第四十六話 壊さないという仕事
オルス・バルカは、壊す仕事を嫌っていた。
修理職人だから当たり前だ、と言われればそれまでだ。だが彼が嫌っているのは、古い家具を解体することや、錆びた金具を外すことではない。使えなくなったものを別の形にすることはある。折れた木を燃やし、割れた皿を土へ返すこともある。
彼が嫌いなのは、誰かが楽になるためだけに、物へ終わりを押しつけることだった。
「壊してください」
その日、店に来た婦人は、黒い布に包んだ手鏡を差し出した。
年は四十を少し過ぎたあたりだろう。身なりは良く、指には細い指輪がいくつも光っている。だが目の下には深い影があり、手鏡を持つ指は落ち着きなく震えていた。
「修理ではなく?」
オルスが聞く。
「壊してほしいのです」
「なぜ」
「それを見ると、母の顔が映るんです」
婦人は疲れた声で言った。
「母はもう亡くなりました。でも鏡を見るたびに、母がこちらを見る。怒っているわけではありません。ただ、見ている。それが耐えられないんです」
オルスは布を開いた。
中には銀縁の手鏡があった。装飾は古く、柄の部分には細い花模様が彫られている。鏡面は曇っていない。むしろよく磨かれている。
だが、オルスは一目で分かった。
これは普通の鏡ではない。
鏡面の奥が、やけに静かだった。
「満願堂へ行った方がいい」
「嫌です」
婦人は即座に言った。
「納めるのではなく、壊したいんです。二度と見えないように」
「俺は願具を壊す職人じゃない」
「お金なら払います」
「金の話じゃない」
そう言いながら、オルスはリゼットの言い方がうつったことに少し腹を立てた。
婦人は唇を噛む。
「では、どこへ持っていけばいいのですか」
「だから、満願堂だ」
「納めると、母が残るのでしょう」
その言葉で、オルスは手鏡から婦人へ視線を移した。
「残るのが嫌なのか」
「忘れたいんです」
「なら、壊しても忘れられるとは限らない」
オルスは鏡を包み直した。
「むしろ、変なところが抜けることがある」
婦人は意味が分からない顔をした。
オルスはため息をついた。
「一緒に来い」
満願堂へ着くと、モルがすぐに手鏡へ寄ってきた。
「見てるにおい」
「やっぱりな」
オルスはカウンターに包みを置いた。
リゼットは婦人を席へ案内し、紅茶を出した。
「こちらは?」
「壊してほしいと持ち込まれた。俺の仕事じゃない」
「そうですね」
リゼットは手鏡を黒布の上へ置く。
「これは、母親の視線を覚えた願具です」
婦人は顔を上げた。
「視線を」
「はい。お母様が長くお使いになった鏡なのでしょう。おそらく、ご自身の顔ではなく、娘であるあなたを案じる目が強く残っています」
「案じる目」
婦人の声には、苦さがあった。
「母は私を案じる人でした。何を着ても、どこへ行っても、誰と会っても、あれこれ言う。私はもう大人なのに、最後まで子どもを見るように見ていました」
「その視線が、鏡に残ったのですね」
「だから壊したいんです」
婦人はカップに触れなかった。
「母の声も、言葉も、もう聞こえません。なのに視線だけが残るなんて、ひどいと思いませんか」
リゼットはすぐには答えなかった。
モルが手鏡を覗き込む。
鏡には、モルの白い毛が映っているだけだった。
「モルは、見られない」
「お前は母親じゃないからな」
オルスが言うと、モルは納得したように頷いた。
婦人の名はカリナといった。
母は厳しい人だった。服の皺、食べ方、歩き方、言葉遣い。何でもよく見て、何でも口にした。カリナは若い頃から、その視線が嫌だった。
母が亡くなった時、悲しみと同じくらい、少し自由になったような感覚があったという。
そのことを、カリナは誰にも言えなかった。
しかし母の遺品を整理していると、手鏡が出てきた。
試しに覗いた瞬間、鏡の中の自分の後ろに、母の気配を感じた。姿はない。声もない。ただ、見られている。
髪が乱れていれば、母なら注意しただろう。
顔色が悪ければ、母なら休みなさいと言っただろう。
派手な口紅をつければ、母なら眉をひそめただろう。
実際には何も言われない。
だから余計に、カリナはその視線から逃げられなかった。
「母は私を愛していたのでしょう」
カリナは言った。
「分かっています。でも、愛されていたから苦しくないわけではありません」
「はい」
リゼットは頷いた。
「愛の形が、その方に合わないこともございます」
カリナは少し驚いたようにリゼットを見た。
責められると思っていたのかもしれない。
親の愛を嫌がるなんて、と。
だが、満願堂は願いを裁く場所ではない。
願いの行き先を見る場所だ。
「壊せば、母の視線は消えますか」
「鏡としての形は壊れます」
リゼットは答えた。
「ですが、そこに残った願いがどこへ行くかは分かりません。割れた欠片に散るかもしれませんし、カリナさんご自身の中へ強く戻るかもしれません」
「戻る」
「ええ。見られているという感覚だけが、鏡なしで残ることもございます」
カリナは青ざめた。
オルスは横で腕を組む。
「だから言った。壊せば楽になるとは限らない」
「では、納めるしかないのですか」
カリナの声には抵抗があった。
「納める以外にも、使い方を変えることはできます」
リゼットは手鏡を見た。
「例えば、お母様の視線が苦しい日には見ない。けれど、何かを確かめたい日だけ取り出す。そうして距離を置くことも」
「できません」
カリナは首を横へ振った。
「私は弱いので、あると見てしまいます。見て、母に腹を立てて、でも少し安心するんです。そういう自分も嫌なんです」
その言葉は、正直だった。
リゼットは静かに頷く。
「でしたら、今日すぐ壊すことはおすすめ致しません」
カリナは顔を上げた。
「では、どうすればいいのですか」
「満願堂へ納めることもできます」
リゼットは手鏡を見た。
「けれど、今のカリナさんには、それがまだ、お母様を捨てることに近く感じられるのでしょう」
カリナは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
「ならば、壊さず、納めず、少し離してみるのはいかがでしょう」
「離す?」
「はい。家の中ではなく、けれど満願堂の奥の棚でもない場所へ。見たい時にすぐ見られず、壊したい時にすぐ壊せない場所へ」
リゼットはオルスを見た。
オルスは嫌な予感がしたように眉を寄せる。
「俺の店は物置じゃない」
「修理屋です」
「修理しないなら、なおさら俺の仕事じゃない」
モルが足元で言った。
「壊さない人」
「修理職人だ」
「今日は、壊さない人」
オルスは長く息を吐いた。
「一晩だけだ」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。俺の棚が一段ふさがる」
カリナは布に包まれた手鏡を見つめた。
「一晩、離れるだけでも、変わるでしょうか」
「変わるかどうかは分かりません」
リゼットは言った。
「ですが、壊す前に一晩置くことはできます」
壊さないと決めた手鏡は、しばらくオルスの作業場に置かれた。
もちろん、鏡面は布で包んである。見るためではなく、これ以上傷つけないためだ。カリナは、すぐに持ち帰ることを恐れた。
「家に置くと、また壊したくなるかもしれません」
そう言ったからだ。
オルスは預かり証を書いた。
満願堂なら納願帳に書くだろう。逓便局なら伝票を切る。修理屋には修理屋の紙がある。
品名、手鏡。
状態、割れなし。
処置、破壊せず保管。
そこまで書いて、オルスは少しだけ手を止めた。
処置、破壊せず保管。
修理屋の控えに書くには妙な言葉だった。
だが、今はそれ以外に近い言葉がない。
数日後、カリナは戻ってきた。
「娘と話しました」
彼女はそう言った。
娘は、鏡を捨てても母親の視線が消えるわけではないと言ったらしい。むしろ、壊したことまで母のせいにしてしまいそうで怖い、と。
「では、どうなさいますか」
オルスが聞くと、カリナは布に包まれた鏡を見た。
「満願堂へ納めるのではなく、家の奥にしまいます。いつか見ても平気になるかもしれない。ならないかもしれない。でも、壊して終わりにするのは、やめます」
オルスは頷いた。
「それがいい」
「直さなくていいんですか」
「今はな」
カリナは少し笑った。
「修理屋さんなのに」
「最近、直さない仕事が増えた」
「困りますね」
「ああ。困る」
けれど、その声には以前ほどの苛立ちはなかった。
カリナが帰った後、オルスは預かり証の控えを見た。
破壊せず保管。
それは満願堂だけの仕事ではない。
修理屋にも、逓便局にも、花屋にも、誰かの家の戸棚にもできることなのかもしれない。
願いを納める場所は満願堂だ。
だが、願いを壊さずに一晩置いておく場所なら、街のあちこちに作れる。
オルスはそう思い、作業場の棚を一段空けた。
直すものでも、捨てるものでもない品のための、小さな場所だった。
それは誰にも言わなかった。
だが翌週、モルが満願堂で彼を見上げて言った。
「オルス、棚つくった?」
「……鼻が利きすぎる」
「いいにおい」
オルスは返事をしなかった。
けれど、少しだけ口元が緩んでいた。
その棚は、立派なものではなかった。
壁際の工具棚の下を少し空け、古い布を敷いただけの場所だ。名前もない。札もない。満願堂の奥の棚のように静かでもなければ、逓便局の棚のように整理されてもいない。
けれど、そこに置かれた品は、少なくとも今すぐ壊されない。
直されるまでの場所ではなく、壊される前に一度息を置く場所。
オルスはその違いを、誰にも説明しなかった。説明すれば、また面倒な依頼が増えるからだ。
それでも、作業場の片隅にそういう場所ができたことを、彼自身は忘れなかった。
満願堂だけが、すべての品を抱えなくてもいい。
その考えが自分の中に浮かんだことに気づき、オルスは少しだけ舌打ちした。
満願堂の管理人に似た考え方をするのは、どうにも癪だった。




