座る場所を作り直すことはできる」
リゼットは頷いた。
「その言葉も、記録しておきましょうか」
「やめろ。職人が偉そうなことを言ったみたいになる」
「実際に、少し偉そうでした」
オルスは顔をしかめた。
カウンターの下でモルが笑ったように鼻を鳴らす。
その日、メリルもまた満願堂へ来ていた。
彼女は椅子の話を詳しく聞いたわけではない。けれど、帰り際に奥の棚へ少しだけ頭を下げた。
リゼットはそれを見て、何も言わなかった。
人は時々、自分の願いではないものにも礼をする。
それは、似た痛みを知っているからかもしれない。
満願堂の中では、そういう小さな会釈が、言葉より深く届くことがある。
ロイは後日、遠方の町へ返送される普通便を見た。
差出人は満願堂。宛先は椅子を壊した家。中身は、リゼットが書いた短い手紙だった。
祖母様の椅子の欠片は、満願堂で休んでおります。
それだけの文だった。
ロイは封をする前に、リゼットの許可を得て宛名を確認した。普通便だ。納め物ではない。けれど、願いの行き先を知らせる手紙だった。
ココが言った。
「こういう手紙も、逓便局の仕事ですね」
「ああ」
ロイは頷いた。
「届いた後に、少しだけ椅子のことを思い出すかもしれない」
「はい」
ココは封筒を大切に仕分け箱へ入れた。
納め物だけが、願いを運ぶわけではない。普通便にも、誰かの願いの周りを支える役目がある。
そのことを、二人は少しずつ覚えていった。




