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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第二章 奥の棚に眠るもの

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第五十一話 古い名の記録

月環街逓便局の古い記録室は、昼間でも少し暗い。


窓はある。けれど、そこから入る光は、棚と棚の間に積もった埃を薄く照らすだけだった。長い年月に押しつぶされた紙の匂い、乾いた革紐の匂い、封蝋の欠片が持つかすかな甘い匂い。新しい伝票を扱う仕分け場とは、空気の重さが違っていた。


ヴェルナー・グレイスは、その記録室で古い箱を一つ開けていた。


箱の蓋には、今の逓便局の局章よりも線の深い紋章が焼き付けられている。月環。扉。閉じた目。目の上下には、古い形式にだけある細い刻みが残っていた。


「局長補佐、こちらも確認しますか」


ロイが尋ねると、ヴェルナーは短く頷いた。


「手袋を替えろ」


「はい」


ロイはすぐに予備の手袋を出した。


古い記録に触れる時、ヴェルナーは必要以上に慎重になる。若い局員の中には、それを大げさだと思う者もいる。だが、ロイはもう笑えなかった。満願堂に関わるものは、見た目の軽さで扱うべきではないと知り始めていたからだ。


ココは隣で耳をぴんと立てていた。


「僕も手袋、替えます」


「お前はまず、棚に耳をぶつけるな」


「はい!」


返事をした拍子に、ココの耳が棚板へ軽く触れた。


ヴェルナーはため息をついたが、叱らなかった。古い記録室では、強い声を出すことさえ憚られる時がある。


箱の底に、厚い紙束があった。


今の伝票とは大きさが違う。紙は灰色がかり、縁は波打っている。黒い紐で束ねられていた痕があり、ところどころに暗い赤の封蝋が薄く貼りついていた。


ヴェルナーは一枚ずつめくった。


その手が、ある紙片で止まる。


ロイも、ココも、同時に息を詰めた。


そこには、古い文字でこう書かれていた。


月環の堂へ、願い物を納む。


「……月環の堂」


ロイが声に出した。


ココは首を傾げる。


「満願堂じゃないんですか?」


ヴェルナーはすぐには答えなかった。


彼の右手の古い痕が、手袋の下でわずかに強張ったように見えた。


「満願堂になる前の呼び名だ」


「なる前」


ココは古い紙を覗き込んだ。


「願い物って、納め物のことですか?」


「今の言葉で言えば、近い」


「近い?」


「同じではない」


ヴェルナーは紙片を折らずに、平らな板の上へ置いた。


「この頃は、願具も魔願具も満願具も分けていない。持ち込まれるものは、まとめて願い物と呼ばれていたらしい」


ロイは眉を寄せた。


「納め物より古い言葉なんですね」


「ああ」


紙片の下には、さらに別の記録があった。


納め台に置くこと。


受けられしものは消ゆ。


受けられざるものは残る。


ココが小さく呟く。


「納め台……」


その言葉は、妙に古かった。古い棚や古い封蝋よりも、さらに前の、誰かが祈るように物を置いていた時代の匂いがした。


ヴェルナーは紙片をまとめた。


「これは満願堂へ持っていく」


「写しを取らなくていいんですか」


ロイが聞くと、ヴェルナーは彼を見る。


「写しは取る。だが、先に見せるべき相手がいる」


満願堂の扉を開けると、いつもの鈴の音がした。


紅茶と古書の香りが、逓便局の記録室とはまるで違う柔らかさで三人を迎える。だが、その日ばかりは、ロイには店内の古さがいつもより濃く感じられた。


「いらっしゃいませ」


リゼットが顔を上げる。


モルはカウンターの上で丸くなっていたが、ヴェルナーの持つ包みに気づくとすぐに起きた。


「ふるい」


短く言って、鼻をひくつかせる。


ヴェルナーは包みをカウンターへ置いた。


「逓便局の旧記録だ。満願堂に関わるものと思われる」


リゼットは黒布を広げ、その上で紙片を受け取った。


指先が紙に触れた瞬間、彼女の表情がほんの少しだけ静かになった。驚きではない。懐かしさとも違う。ずっと奥の棚にしまっていたものを、予期せず表へ出されたような顔だった。


ロイはそれを見た。


ココはモルの尻尾を見ていた。


ヴェルナーは、リゼットの顔を見ないようにしていた。


「月環の堂」


リゼットは紙の文字を読み、ゆっくりと口にした。


その声は、いつもの満願堂より少し低かった。


「やはり、ご存じなのですね」


ロイが言うと、リゼットは穏やかに頷いた。


「今の満願堂になる前の、古い呼び名です」


「店ではなかった頃ですか」


「ええ」


リゼットは紙片を撫でるように見た。


「紅茶も、古書も、表の棚もございませんでした。ただ、願い物を置く場所があったのです」


「納め台、ですか」


「はい」


ココが目を丸くした。


「じゃあ、昔はカウンターじゃなくて台だったんですね」


モルが言う。


「おくところ」


「モルさん、知ってるんですか?」


「しってる」


モルは紙片へ鼻を寄せた。


「でも、ことば、あと」


「言葉が、後?」


ココには意味が分からなかった。


リゼットはモルの頭をそっと撫でた。


「モルは、今のように話していたわけではありませんから」


その言葉に、ロイは思わず顔を上げた。


「今のように、ということは」


リゼットは微笑んだ。


「昔のことは、紙の方がよく覚えている場合もございます」


答えになっていない。


だが、満願堂で返ってくる答えは、いつも少しだけ扉の向こうにあった。


ヴェルナーが咳払いした。


「この記録は逓便局で保管する。満願堂で預かるべきものではないと判断した」


「ええ。それでよろしいかと」


リゼットは紙片を丁寧に返した。


ロイは一瞬、リゼットが返したくないのではないかと思った。だが、その指先は迷っていなかった。紙は逓便局の記録であり、帰る場所は逓便局だと、彼女は知っているのだろう。


ココが言った。


「昔は、納め物じゃなくて願い物だったんですね」


「そうですね」


「じゃあ、今の納め物って、願い物が帰ってきたものですか?」


リゼットは少しだけ目を細めた。


「とても近いと思います」


「近い」


ココは満足そうに頷いた。


「じゃあ、今の言葉の方が、ちょっと丁寧ですね。納め物って、ちゃんと帰る場所がある感じがします」


ヴェルナーがココを見た。


ロイも見た。


リゼットは静かに微笑んだ。


「ええ。よい言葉ですね」


モルが紙片の匂いをもう一度嗅いだ。


「リゼットより、ふるい」


店内が、ほんの少しだけ静かになった。


「モル」


リゼットの声は咎めるものではなかった。


モルは首を傾げる。


「ふるい、におい」


ロイはリゼットを見た。


リゼットは笑っていた。いつものように、柔らかく、静かに。


けれどその笑みの奥で、何かが閉じた気がした。


ヴェルナーは包みをしまった。


「写しは改めて届ける」


「ありがとうございます」


「この件を、若い局員に軽く扱わせるつもりはない」


「ヴェルナーさんは、昔から丁寧でいらっしゃいます」


その言葉に、ヴェルナーの顔がほんの少し硬くなった。


「昔から、ですか」


ロイは聞き逃さなかった。


リゼットは穏やかに言った。


「逓便局の皆様には、長くお世話になっておりますから」


また、答えではない答えだった。


三人が帰った後、満願堂にはいつもの静けさが戻った。


モルはカウンターの上で丸くなり、尻尾を揺らす。


「リゼット」


「はい」


「月環の堂」


「ええ」


「なつかしい?」


リゼットはすぐには答えなかった。


紅茶の湯気が、ゆっくりと上がる。ステンドグラスの淡い光が、その湯気を少しだけ金色に染めた。


「懐かしい、とは少し違います」


「ちがう?」


「ええ」


リゼットは納願帳を閉じた。


「今の満願堂になる前の名前ですから」


「まえ」


「はい」


「リゼットのまえ?」


リゼットは微笑んだ。


「そうですね」


モルはそれ以上聞かなかった。


けれど、その日、カウンターの奥の黒鉄の扉は、いつもより少し深く沈んで見えた。


その夜、逓便局では古い記録の写しが作られた。


ロイは、紙を押さえる役を任された。古い文字は写し間違えやすく、ヴェルナーは一字ごとに確認した。月環の堂。願い物。納め台。どの言葉も、今の逓便局の帳票にはないものだ。


「局長補佐」


「何だ」


「この記録を、今まで誰も見ていなかったのでしょうか」


ヴェルナーはペンを止めた。


「見た者はいたかもしれん。だが、読める者と、読んだ意味を抱えられる者は違う」


ロイは答えに詰まった。


「お前も、読んだからといって分かった気になるな」


「はい」


「満願堂に関わる記録は、答えではない。扉の前に立たされるだけだ」


その言葉を聞いた時、ロイは昼間のリゼットの顔を思い出した。月環の堂という文字を見た時、彼女は懐かしむでも恐れるでもなく、ただ少し遠くを見た。あの遠さは、どれくらいの距離なのだろう。


ココは別の机で、写し終えた紙を乾かしていた。


「願い物って、かわいい言葉ですね」


「かわいい?」


ロイが聞くと、ココは真面目に頷く。


「納め物より、まだ誰かの手の中にありそうです」


ヴェルナーは何も言わなかった。


けれど、彼の右手は机の下で一度だけ緩んだ。


満願堂では、リゼットがその頃、黒鉄の扉の前に立っていた。


扉は閉じている。中央の閉じた目も、いつも通り眠っているように見える。けれど、月環の堂という古い名を聞いた後では、その目が少しだけ古い夢を見ているようにも思えた。


モルが足元へ来る。


「リゼット、行かない?」


「今は行きません」


「ふるいところ」


「ええ」


リゼットは扉に触れなかった。


「古い名前が戻ってくると、古い願いも目を覚ましやすくなります」


「起きる?」


「少しずつ」


モルは扉を見上げた。


「じゃあ、モルも起きる?」


リゼットは微笑んだ。


「モルは、もうずいぶん起きていますよ」


「そう?」


「ええ。はんこも押せますし」


モルはしばらく考え、満足そうに尻尾を揺らした。


「モル、起きてる」


その小さな誇らしさに、リゼットは少し救われた。古い名が戻っても、今の満願堂には今の声がある。ココの明るい返事も、ロイの硬い会釈も、モルのはんこも、紅茶の湯気も。


月環の堂は、満願堂の前の名だ。


けれど、満願堂はただ古い名へ戻るわけではない。


リゼットはそう思いながら、灯りを一つ落とした。


翌朝、満願堂の看板を見上げたココは、いつもより少しだけ長く立ち止まった。


ティーポットと古書と小さな鍵。昨日までは可愛い茶房の看板に見えていた。今もそう見える。けれど、鍵の輪の細い線が、どこか月環の輪に似ている気がした。


「ココ、看板」


モルがカウンターから言う。


「はい。見てました」


「かわいい?」


「かわいいです。でも、ちょっと古いです」


「古い、かわいい?」


「たぶん」


モルは真剣に考えた。


「じゃあ、モルも」


「モルさんもかわいいです」


「古い?」


ココは一瞬詰まった。


「……少し?」


モルは満足そうに頷いた。


ロイが後ろで小さく咳をした。笑ったわけではない。だが、肩が少し揺れていた。


この軽いやり取りを、リゼットは奥から見ていた。


古い名が戻ってきても、満願堂の朝はこうして始まる。逓便局の荷物が届き、ココがモルを撫で、ロイが伝票を整え、紅茶の湯気が立つ。


昔の名は、今を消すために戻ってくるのではない。


今の形の下に、まだ眠っているものを知らせるために戻ってくる。


リゼットはそう思い、いつものようにカップを並べた。


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