第五十四話 受け取られない品々
ガストン・メルクは、満願堂に似合わない客だった。
服は上等だった。指輪も靴も、ひと目で高価だと分かる。香油の匂いが強く、歩くたびに上着の金具が小さく鳴る。月環街の古い通りを歩くには、少し音が多すぎる男だった。
彼は二人の使用人に箱を持たせていた。
箱は大小合わせて六つ。どれも黒い布で覆われているが、満願堂の黒布とは違う。質の良い布ではあるが、包むというより隠すための布だった。
扉の鈴が鳴った時、モルはすぐにカウンターの下へ降りた。
「たくさん」
短い声だった。
リゼットはいつも通り頭を下げる。
「いらっしゃいませ」
ガストンは店内を見回した。
紅茶の香りにも、古書にも、ステンドグラスの光にも興味がなさそうだった。彼の目は棚と奥の通路を一度ずつ確かめ、すぐにカウンターへ戻ってきた。
「ここが満願堂か」
「はい」
「願いに関わる品を引き取ると聞いた」
「納める品は、お預かりすることがございます」
「なら話が早い」
ガストンは使用人に合図した。
六つの箱がカウンター前に並べられる。店内の空気が少し重くなった。
奥の席では、オルスが紅茶を飲んでいた。珍しく作業帰りではなく、ただ客として寄った日だった。彼はカップを持ったまま、箱の並べ方を見て眉をひそめる。
その隣には、ダリオがいた。
オルスに靴の木型の修理を頼みに来たついでに、満願堂で待っていたのだ。ダリオはかつて後悔を届ける靴を納めた男で、今も時々、満願堂へ紅茶を飲みに来る。気の利いた客ではないが、以前より少しだけ黙っていられるようになっていた。
ガストンは箱の一つを指で叩いた。
「屋敷の蔵から出てきた。不気味な品ばかりだ。夜に鳴る鈴、勝手に開く小箱、誰も座らない椅子の飾り、名の読めない銀の髪留め。先祖が集めたらしいが、私には不要だ」
リゼットは、箱に触れなかった。
「どなたの願いが宿ったものか、ご存じですか」
「知るわけがない。古いものだ」
「どなたから譲られたものかは」
「蔵にあったと言っただろう」
「ご家族の方が、大切にされていた可能性は」
ガストンは不愉快そうに笑った。
「大切なら、こんな蔵の奥に放り込まれていない」
モルが箱の周りを一周した。
鼻を近づけ、すぐに少し離れる。
「知らない」
「何だ、その獣は」
「モルです」
リゼットの声は穏やかだった。
モルはガストンを見ずに続けた。
「捨てたい、いっぱい」
ガストンは顔をしかめた。
「捨てたいから持ってきたのだ。引き取るのがこの店の役目だろう」
リゼットは静かに首を横へ振った。
「満願堂は、捨て場ではございません」
店内が、すっと静かになった。
オルスがカップを置く音だけが響く。
ガストンは目を細めた。
「では、いくらならいい」
「金額のお話ではございません」
「金貨十枚」
「お断りします」
「二十枚」
「お断りします」
「この店一軒くらい買える額を出してもいい」
リゼットは微笑んだ。
「満願堂は、買う場所でも売る場所でもございません」
ガストンの声が少し荒くなる。
「では何だ。願いに関わる品を扱う店なのだろう。持ち主の分からない品など、ここで処理するのが一番ではないか」
その言葉に、ダリオが小さく笑った。
笑いというより、喉の奥で引っかかった息だった。
ガストンが振り返る。
「何がおかしい」
「処理、ね」
ダリオは椅子に座ったまま言った。
「俺も昔、そういう言い方をしたかもしれないと思ってな」
「誰だ、お前は」
「靴屋だ。偉い者じゃない」
「なら黙っていろ」
ダリオは少しだけ目を細めた。
以前の彼なら、そこで立ち上がっていたかもしれない。怒りを相手へ届けるための靴を探していた頃なら、迷わず噛みついた。
けれど今は、膝の上に置いた手を一度握るだけだった。
「不要かどうかは、持ってる奴だけで決められるもんじゃないだろ」
ガストンは鼻で笑う。
「蔵に眠っていたものだ。誰も困らない」
「本当に誰も困らないなら、あんたがそんな顔してここへ来る必要もない」
ガストンの表情が固まった。
図星だったのだろう。
リゼットはダリオを止めなかった。オルスも黙っている。
モルは箱の一つへ鼻を寄せる。
「泣いてるの、ある」
ガストンは少しだけ身を引いた。
「何がだ」
「箱の中」
「嘘を言うな」
「嘘、ちがう」
モルはそれ以上言わなかった。
リゼットはカウンターの向こうから、箱の並びを見た。
「ガストンさん」
「何だ」
「この箱の中には、確かに願いに関わる品があるのでしょう。けれど、今ここでまとめて納めることはできません」
「なぜ」
「願いの行き先が、まだ分からないからです」
「そんなものを一つ一つ調べろと?」
「必要なら」
「面倒だ」
「ええ」
リゼットは頷いた。
「願いは、面倒なものです」
その言葉は、柔らかいのに動かなかった。
ガストンはしばらく黙った後、使用人に箱を持ち直させた。
「では、どうしろと言う」
「まず、どの品がどなたのものだったのか、分かる範囲で調べてください。記録、手紙、家の者の記憶、古い使用人の話。何も分からないなら、そのことも含めて持ってきてください」
「それで受け取るのか」
「受け取れるものもあるでしょう。受け取れないものもあるでしょう」
ガストンは苛立ったように息を吐いた。
「面倒な店だ」
「はい」
リゼットは否定しなかった。
「満願堂は、そういう店です」
ガストンは箱を持って帰った。
扉の鈴が鳴り、香油の匂いが少しずつ薄れていく。
店内には、重かった空気の名残だけが残った。
ダリオは紅茶を一口飲んだ。
「余計なことを言ったか」
「いいえ」
リゼットは微笑む。
「ダリオさんの言葉でした」
「俺の言葉ね」
彼は少し苦い顔をした。
「昔の俺が聞いたら腹を立てそうだ」
「腹を立てるかもしれませんね」
「否定しないんだな」
「はい」
ダリオは鼻で笑った。
けれど、その顔は以前より少し穏やかだった。
オルスが言う。
「箱の中、見なくてよかったのか」
「今は、見る時ではありません」
「便利な言い方だ」
「ええ」
リゼットはカウンターに残った埃を布で拭いた。
「けれど、捨てたい方が持ってきたものを、ただ受け取ってしまえば、それは納めることではなくなります」
モルが足元で頷いた。
「捨てたいにおい、重い」
「重いのか」
オルスが聞く。
「うん。でも、行きたいにおい、少ない」
「行きたいにおいね」
オルスは考え込んだ。
物にも、行きたい場所がある。そう言えば、職人仲間には笑われるだろう。だが満願堂に通ううちに、そういう笑い話では済まない品があることを知ってしまった。
ダリオは自分の靴を見た。
後悔を届ける靴は、もうない。納めた。だが、後悔そのものは消えていない。ただ、相手の足へ押し込めるのをやめただけだ。
ガストンが持ってきた箱も、似ているのかもしれない。
不要なものとして押し出そうとしたところで、願いは誰かの足元へ転がる。
「調べて戻ってくると思うか」
ダリオが聞くと、リゼットは少し考えた。
「分かりません」
「戻ってこなかったら?」
「その場合も、願いはどこかに残ります」
「面倒だな」
「ええ」
リゼットは静かに言った。
「ですから、納める場所が必要なのかもしれません」
数日後、ガストンの屋敷から一通の手紙が届いた。
箱はまだ戻ってこなかった。
代わりに、蔵の記録を調べ始めたという短い報告だけがあった。古い使用人に聞き取りをする、とも書かれている。
リゼットはその手紙を読んで、納願帳の間に挟んだ。
モルが見上げる。
「来る?」
「来るかもしれません」
「捨てたい?」
「最初は、そうでした」
「今は?」
リゼットは少しだけ微笑んだ。
「少なくとも、調べようとはされています」
モルは納得したような、していないような顔で尻尾を揺らした。
「調べるにおい、まだ薄い」
「ええ。けれど、ゼロではありません」
その夕方、ダリオは自分の工房で古い型紙を開いていた。
ルーカスと共に引いた線がある。腹立たしい線も、懐かしい線も、まだそこにある。
不要だから捨てる。そう言い切れた頃がある。
けれど今は、捨てる前に一度、誰の線かを見ようと思えた。
それが満願堂のおかげなのか、自分の後悔のおかげなのかは分からない。
ただ、不要かどうかは持っている者だけで決められるものではない。
自分で言った言葉が、少し遅れて自分に返ってきた。
ダリオは苦笑し、古い型紙を丁寧に畳んだ。
ガストンがすぐに変わったわけではない。
一週間後、彼は再び満願堂へ来た。今度は箱を六つではなく、一つだけ持っていた。前より服装は控えめだったが、香油の匂いはまだ強い。
「調べた」
彼は不機嫌そうに言った。
「こちらの箱だけだ。祖母の妹が持っていたものらしい」
箱の中には、小さな銀の鈴があった。ガストンの家の記録によれば、祖母の妹は若くして遠くへ嫁ぎ、その後戻らなかった。鈴は彼女が子どもの頃、家の者を呼ぶために使っていたものだという。
「それ以上は分からない」
ガストンは言った。
「だが、少なくとも誰かのものだった」
リゼットは頷いた。
「その言葉だけでも、前より近づいております」
ガストンは顔をしかめる。
「近づく?」
「納めることへ」
モルが鈴を嗅いだ。
「呼ぶにおい。帰りたいじゃない。呼びたい」
ガストンは鈴を見た。
「祖母は、その妹の話をしたことがあったかもしれない」
「覚えていらっしゃるのですか」
「いや」
彼は苦い顔をした。
「思い出せない。だが、食卓で時々、誰かの名前を言いかけていた気がする」
リゼットは鈴を受け取った。
「こちらはお預かりできます」
「残りは?」
「まだでしょう」
「面倒だな」
ガストンは同じ言葉を繰り返した。
けれど今度は、前ほど強くなかった。
奥の席で紅茶を飲んでいたダリオが言う。
「面倒じゃない後悔なんて、たいしたことないぞ」
ガストンは彼を睨んだが、何も言い返さなかった。
ダリオはそれ以上、話に入らない。自分の役目は一言で終わったと分かっているようだった。
その日、鈴は奥の棚へ納められた。
完全に静かではない。時々、小さく鳴る。誰かを呼ぶには弱く、忘れられるには少し強い音だった。
リゼットはガストンの背中を見送った。
捨てたいにおいは、まだ消えていない。けれど、そこに少しだけ調べるにおいが混じった。それだけで、箱の行き先は変わることがある。
満願堂は人を善人に変える場所ではない。
ただ、捨てる前に一度だけ、そこに誰かがいたことを見せる場所ではある。
夜、モルが鈴の棚を見上げた。
「ガストン、また来る?」
「分かりません」
「来たら、うるさい?」
「少し」
「じゃあ、クッキー出す?」
リゼットは笑った。
「それは、来てから考えましょう」
残された五つの箱の行方は、すぐには分からなかった。
だが、ガストンの屋敷では、蔵の整理の仕方が少し変わったという。使用人が箱を開ける前に、古い目録を探すようになった。捨てる品を一箇所へ積むのではなく、誰のものか分かるものと分からないものに分けるようになった。
それだけのことだった。
だが、満願堂にとっては、それだけでも十分に大きい変化だった。
ある日、ガストンの使用人が普通便で小さな封筒を届けた。中には、蔵で見つかった古い家系図の写しが入っている。箱の持ち主を調べるために作ったものらしい。
「主人は、まだ全部納めるつもりではあります」
使用人は小声で言った。
「でも、以前のようにまとめて捨てるとは言わなくなりました」
リゼットは頷いた。
「それは、よいことです」
「よいのでしょうか。屋敷の者は、仕事が増えたとぼやいております」
「願いは、仕事を増やすことがございます」
使用人は少し笑った。
「本当に、その通りです」
その会話を聞いていたダリオは、帰り際にリゼットへ言った。
「俺が言ったことは、余計だったかもしれない」
「なぜですか」
「あの男が反省したようには見えない」
「反省するために言ったのですか」
ダリオは黙った。
少しして、首を横へ振る。
「いや。腹が立ったから言った」
「では、ダリオさんの言葉としては正直でした」
「便利な褒め方だな」
彼は苦笑した。
リゼットは静かに答える。
「誰かを救う言葉でなくても、誰かの足を一度止めることはございます」
ダリオは自分の靴を見る。
後悔を届ける靴ではない。自分で作った、まだ少し硬い靴だ。
「足を止める、か」
彼はそう呟き、店を出た。




