第五十二話 納め台の白い影
オルス・バルカは、朝から古い台と睨み合っていた。
台、と呼ぶには半端だった。脚はない。板も半分ほどしか残っていない。焼け焦げた跡があり、端は虫に食われ、裏には何かの金具が外された痕がある。骨董品としても高く売れるものではない。
だが、オルスはそれを捨てなかった。
古道具市の片隅で見つけた時から、嫌な感じがしたからだ。
嫌な感じにも種類がある。誰かの恨みが濃く残っている品、使われ方が荒くて手に痛い品、単に湿気で腐りかけている品。それらは、職人ならだいたい触れば分かる。
この台片の嫌な感じは、そういうものとは違った。
何かを置くための形をしている。
それだけなら台として当然だ。だが、この板は、置かれたものを自分の上に留めるのではなく、どこかへ渡そうとしていた。
オルスは試しに、古い釘を置いた。
釘は何も変わらない。
次に、修理を待つ小さな木彫りの鳥を置いた。片翼が欠けているだけの土産物だ。
その瞬間、木彫りの鳥の影が薄くなった。
消えたわけではない。色も形も変わらない。だが、そこにあるという手触りが半歩ほど遠ざかった。
オルスはすぐに鳥を取り上げた。
「……お前の行き先じゃないな」
木彫りの鳥は何も答えない。
当たり前だ。
だが、オルスはその日の仕事を一つ後回しにした。
満願堂へ持っていくべきものが増えたからだ。
満願堂に着くと、モルが扉の内側で待っていた。
「オルス」
「今日はまだ何も言ってないぞ」
「持ってる」
「鼻が利きすぎるのも考えものだな」
オルスは布に包んだ台片をカウンターへ置いた。
リゼットは紅茶を用意していた手を止める。
「おはようございます、オルスさん」
「朝から面倒なものを拾った」
「拾ったのですか」
「買った。拾ったような値段だった」
布を開くと、店内の空気がほんの少し低くなった。
表の棚の願具たちは静かなままだった。奥の棚も騒がない。けれど、黒鉄の扉の方から、冷たい息が一度だけ抜けたように思えた。
リゼットは台片に指を近づけたが、すぐには触れなかった。
「古いですね」
「ただ古いだけなら、俺の店で削って終わりだ」
「置かれたものを、少し遠ざけるのでしょう」
「試したのか」
「見れば、少し」
オルスは鼻を鳴らした。
「やっぱり、あんたの店のものか」
「満願堂のもの、というより」
リゼットは少しだけ間を置いた。
「月環の堂のものに近いかもしれません」
その名を聞いて、オルスは眉を寄せた。
「前に逓便局の記録で出たやつか」
「ええ」
モルはカウンターへ上がらなかった。
いつもなら、持ち込まれた品の周りを回り、鼻を近づけ、気になる言葉を落とす。だがその日は、台片の前へ行くと、そのまま丸くなった。
「モル?」
リゼットが呼ぶ。
モルは台片のそばに顔を伏せた。
「ここ」
「ここ?」
オルスが聞くと、モルは目を閉じたまま言った。
「しってる」
リゼットの表情が、ほんの少し柔らかくなった。
「そうですか」
「ここ、ねてた」
その声は、いつものモルより少し低かった。
オルスは腕を組んだ。
「お前、こんな板の上で寝てたのか」
「板、ちがう」
「じゃあ何だ」
「おくところ」
リゼットが答えた。
「納め台です」
台片の焦げた端を、リゼットは今度こそそっと撫でた。
「昔、願い物を置いた場所です。受け取られるものは、そこから消えました。受け取られないものは、残りました」
オルスは台片を見る。
「消えるのか」
「今の満願堂でいうなら、納まる、に近いでしょうか」
「捨てるのとは違うんだな」
「ええ」
リゼットは頷いた。
「捨てるものは、持ち主が手を離した時点で行き先を失います。納めるものは、行き先へ渡すために置かれます」
オルスは黙った。
職人として、物の行き先を考えることはある。椅子は座られるためにあり、櫛は髪を梳くためにある。だが、この台は何かに使われるためではなく、使われたものを行かせるためにある。
道具のくせに、自分の仕事を残さない道具。
それは少し、満願堂そのものに似ていた。
モルが台片のそばで小さく寝息を立て始めた。
オルスは驚く。
「寝たぞ」
「懐かしいのかもしれません」
「こいつにも懐かしいなんてあるのか」
「あるかもしれません」
リゼットは、はっきりとは言わなかった。
その曖昧さが、オルスには少し気になった。リゼットは物事を隠す時、嘘をつくより、静かに言葉を細くする。今もその細さがある。
「この板はどうする」
「満願堂で預かります」
「奥の棚か」
「奥の棚ではなく、少し別の場所に」
リゼットは台片を見た。
「棚に置くものではないようです」
「台だからか」
「ええ」
オルスは苦笑した。
「道理だな」
その時、扉の鈴が鳴った。
入ってきたのはロイだった。逓便局の制服姿ではあるが、荷物は小さい。普通便の茶葉と、古書の包みだけだった。
「逓便局です。お届け物です」
ロイはカウンターの上の台片と、そのそばで眠るモルを見て足を止めた。
「今日は……何かありましたか」
「いつもの満願堂だ」
オルスが言う。
「いつもより床が古いだけだ」
「床?」
ロイが困った顔をすると、リゼットが静かに受け取り帳を出した。
「ありがとうございます、ロイさん。そちらへお願いいたします」
ロイは帳面に署名しながら、台片から目を離せなかった。
「それは、納め物ですか」
「いいえ」
リゼットは答える。
「納めるためのものです」
ロイの手が止まった。
その違いが、すぐには分からない。けれど、分からないまま聞き流してよい言葉ではない気がした。
「昔のものですか」
「ええ」
リゼットはそれ以上言わなかった。
ロイは聞きたかった。
昔とは、どれくらい昔なのか。満願堂になる前なのか。モルがまだ喋らなかった頃なのか。リゼットさんがここに来る前なのか。
だが、台片のそばで眠るモルを見て、聞くのをやめた。
眠っているものを無理に起こすのは、たぶん違う。
ロイが帰ると、オルスはリゼットに言った。
「あの逓便局員、聞きたそうだったぞ」
「ええ」
「答えないのか」
「まだ、聞くには早いこともございます」
「便利な店だな。品も人も、早い遅いで片づける」
「物にも、時がございますから」
オルスは返す言葉を失った。
それは職人として、少し分かってしまう言葉だった。
割れたばかりの木はすぐに接いではいけない時がある。湿気を抜き、歪みが止まるのを待つ。古い革も、いきなり力をかければ裂ける。待つことで直るものはある。
聞くことにも、待つ時があるのかもしれない。
リゼットは台片を黒布ではなく、生成りの布で包んだ。
「黒布じゃないんだな」
「これは、まだ眠る場所の欠片ですから」
「黒布は?」
「納めるものを休ませるために使います」
「じゃあ、これは休ませる側か」
「そうですね」
モルは眠ったまま、小さく尻尾を動かした。
「おくところ」
寝言のような声だった。
オルスはそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
「これ、直す必要はあるか」
リゼットは台片を見る。
「欠けていますし、焼けています」
「見れば分かる」
「けれど、直さない方がよいでしょう」
オルスは頷いた。
「だろうな」
悔しいが、分かっていた。
これは壊れたから価値が落ちたものではない。残ったから意味があるものだ。完全に戻せば、別のものになる。
「納め台の欠片は、欠片のまま置いておきます」
リゼットは言った。
「今の満願堂が、昔のすべてを取り戻す必要はございませんから」
オルスは、その言葉をしばらく考えた。
取り戻さなくていい過去。
残っていればいい欠片。
そんなものもあるのかもしれない。
店を出る頃、モルはまだ眠っていた。
オルスが扉に手をかけると、背中に小さな声が届く。
「オルス」
振り返ると、モルが片目だけ開けていた。
「台、ありがとう」
「俺が作ったわけじゃない」
「持ってきた」
「……そうだな」
オルスは少しだけ口元を緩めた。
「どういたしまして」
外へ出ると、月環街の石畳には朝の光が落ちていた。
満願堂の中にあった古い台片の気配は、外へ出ても少し残っている。
どこかへ行かせるための場所。
オルスは自分の作業場を思い出した。
あそこには、直されるのを待つ品がある。持ち主のところへ帰るものもあれば、満願堂へ行くものもある。どちらでもないまま、しばらく棚に置かれるものもある。
物には時がある。
そして、置かれる場所にも時がある。
面倒な話だ。
そう思いながら、オルスはいつもより少しゆっくり歩いた。
翌日、リゼットは納め台の欠片を店の奥へ運んだ。
奥の棚でも、黒鉄の扉の向こうでもない。カウンターの奥、納願帳の置かれた机のさらに下、普段は古い茶器の箱を置いている場所だった。そこへ生成りの布を敷き、台片を横たえる。
モルはその横に丸くなった。
「そこがいいのですか」
「うん」
「お客様の邪魔になりませんか」
「ならない」
「では、しばらくそこにしましょう」
モルは目を閉じた。眠っているように見えるが、耳だけは店の音を拾っている。扉の鈴、紅茶を注ぐ音、頁をめくる音。今の満願堂の音が、古い台片のそばへ少しずつ積もっていく。
昼過ぎ、エリアスが台片に気づいた。
「今日は、モルの席が少し違うのね」
「はい。古いものが来ましたので」
「古いもの」
エリアスは台片を見た。彼女は仕上がった常連であり、変わらない日々を持つ人だ。だが、古いものへの感覚は鈍くない。むしろ、変わらないからこそ、変わったものに気づく。
「何かを置くためのもの?」
「ええ」
「では、今日はモルが置かれているのね」
モルが目を開けた。
「モル、置かれてる?」
「自分で置かれているなら、少し違うかしら」
エリアスは小さく笑った。
モルは考え込む。
「モル、自分でいる」
「それならいいわ」
その会話を聞いて、リゼットは少しだけ目を伏せた。
自分でいる。
モルは当たり前のように言ったが、昔の白い影にはその言葉がなかった。台のそばにいて、願いの匂いを嗅ぎ、迷うもののそばで丸くなる。ただそれだけだった。
名前を持つ前のモルは、自分でいるということを知らなかったのかもしれない。
オルスは夕方にもう一度来た。
「まだ寝てるのか」
「寝たり起きたりしています」
「羨ましい身分だな」
モルは片目を開ける。
「オルスも、寝る?」
「俺がそこで寝たら通報される」
「通報?」
「やめておけ」
リゼットは笑いを堪え、紅茶を置いた。
オルスは台片を見下ろした。
「これを置いた場所、いいのか」
「はい」
「棚にも奥にも入れない」
「ええ」
「分類できないものは困るな」
「そうですね」
リゼットは否定しなかった。
「ですが、分類できないからこそ、古い形に近いのでしょう」
オルスは紅茶を飲み、渋い顔をした。
「満願堂も、昔は分類なんてなかったわけか」
「おそらく」
「願具も魔願具も満願具もなし。全部、願い物」
「はい」
「荒っぽいな」
「ええ」
リゼットの声は静かだった。
「けれど、その荒っぽさの中にしか納まらなかった願いも、あったのでしょう」
オルスはそれ以上聞かなかった。
何でも細かく分ければいいわけではない。職人の道具箱も同じだ。釘、鋲、金具、木片。分類できるものはある。だが、いつか使うかもしれない形の分からない欠片も、捨てずに残すことがある。
納め台の欠片は、そういうものなのだろう。
夜になると、台片の上に一度だけ淡い影が落ちた。
白い影だったのか、モルの夢だったのか、リゼットには分からなかった。
ただ、モルが寝言のように呟いた。
「ここ、しずか」
リゼットは灯りを落としながら答えた。
「ええ。今は、とても静かです」




