第五十五話 納め番の家
ヴェルナー・グレイスは、自分の家の古い名を好んで語らなかった。
月環街逓便局の局長補佐。今の彼には、その肩書きがある。荷物を正しく扱い、若い局員を叱り、納め物の手順を守らせる。それで十分だった。
だが、古い記録は時々、人が閉じておいた蓋を勝手に開ける。
その日、逓便局の記録室で見つかったのは、一冊の家系控えだった。
グレイス家の名がある。今の局記録に綴じられていたのではなく、逓便局が今の形になる前の古い文書の写しとして残っていた。
ヴェルナーは、それを若い局員の前で開きたくなかった。
だが、ロイとココはすでにその場にいた。
「局長補佐、グレイスって」
ココが言いかける。
ヴェルナーは鋭く見る。
「読める字を声に出すな」
「はい」
ココの耳が少し下がった。
ロイは黙っていた。だが、彼も気づいている。ヴェルナーの姓と、紙に書かれた古い名が同じであることに。
文書には、こうあった。
グレイス家、納め番を務む。
願い物を月環の堂へ運ぶこと。
道中にて開くべからず。
行き先を違うべからず。
受け取られざる時は、戻すべからず。
ココが眉を寄せた。
「戻すべからず?」
ヴェルナーは文書から目を離さない。
「受け取られなかった願い物を、持ち主へそのまま返してはいけないという意味だろう」
「どうしてですか」
「分からん」
珍しく、彼は正直に言った。
「だが、何か理由があったのだろう」
ロイは古い文字を追った。
「納め番というのは、逓便局員の前身ですか」
「近いが、同じではない」
その答えは、最近何度も聞いた言い方だった。
納め物と願い物。満願堂と月環の堂。逓便局と納め番。
似ているが、同じではないものが、満願堂の周りには多い。
ヴェルナーは文書を閉じた。
「昔は、手紙より先に運ばれていたものがあった」
「願い物ですか」
「おそらくな」
ココが目を丸くする。
「じゃあ、逓便局は最初、願い物を運ぶためにあったんですか?」
「今の逓便局は違う」
ヴェルナーはすぐに言った。
「我々は手紙も荷物も通達も運ぶ。街の暮らしを運ぶ仕事だ」
「はい」
「だが、古い役目の一部が残っている」
ヴェルナーは右手を握った。
「納め物を運ぶ時だけ、手順が古い。黒い紐、暗い赤の封蝋、納め札。あれは飾りではない」
ロイは頷いた。
何度も教えられたことだ。だが、その手順が古い納め番に繋がるものだと知ると、重みが変わる。
その日の午後、ヴェルナーは満願堂へ向かった。
珍しく、ロイとココを連れずに一人で行くつもりだった。だが、廊下で待っていた二人を見て、足を止める。
「仕事はどうした」
「終わりました」
ロイが答える。
「僕も終わりました」
ココも言う。
「満願堂へ行くんですよね」
「遊びではない」
「分かっています」
二人の返事は、少しだけ似ていた。
ヴェルナーはため息をついた。
「ついてこい。ただし余計なことを言うな」
「はい」
「はい!」
「ココ、声が大きい」
「すみません」
満願堂はいつも通り静かだった。
リゼットが迎える。モルはカウンターの上で、焼き菓子の皿を前足で押していた。
「ヴェルナー」
モルが短く言う。
「今日は甘いものはいらん」
「まだ言ってない」
「顔が、いらない」
ココが笑いそうになり、ロイが咳払いした。
リゼットは三人をカウンターへ案内した。
「古い記録が、また見つかったのですね」
「分かるのか」
「ヴェルナーさんのお顔が、いつもより古いので」
「顔が古いとはどういう意味だ」
リゼットは微笑むだけだった。
ヴェルナーは文書の写しを出した。
「グレイス家が、納め番だったという記録だ」
リゼットはそれを見て、静かに頷いた。
「やはり、残っていましたか」
「やはり?」
ロイが聞く。
リゼットはヴェルナーを見た。
「お話ししても?」
ヴェルナーは少し迷った。
自分の家の話を、若い局員の前で広げる気はなかった。だが、もう半分は記録が開いている。隠す方がかえって危うい。
「構わん」
リゼットは文書を黒布の上へ置いた。
「納め番は、月環の堂へ願い物を運ぶ方々でした。今の逓便局のように多くの荷を扱うわけではありません。ただ、願い物を迷わせないために、道を覚え、手順を守り、開けずに届ける役目です」
「手紙より古いんですね」
ココが言う。
「一部は、そうかもしれません」
「一部?」
「人は昔から、誰かに何かを届けていました。手紙も、食べ物も、薬も、別れの品も。願い物だけが特別だったわけではございません」
リゼットは少しだけ目を伏せた。
「ただ、願い物は、道を間違えると人より先に迷います」
ヴェルナーの右手がうずいた。
若い頃、納め物を開けようとした時の熱。暗い赤の封蝋が皮膚の内側へ沈むように焼けた感覚。彼は忘れていない。
「納め番は、受け取られなかった願い物を戻してはいけない、と記録にある」
ヴェルナーは言った。
「理由は分かるか」
リゼットはすぐには答えなかった。
モルが文書の匂いを嗅ぐ。
「戻すと、ぐるぐる」
「ぐるぐる?」
ココが首を傾げる。
「行けない。帰れない。ぐるぐる」
リゼットは頷いた。
「受け取られなかった願い物は、その時点で持ち主の元へ単純に戻せる状態ではない場合がございます。手放しかけた願いを、何も変えずに返せば、願いは行き先を見失います」
ロイは考えた。
「では、どうするのですか」
「昔は、納め番が一時的に預かったと聞いています」
「預かる」
その言葉に、ヴェルナーが目を細めた。
今の逓便局でも、配達できなかった荷を一時保管する手順がある。だが、納め物に関しては特別だ。すぐ満願堂へ届けることが原則だった。
「受け取られなかった願い物を、戻さず、捨てず、預かる」
リゼットは静かに言う。
「それも、納め番の役目だったのでしょう」
ココは少し嬉しそうに耳を立てた。
「じゃあ、逓便局も、昔から願いを支えてたんですね」
ヴェルナーはすぐに否定しようとして、やめた。
支える。そんな柔らかい言葉を、自分の仕事に使うのは落ち着かない。だが、間違いとも言い切れなかった。
ロイが文書を見つめる。
「局長補佐が、納め物を慎重に扱う理由が、少し分かった気がします」
「分かった気になるな」
ヴェルナーは即座に言った。
「はい」
「だが、知らないままよりはいい」
ロイは顔を上げた。
ヴェルナーはリゼットを見ないまま続ける。
「満願堂は、街にある。だが、街が作ったものではない」
その言葉は、以前にも聞いた。
今は少しだけ意味が増えていた。
「それでも、街は満願堂へ道を作った」
ヴェルナーは言う。
「納め番も、逓便局も、その道の一部だ」
リゼットは静かに頭を下げた。
「長く、お世話になっております」
ヴェルナーは少しだけ顔をしかめた。
「まだ礼を言われるほど、何もしていない」
「届けてくださっています」
「仕事だ」
「ええ」
リゼットは微笑む。
「仕事として続いていることが、とてもありがたいのです」
帰り道、ココはいつもより静かだった。
ロイが聞く。
「どうした」
「僕、納め物って、満願堂へ届けるだけだと思ってました」
「間違ってはいないだろう」
「でも、届くまで守ることも、仕事なんですね」
ロイは少し考えた。
「そうだな」
「局長補佐の顔がいつも怖いのも、少し分かりました」
前を歩いていたヴェルナーが振り返る。
「聞こえている」
「すみません」
ココの耳が下がる。
ヴェルナーはため息をついた。
「怖い顔で済むなら安い」
その言葉の意味を、ココは全部は分からなかった。
だが、少しだけ背筋を伸ばした。
翌日、ヴェルナーは若い局員たちに納め物の手順を再度教えた。
黒い紐を確認する。暗い赤の封蝋を見る。納め札を読み間違えない。普通便に混ぜない。勝手に開けない。受け取られない場合は、必ず上役へ報告する。
いつもと同じ手順だった。
だが、その日のヴェルナーは最後に一つだけ付け加えた。
「届けるだけが仕事ではない」
局員たちは顔を上げた。
「届くまで、迷わせるな」
それだけ言って、彼は文書を閉じた。
右手の古い痕は、少しだけうずいていた。
痛みではない。
思い出せ、という合図のようだった。
満願堂では、その頃モルがカウンターの上で丸くなっていた。
「納め番」
「ええ」
リゼットが紅茶を注ぎながら答える。
「ココも?」
「今は逓便局員です」
「でも、すこし納め番」
「そうかもしれませんね」
モルは満足そうに尻尾を揺らした。
「ロイも?」
「ええ」
「ヴェルナーも?」
「もちろん」
モルは少し考えた後、言った。
「ヴェルナー、こわい納め番」
リゼットは小さく笑った。
「それは、本人には言わない方がよろしいでしょう」
「言う」
「そうですか」
その後、本当にモルがヴェルナーにそう言い、ヴェルナーが長い沈黙を返すことになるのは、もう少し後のことだった。
ヴェルナーはその夜、家に古くから残る小箱を開けた。
中には、錆びた鍵、使われなくなった封蝋印、そして黒い紐が一本入っている。子どもの頃、祖父が一度だけ見せてくれたものだった。
「これは、配達の道具ではない」
祖父はそう言った。
「迷わせないための道具だ」
当時のヴェルナーには分からなかった。
荷物は住所へ届ける。迷うのは局員であって、荷物ではない。そう思っていた。
今は少し分かる。
願い物は、持ち主の手を離れた後も、まだ行き先を探している。住所を書けば済むものではない。受け取られなかった時、捨てれば終わるものでもない。
祖父はもういない。
納め番という言葉を、ヴェルナーがきちんと聞いたのは、おそらくその一度だけだった。家族の中でも、その話はだんだん古い迷信のように扱われた。逓便局が街の制度として整うにつれ、納め番の名は表から消えた。
だが、黒い紐と封蝋の手順だけは残った。
ヴェルナーは右手の古い痕を見る。
若い頃、納め物を開けようとした時についた痕。あの痛みを、彼は罰だとは思っていない。満願堂も、そうは言わなかった。ただ、思い出せと焼き付けられたような気がしていた。
翌日、彼はロイとココを呼んだ。
机の上には、古い黒紐が置かれている。
「これは家にあったものだ。業務用ではない。触るな」
「はい」
ココは元気よく返事をしたが、前足ならぬ手はちゃんと膝の上に置いていた。
「納め番の家に残っていたものですか」
ロイが聞く。
「ああ」
ヴェルナーは短く答えた。
「我々は納め番ではない。逓便局員だ。だが、納め物を運ぶ時だけは、古い役目の端を持つ」
「端」
「全部を知る必要はない。だが、持っている端を放すな」
ココは真面目な顔で頷いた。
「はい」
ヴェルナーは二人を見た。
ロイは慎重すぎるほど慎重だ。ココは軽いが、荷物への愛嬌がある。二人がこの区画を担当していることを、以前の彼なら心配だけで見ていただろう。
今は、少しだけ違う。
古い役目は、一人で抱えるものではない。
「満願堂への道は、覚えたな」
「はい」
ロイが答える。
「モルさんがはんこを押す位置も覚えました」
ココが言う。
「そこは重要ではない」
「重要です。モルさんが押しやすいです」
ヴェルナーは眉を寄せた。
ロイがほんの少し笑いそうになる。
「笑うな」
「笑っていません」
「声が笑っている」
このやり取りも、きっと道の一部なのだろう。
ヴェルナーはそう思いかけて、すぐにその考えを振り払った。
甘い考えだ。
だが、悪くはなかった。
その日の夕方、満願堂へ普通便を届けたココは、モルに言った。
「僕、少し納め番らしいです」
モルは真剣にココを見た。
「ココ、納め番?」
「少しです」
「じゃあ、えらい」
ココの耳が嬉しそうに立つ。
「えへへ。ありがとうございます」
リゼットはそのやり取りを聞きながら、紅茶を注いでいた。
古い役目は、名前を失っても、まったく消えたわけではない。黒い紐の結び方に、封蝋を見る目に、若い局員の少し得意げな返事に、ほんの少し残っている。
それで十分な時もある。




