第五十三話 納められなかった笛
その笛は、鳴らないはずだった。
少なくとも、持ち主の青年はそう言った。
名はユリアン。月環街の外れで陶器を扱う小さな店の息子で、父の遺品を整理している最中だったという。古い布に包まれた細い笛を見つけ、何気なく吹いてみた。
音は出なかった。
空気が抜けるだけだった。
だが、その夜から、家の廊下に足音がするようになった。
誰かが玄関から入り、居間の前で立ち止まり、奥の部屋へ向かう。床板の軋み方まで、家族の誰かの歩き方に似ている。けれど、戸を開けても誰もいない。
ユリアンの父は、十年前に家を出た兄を待ち続けて亡くなった。
兄は旅商人に雇われ、遠くの港へ行ったまま戻らなかった。死んだ知らせも、生きている知らせもない。父は最後まで、兄がいつか帰ってくると言っていた。
「父が使っていたものかもしれません」
ユリアンは満願堂のカウンターに笛を置いた。
「でも、家に置いておくと、夜になるたび足音がするんです。母が怯えてしまって」
笛は、骨にも白木にも見える淡い色をしていた。装飾はほとんどない。指穴の縁だけが、長く触れられて丸くなっている。
リゼットは笛に触れず、まず黒布を広げた。
モルがカウンターの上に来て、鼻を近づける。
「足音のにおい」
ユリアンは不安そうに顔を上げた。
「足音に匂いがあるんですか」
「ある」
モルは短く答えた。
「帰りたい。帰ってこない。どっちも」
ユリアンは笛を見た。
「父は、兄に帰ってきてほしかったんだと思います」
「お兄様は、戻られなかったのですね」
リゼットが静かに聞く。
「はい。手紙も、最初の数年だけでした」
その言葉に、リゼットの目がほんの少し遠くなった。
月環街には、待つ人が多い。旅立つ人が多いからだ。馬車、船、行商、奉公、戦場、遠い親戚の家。帰ると言って帰らない人は、街のどこにでもいる。
だが、そのすべてが願い物になるわけではない。
願い物になるのは、待つことが暮らしの中心になり、物がその待つ形を覚えてしまった時だ。
「これは、古いものです」
リゼットは言った。
「お父様の代より、もっと前からあったのかもしれません」
ユリアンは驚いた。
「父のものではないんですか」
「お父様の願いも染みております。ですが、それだけではありません」
笛の表面には、細かな傷がある。ひとりが長く使った傷ではない。何人もの手に渡り、そのたびに吹かれ、そのたびに誰かの足音を呼ぼうとした痕だ。
「月環の堂へ納められなかった願い物に、似ています」
「月環の堂?」
「満願堂の古い呼び名です」
ユリアンはさらに不安そうになった。
「納められなかった、ということは……受け取ってもらえなかったんですか」
「おそらく」
リゼットは頷く。
「けれど、受け取られなかったから悪いもの、というわけではございません」
モルが笛の周りを回った。
「まだ、手、はなれてない」
「手を離れていない?」
「帰ってきてほしい」
モルは笛を見た。
「でも、帰ってこないって言われたくない」
ユリアンは黙った。
それは、父のことでもあり、自分自身のことでもあった。
ユリアンは兄の顔をほとんど覚えていない。年が離れていたし、兄が出た時、ユリアンはまだ幼かった。だが、父が兄を待つ姿だけは覚えている。夕方になると戸口を見る。馬車の音がすれば立ち上がる。手紙の配達日には、いつもより早く店を開ける。
子どもの頃、ユリアンはそれが嫌だった。
兄はいないのに、家の中心にはいつも兄の影がある。父は目の前の自分より、帰ってこない兄を見ているように思えた。
けれど父が死んだ後、ユリアンも時々、戸口を見るようになった。
帰ってきてほしいのか。帰ってこないことを確かめたいのか。自分でも分からない。
「この笛を、納めたいんです」
ユリアンは言った。
「家に足音がするのは、もう嫌です」
リゼットは笛を見た。
「納めることはできます。ただし」
「ただし?」
「足音が聞こえなくなれば、お兄様が帰ってこない時間と、向き合うことになるかもしれません」
ユリアンは息を呑んだ。
「足音がしている間は、まだ帰ってくるような気がしていたんですね」
「ええ」
リゼットの声は静かだった。
「不在にも、音があることがございます」
ユリアンは目を伏せた。
しばらくして、頷く。
「それでも、納めたいです」
「分かりました」
リゼットは笛を両手で受け取った。
納願帳を開く。ユリアンの手は少し震えたが、文字は乱れなかった。
帰ってこない人の足音を、家から納めたい。
その文を見て、モルが鼻を鳴らした。
「まだ、家にいる」
「兄が?」
「待つ人」
ユリアンは何も言えなかった。
リゼットは笛を黒布に包む。
「奥の棚で休ませましょう」
「奥の部屋ではないんですか」
「願いは深く染みていますが、まだ仕上がってはいません。誰かの足を完全に呼び戻そうとしているわけではございませんから」
ユリアンはほっとしたような、寂しいような顔をした。
「帰ってこない人を、呼べるものなんてあるんですか」
リゼットは答えなかった。
ある、とも、ない、とも言えないのだろう。
満願堂には、そういう答えが多い。
その夜、ユリアンの家では足音がしなかった。
母は久しぶりによく眠ったという。ユリアンも眠った。だが、夜半に一度だけ目を覚ました。
足音がしない。
その静けさに、彼はしばらく耳を澄ませた。
うるさいと思っていた音が消えると、家は思ったより広かった。兄の部屋だった場所、父が座っていた椅子、母の寝息。足音が埋めていた隙間が、一晩で戻ってきた。
翌朝、ユリアンは店の前を掃除した。
父が毎朝していたことだ。兄から手紙が来るかもしれないから、配達の人が足を滑らせないようにと、父は雨の日でも店先を掃いた。
ユリアンは、そんな理由で掃除したことはなかった。
だがその朝、彼は戸口の石畳を丁寧に洗った。
誰かが帰ってくるためではない。
誰かが帰ってこなかった家で、自分が店を開けるために。
数日後、ユリアンは満願堂へ来た。
「足音は、もうしません」
「そうですか」
「静かになりました」
「はい」
「でも、たまに、寂しいです」
リゼットは紅茶を注いだ。
「寂しさは、音がなくても残りますから」
ユリアンはカップを受け取った。
「父は、あの足音を聞きたかったんでしょうか」
「お父様にしか、分かりません」
「そうですよね」
彼は少し笑った。
「でも、たぶん、聞きたかったんだと思います。兄が帰ってくる音じゃなくても、帰ってくるかもしれない音を」
モルが足元で言った。
「待つ音」
「そう。待つ音」
ユリアンはその言葉をゆっくり繰り返した。
奥の棚で、笛は静かにしていた。
けれど、満願堂が夜を迎える頃、時々ほんのかすかな足音がすることがあった。店の床ではない。外の石畳でもない。誰かが遠くから戻ろうとして、途中で立ち止まるような音。
モルはその音を聞くと、耳を少し動かす。
「まだ、来ない」
リゼットは棚を見た。
「ええ」
「でも、足ある」
「待つ願いには、足音が残ることもございます」
モルは考えるように尻尾を揺らした。
「帰る?」
「分かりません」
リゼットは静かに答えた。
「けれど、帰らないことを認めるにも、時間がいるのでしょう」
満願堂の奥の棚で、笛は眠っている。
納められなかった願い物が、長い時間を越えて、ようやく休む場所を見つけた。
それでも、完全に静かにはならない。
帰ってこない人を待つ音は、消えるためではなく、少しずつ遠くなるために鳴るのかもしれなかった。
ユリアンの母は、満願堂へは来なかった。
だが、彼女から短い手紙が届いた。息子が笛を納めたこと、夜に足音がしなくなったこと、久しぶりに朝まで眠れたこと。その最後に、小さくこう書かれていた。
静かになって、夫がどれほど待っていたのか、ようやく分かりました。
リゼットはその手紙を読み、笛の記録に挟んだ。
待つ音が消えた後に、待っていた人の姿が戻ることもある。足音が鳴っている間は、その音ばかりを聞いてしまう。音が消えて初めて、誰がそれを聞いていたのかが見える。
数日後、ユリアンはもう一度来た。
手には古い封筒があった。
「父の書きかけの手紙です」
彼は言った。
「兄宛てでした。出していないものが何通もありました」
「お読みになったのですか」
「はい」
ユリアンは封筒を握った。
「父は、兄に帰ってこいとは書いていませんでした。ただ、店の窯を直したとか、母が風邪を引いたとか、僕が皿を割ったとか、そんなことばかり」
「暮らしのことですね」
「ええ」
ユリアンは少し笑った。
「父は、兄に帰ってきてほしかったんじゃなくて、家がまだ続いていることを知らせたかったのかもしれません」
リゼットは紅茶を置いた。
「それも、待つことなのでしょう」
ユリアンは頷いた。
「一通、出してみようと思います。届くかどうか分かりませんが」
「どなたへ?」
「兄が最後にいたらしい港町へ。父の手紙ではなく、僕の手紙として」
モルが足元で言った。
「足音じゃない」
「そうだね」
ユリアンはモルを見て微笑んだ。
「今度は、手紙にする」
満願堂の奥の棚で、笛はその話を聞いていたのかもしれない。
その夜、足音は鳴らなかった。代わりに、棚の奥で一度だけ、息を吹き込まれなかった笛が、かすかに風を通したような音を立てた。
ロイはその後、逓便局でユリアンの手紙を見た。
遠方宛ての普通便だった。黒い紐も暗い赤の封蝋もない。ただの手紙。けれど、宛先の文字は丁寧で、差出人の名はしっかり書かれていた。
「この手紙、満願堂の」
ココが言いかけて、すぐに口を閉じた。
「違いますね。普通便です」
ロイは頷いた。
「普通便だ」
だが、その普通便が、納められなかった願い物の後に生まれたものだと二人は知っている。
ココは手紙を仕分け箱へ置きながら、少しだけ嬉しそうに言った。
「納め物じゃなくても、届けるものはありますね」
ロイはその言葉を聞き、満願堂の棚で眠る笛を思った。
帰ってこない人の足音を呼ぶより、届くか分からない手紙を書く。どちらが確かかは分からない。けれど、手紙には差出人の名前がある。
待つだけではなく、送ることもできる。
それは小さな違いだったが、ユリアンの家にはたぶん大きな違いだった。
数週間後、ユリアンの手紙は宛先不明で一度戻ってきた。
港町には、兄の名を知る者がいなかったという。逓便局の戻り便でその封筒を受け取った時、ユリアンはしばらく黙っていた。
だが、彼は手紙を破らなかった。
封を開け、少しだけ書き足した。
父が亡くなったこと。母がまだ店を手伝っていること。自分が窯の火加減をようやく覚えたこと。それから、兄が帰ってきても、もう父はいないこと。
その手紙を、別の港町へもう一度出した。
ロイは二通目の手紙も見た。
「諦めないんですね」
ココが言う。
「諦めないのとは、少し違うかもしれない」
「どう違うんですか」
ロイは考えた。
「足音を待つのではなく、手紙を出している」
ココはしばらく考え、頷いた。
「動いてる待ち方ですね」
その言葉は、少し変だった。
けれど、ロイには妙にしっくりきた。
満願堂の奥の棚で、笛はもう足音を鳴らさない。だが、それは願いが消えたということではない。願いが別の形へ移ったのだ。足音から手紙へ。待つだけの夜から、宛先を書く朝へ。
リゼットはその話を聞くと、静かに言った。
「納めることで、願いが終わらない場合もございます」
「終わらないんですか」
「ええ。品から離れて、その方自身の時間へ戻ることがございます」
モルが言う。
「笛、寝た。手紙、起きた」
ココは笑った。
「モルさん、今日は詩人みたいです」
「しじん?」
「えらい言い方です」
「モル、えらい」
その会話を聞きながら、ロイは満願堂の棚を見た。納めるとは、閉じ込めることではないのだろう。時には、願いを品から人へ返すことでもあるのかもしれなかった。




