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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第二章 奥の棚に眠るもの

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第四十七話 帳面を読む夜

満願堂が夜に閉じた後も、店内から音が消えるわけではない。


古い木がゆっくり鳴る。棚の奥で願具が小さく沈黙を整える。茶器に残った熱が薄れ、ガラス窓が外の冷気を受けて曇る。モルが寝返りを打つと、首元の古い鍵が小さく鳴った。


リゼットはその夜、店の灯りをひとつだけ残していた。


カウンターの上には、黒布に包まれた古い帳面がある。少し前に留め具が戻り、最初の頁を少しだけ読んだものだ。


昼間は開かない。


客がいる時間には、満願堂の声が多すぎる。誰かの願い、紅茶を頼む声、頁をめくる音、逓便局の足音、モルの短い言葉。


帳面の声を聞くには、夜の方がよかった。


「読むのね」


窓際から声がした。


エリアスだった。


彼女は閉店後も時々、リゼットに促されるまで席にいることがある。時間を失ったわけではない。ただ、いつもの席にいることが彼女の仕上がりだからだ。


「お帰りになる前に、一頁だけ」


リゼットは言った。


「私がいてもいいのかしら」


「いてくださる方が、今日はよい気がします」


エリアスは静かに微笑んだ。


「では、いつもの席で」


モルはカウンターの上で丸くなっていたが、目だけは開いている。


「モルも、いる」


「はい」


リゼットは黒布を外した。


帳面の表紙は、昼よりも濃く見えた。


灯りのせいかもしれない。だがリゼットには、帳面そのものが夜の方に馴染んでいるように思えた。古い願いは、昼の光の下では少し薄くなる。夜になると、忘れられた声が戻ってくる。


留め具を外す。


カチリ、と小さな音がした。


リゼットは最初の頁を飛ばさず、前に読んだ行をもう一度見た。


壊す前に、聞くこと。


願いを、なかったことにしないこと。


その先に、前は読めなかった文字が少し浮かんでいた。


願いを帯びた品は、持ち主だけのものではない。


願いを帯びた品に触れた者、止めた者、奪った者、捨てた者、壊した者。


それぞれに、願いの欠片が残る。


だから壊す前に、聞くこと。


誰が願ったのか。


何を願ったのか。


何を失いたくなかったのか。


リゼットは息を止めた。


文字は古い。けれど、考え方はあまりに近かった。


まるで自分が書いたような、けれど自分より前に書かれたような文章。


「リゼット」


モルが呼ぶ。


「はい」


「顔、遠い」


「そうですね」


リゼットは小さく笑った。


「少し、遠くを読んでおります」


エリアスは本を閉じて、カウンターの方を見ていた。


「声に出してもらえる?」


「読みにくいかもしれません」


「読みにくいものは、ゆっくり聞くわ」


リゼットは頷き、帳面の文章を声に出した。


願いを帯びた品を壊す時、周囲は楽になることがある。


泣く者が泣かなくなり、待つ者が待たなくなり、望む者が望まなくなる。


人はそれを救いと呼ぶ。


だが、泣いていた理由、待っていた時間、望んでいた光まで消えるなら、それは救いだけではない。


願いを帯びた品を壊す前に、その願いの名を聞くこと。


壊すしかないなら、せめて書き留めること。


書き留めた願いは、完全には消えない。


消えなかった願いは、いつか帰る場所を探すかもしれない。


声に出して読むと、文字の古さが少し薄れた。


リゼットの声に乗ることで、遠い言葉が今の満願堂へ届く。


エリアスは静かに聞いていた。


「あなたの言葉に似ているわ」


「私も、そう思いました」


「でも、あなたが書いた記憶はないのね」


「はい」


リゼットは帳面に目を落とす。


「少なくとも、今の私には」


エリアスは少しだけ首を傾けた。


「今の私、という言い方をするのね」


リゼットは答えに詰まった。


モルが代わりに言う。


「ふるいリゼット」


「モルには、そう匂うのね」


「うん」


モルは自信ありげだった。


「でも、こっちのリゼットも、リゼット」


その言葉に、リゼットは微笑んだ。


「ありがとうございます」


次の頁には、名前の一覧があった。


しかし、多くは滲んで読めない。読めるものも、今の満願堂の納願帳とは違う形式だった。


品名。


願い。


持ち主。


処分の有無。


処分後に抜け落ちたもの。


リゼットは一つの行に目を留めた。


小さな鈴。


子の笑い声を残したい。


母。


壊す。


母、笑い方を忘れる。


そこまで読んで、リゼットは手を止めた。


エリアスは何も言わない。


モルも黙っている。


リゼットは別の行を見る。


青い布箱。


帰らぬ夫の声を聞きたい。


妻。


壊す。


妻、夫の声を忘れる。声を忘れたことを忘れない。


リゼットの指先が少し震えた。


処分後に抜け落ちたもの。


それを記録している。


ただ願いを書き留めるだけではない。壊した後、何が消えたのかまで見ている。


これは処分役の記録だ。


リゼットは直感した。


満願堂の帳面ではなく、壊す側にいた者の帳面。


それなのに、願いをなかったことにしたくないという思いが滲んでいる。


「リゼット」


エリアスの声が届く。


「今日は、そこまでにした方がよさそうね」


「……はい」


リゼットは頁を閉じた。


閉じる時、紙が小さく鳴った。


まるで、まだ読まれたいとでも言うように。


リゼットは紅茶を淹れ直した。


夜の紅茶は、昼より少し薄くする。眠りを邪魔しないように。もっとも、エリアスが眠るのかどうかは、リゼットにもはっきりとは分からない。


「その帳面は、あなたの過去なの?」


エリアスが聞いた。


「分かりません」


「分からないのに、痛そうな顔をしているわ」


「痛い、のでしょうか」


リゼットは自分の胸元へ手を当てた。


月環のペンダントが指に触れる。


「自分のものだと分からない痛みは、扱いが難しいですね」


「でも、誰かの痛みとしてなら、あなたは扱える」


エリアスの声は穏やかだった。


「だから満願堂の管理人なのでしょうね」


リゼットは少しだけ笑った。


「褒めてくださっているのでしょうか」


「たぶん」


エリアスはモルのような言い方をした。


モルが顔を上げる。


「エリアス、モルのまね」


「そうかしら」


「そう」


少しだけ空気が和らいだ。


リゼットはカップをエリアスの前へ置いた。


「ありがとうございます」


「私は、いつもの席にいただけよ」


「それが助かりました」


エリアスは紅茶を飲み、静かに微笑んだ。


「それなら、いつもの役目ね」


深夜、エリアスが帰った後も、リゼットはしばらく帳面の前にいた。


モルはカウンターの上で丸くなっている。


「リゼット、寝る?」


「もう少しだけ」


「読む?」


「いいえ。今日は読みません」


「じゃあ、見る?」


「ええ」


黒布の下の帳面を見るだけ。


それなら昼間と変わらない。けれど、読んだ後の見るは、読まない前の見るとは違う。


リゼットは思った。


自分は、壊す側にいたのだろうか。


願いを帯びた品を処分する場所にいた誰かが、壊す前に聞き、壊した後に何が抜けたのかを書き留めた。


その誰かの言葉が、今の自分と近すぎる。


偶然とは思えない。


だが、まだ答えには早い。


満願堂では、願いが澄む前に奥の部屋へ案内しない。それと同じように、リゼット自身の過去も、無理に扉を開けてはいけないのかもしれない。


「モル」


「ん」


「もし私が、壊す側にいたとしても」


「うん」


「今の私は、納める側におります」


モルはしばらく考えた。


「うん。今のリゼットは、ここ」


その言葉は短かったが、十分だった。


翌朝、満願堂はいつも通り開いた。


ココが普通便を届け、モルがはんこを押す。ロイは少し遅れて茶葉の包みを持ってきた。エリアスはいつもの席で本を開く。


何も変わらない。


だが、リゼットは黒布の下の帳面を見る時、昨日より少しだけ目を逸らさなかった。


夜に一頁読んだ。


壊す前に聞くこと。


抜け落ちたものを書き留めること。


それは痛い記録だった。


けれど、壊された願いを完全に消さないための記録でもあった。


満願堂は、そういう痛みの上に立っているのかもしれない。


リゼットは紅茶を注ぎ、いつもの声で言った。


「ごゆっくりどうぞ」


その声は変わらない。


ただ、変わらない声の奥に、昨夜読んだ頁のかすかな紙鳴りが残っていた。


翌日、ロイはリゼットの顔色を見てしまった。


見ようとしたわけではない。普通便を届け、受け取り帳を差し出し、リゼットが署名する。その時、ほんの少しだけ手元が遅れた。


疲れているのではない。


眠っていないというより、何かを読んだ後の静けさが残っている顔だった。


「昨夜、帳面を読まれたんですか」


聞いてしまってから、ロイはまた踏み込みすぎたと思った。


だがリゼットは否定しなかった。


「一頁だけ」


「何が書いてありましたか」


「壊された願いの記録です」


その答えは短かった。


ロイはそれ以上聞かなかった。


ただ、受け取り帳を受け取る時、リゼットの指がいつものように冷たく見えたことが気になった。


満願堂の管理人は、誰かの願いを納める場所を用意する。


けれど、壊された願いの記録を読む時、リゼット自身の中にも何かが沈んでいくのではないか。


ロイはそう思った。


ココはその日、モルに聞いた。


「リゼットさん、昨日遅くまで起きてたんですか」


「うん」


「モルさんも?」


「モル、いた」


「眠くないですか?」


「ねむい」


そう言って、モルは受け取り印の上に前足を置いたまま欠伸をした。


印は少し大きく斜めになった。


ロイは何も言わなかった。


ココも言わなかった。


眠い日のはんこは、少し斜めでもいいのだろう。


その日の夕方、エリアスはいつもの席でリゼットに言った。


「本は、続けて読むと疲れるわ」


「そうですね」


「でも、途中で閉じると、続きがあると分かる」


リゼットは紅茶を置きながら、少しだけ笑った。


「エリアス様らしいお言葉です」


「私には、同じ本を何度も読む時間があるから」


エリアスは白い表紙の本に触れた。


「でも、あなたの帳面は、同じ頁を何度も読むだけでは進まないのでしょうね」


「はい」


「なら、少しずつ違う人のいる時に読みなさい。今日は私、明日はモル、その次はロイさんやココさんがいてもいいかもしれない」


リゼットは少しだけ驚いた顔をした。


「ロイさんやココさんも?」


「彼らは運んできた人たちでしょう。読む人ではなくても、そばにいる人にはなれるわ」


その言葉は、すぐにはリゼットの中へ入らなかった。


だが夜になって、黒布の下の帳面を見る時、ふと思い出した。


読むことと、背負うことは同じではない。


そばにいる人がいるだけで、頁の重さは少し変わるのかもしれない。


その夜、リゼットは帳面を開かなかった。


代わりに、帳面の横へ空のカップを一つ置いた。


誰のためでもない。


ただ、次に読む時、そばに席があることを忘れないために。


空のカップに最初に気づいたのは、ココだった。


「リゼットさん、この席、誰か来るんですか」


「まだ分かりません」


「予約席ですか?」


リゼットは少し考えた。


「そうかもしれません」


何の予約なのか、ココには分からなかった。だが、そのカップは一日中そこに置かれていたわけではない。夜になる前に片づけられ、翌朝にはまた茶器棚へ戻る。


ロイはそれを見て、エリアスの言葉を思い出した。


そばにいる人にはなれる。


いつかリゼットが帳面を読む時、自分に何ができるのかは分からない。読める文字があるわけでも、古い願いを嗅ぎ分けられるわけでもない。


けれど、席を用意することはできるのかもしれない。


願いの行き先をすべてリゼット一人に背負わせないために、誰かがただ座っている。


そんな支え方もあるのだと、ロイはまだ言葉にできないまま覚えた。


その夜、空のカップは使われなかった。


だが、使われなかったことにも意味があった。


満願堂には、来るかもしれない誰かのために空けておく席が似合っていた。


リゼットが読んだ一頁のことを、モルはしばらく覚えていた。


覚えている、というより、匂いを忘れなかった。


昼間、モルは何度か黒布のそばへ行った。鼻を近づけて、すぐに離れる。頁を開きたいわけではない。リゼットに開かせたいわけでもない。


ただ、そこにある匂いが、店の中で少しずつ場所を変えていくのを確かめていた。


「モル、気になるの?」


ココが配達の時に聞いた。


「うん」


「怖いにおいですか」


「こわい。でも、だいじ」


ココは少し困った顔をした。


「怖くて大事なものって、扱いが難しいですね」


「ココ、納め物、そう」


「そうかもしれません」


ココは受け取り帳を抱え直した。


「僕、最初は納め物の黒い紐とか封蝋がかっこいいと思っていたんです」


「今も?」


「今も少し思ってます」


モルは満足そうに頷いた。


「ココ、変わらない」


「でも、前より丁寧に思います」


「それ、変わった」


「どっちですか」


「どっちも」


モルの答えに、ココは笑った。


リゼットはその会話を聞きながら、紅茶を淹れていた。


変わることと、変わらないこと。


願いを壊さず記すこと。


読むことで、読まなかった自分ではいられなくなること。


それらは、すべて同じ棚に置くには少し重かった。


夕方、リゼットは新しい納願帳の余白に、昨夜読んだ頁の内容をそのままではなく、今の言葉で記した。


壊す前に、聞くこと。


抜け落ちたものを、急いで戻そうとしないこと。


書き留めることは、救うことではない。


けれど、消さないことにはなる。


文字は消えなかった。


古い頁から写したのではない。


今のリゼットが、今の満願堂のために選んだ言葉だったからかもしれない。


モルが覗き込む。


「書けた」


「ええ」


「リゼットの字」


「はい」


「今のリゼット」


リゼットは少しだけ微笑んだ。


「そうですね」


古い帳面に書かれていた誰かの言葉ではない。


今の自分の手で、今の帳面へ書いた。


その小さな違いが、リゼットの胸を少しだけ支えた。


その夜、リゼットは「月環へ」と書かれた納め札をもう一度見た。


月環街の地名としての月環。


逓便局の紋章としての月環。


満願堂の胸元にある月環。


同じ言葉が、少しずつ違う方向を向いている。


「モル」


「うん」


「月環とは、場所でしょうか」


モルは首を傾げた。


「まるい」


「形ですか」


「戻る形」


リゼットは納め札を見つめた。


戻る形。


真っ直ぐ進むのではなく、輪を描いて帰る。願いがどこかへ行き、返りを抱え、納められて、また誰かの記憶や棚や沈黙の中で場所を得る。


月環という言葉は、その動きそのものにも見えた。


「では、月環へとは、帰る形へ、ということかもしれませんね」


「むずかしい」


モルは言った。


「でも、においはそう」


リゼットは納め札を閉じた。


まだ古い名は読まない。


けれど、そこへ近づくための感覚だけは、少しずつ集まっている。


道。封蝋。住所のない荷。戻る形。


それらは一つの答えではなく、答えの周りに置かれた小さな灯りだった。


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