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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第二章 奥の棚に眠るもの

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第四十五話 名前のない納め物

納め物には、たいてい名前がある。


持ち主の名。持ち込んだ者の名。少なくとも、どこから来たのかを示す住所や印。満願堂へ届く荷には、黒い紐と暗い赤の封蝋、そして納め札がある。


だが、その日の荷には名前がなかった。


逓便局の仕分け場で最初に気づいたのは、ココだった。


朝の空気はまだ冷たく、局員たちは眠そうな顔で木箱を開けていた。普通便、急ぎ便、役所便、薬草の包み。いつものように荷が分けられていく中で、ひとつだけ妙な小箱があった。


黒い紐。


暗い赤の封蝋。


月環と扉、閉じた目の古い紋章。


納め札。


そこまでは、満願堂行きの納め物だった。


問題は、札が白紙だったことだ。


「ロイさん」


ココが小声で呼ぶ。


ロイは伝票から顔を上げた。


「どうした」


「これ、満願堂ですよね」


「札があるなら」


「札、白いです」


ロイは眉を寄せ、小箱を見た。


確かに札はある。だが、そこに何も書かれていない。持ち主の名も、荷の種類も、日付もない。封蝋は破れておらず、黒い紐も正しく結ばれている。


「局長補佐へ」


ロイは即座に言った。


ココも頷き、小箱を両手で持った。


ヴェルナー・グレイスは、白紙の札を見た瞬間、顔を険しくした。


「どこから出た」


「北区行きの普通便箱に混じっていました」


「誰が仕分けた」


「記録では、夜間便の馬車からです」


ヴェルナーは小箱に触れず、封蝋だけを見た。


「開けてはいないな」


「はい」


「なら、満願堂へ運べ」


ロイは少し驚いた。


「白紙でも、ですか」


「白紙だからだ」


ヴェルナーは低く言った。


「名前のない納め物ほど、別の場所へ置くな」


ロイとココは二人で満願堂へ向かった。


いつもの納め物より、箱は軽かった。軽いのに、鞄の中で妙に場所を取る。まるで名前がないぶん、行き先だけを強く主張しているようだった。


「名前がないって、どういうことでしょう」


ココが言う。


「書き忘れたのかもしれない」


「納め札を書き忘れます?」


「普通はない」


「じゃあ、忘れたい荷でしょうか」


ロイはすぐに答えられなかった。


忘れたい荷。


満願堂には、そういうものも来る。忘れものの櫛、記憶をほどく品、痛みを遠ざける道具。けれど、名前そのものが空白の納め物は初めてだった。


満願堂の扉を開ける。


「逓便局です。納め物です」


ロイの声は自然と硬くなった。


モルがカウンターの上で起き上がる。


「納め物」


いつもなら少し楽しそうに近づく。だが、その日は動きが違った。モルは箱の前まで来ると、しばらく匂いを嗅いだ。


「ないにおい」


「ない?」


ココが聞く。


「名前、ない。手、ない。帰りたいも、すこし」


リゼットはカウンターの奥から出てきた。


「白紙の札ですね」


「はい。局長補佐の判断で、こちらへ」


ロイは小箱を差し出した。


リゼットは両手で受け取り、黒布の上へ置いた。


「ありがとうございます」


「受け取れるんですか」


「受け取れるかどうかは、開けてからになります」


リゼットは封蝋を見た。


「ただ、満願堂へ来たがっていることは確かでしょう」


封蝋を解く音は、いつもより小さかった。


リゼットは黒い紐をほどき、小箱の蓋を開けた。


中に入っていたのは、薄い革の手袋だった。


片方だけ。


右手用か左手用かも、一瞬分からないほど柔らかく、指の形が曖昧になっている。古いものだが、破れてはいない。手を守るための手袋というより、手の跡を隠すために作られたようだった。


モルが鼻を近づける。


「触りたくないにおい」


「誰が?」


ロイが聞くと、モルは首を傾けた。


「誰でもない。手袋が」


手袋が触りたくない。


その言葉は妙だったが、満願堂では妙な言葉ほど外れていない。


リゼットは手袋を見つめた。


「触れたことを、誰のものにもしたくない願いでしょうか」


「そんな願いがあるんですか」


ココが小さく聞いた。


「ございます」


リゼットは静かに答える。


「触れた。持った。渡した。壊した。奪った。そうした行為を、自分のものとして持ちたくない方もいらっしゃいます」


ロイは処分便の札を思い出した。


壊す場所へ運ばれた願いを帯びた品。


壊したことで抜け落ちる願い。


この手袋も、そういうものに関わったのだろうか。


「納め札が白紙なのは」


「誰の手だったのか、書きたくなかったのでしょう」


リゼットは言った。


「あるいは、書けなくなったのかもしれません」


その時、店の扉が開いた。


入ってきたのは、若い男だった。身なりは平凡で、帽子を深くかぶっている。彼は満願堂の中を見回すと、小箱の中の手袋を見て、顔色を変えた。


「それを、返してください」


ロイは反射的に一歩前へ出た。


「あなたは?」


男は答えない。


ただ、手袋だけを見ている。


リゼットは穏やかに言った。


「お客様のお品でしょうか」


「違います」


「では、なぜ返してほしいのですか」


男は唇を噛んだ。


「それがあると、思い出す」


「何を」


「分かりません」


その答えに、店内が静かになった。


分からないのに、思い出す。


白紙の札にふさわしい答えだった。


男は続けた。


「家にありました。誰のものか分からない。でも見るたび、手が冷えるんです。何かを掴んだ気がする。離した気もする。けれど何なのか分からない。だから捨てようとしました」


「捨てられなかった」


「はい」


「それで納め物として送ったのですか」


男は首を横へ振った。


「送っていません」


ロイとココは顔を見合わせた。


「では、どうして逓便局へ」


「分からないんです」


男の声は震えていた。


「朝起きたら、手袋がなくなっていました。安心したのに、今度は胸が苦しくなった。満願堂へ行かなければと思いました」


モルが小さく言う。


「手袋、自分で来た」


リゼットは否定しなかった。


手袋は、誰かに捨てられたかったのではない。


誰のものでもないまま、納まりたかったのかもしれない。


リゼットは男を席へ案内した。


「お名前を伺ってもよろしいですか」


男はしばらく黙った。


「言いたくありません」


ロイは眉を寄せたが、リゼットは頷いた。


「では、今日は伺いません」


「いいのですか」


「名前を言わなければ話せないこともございます。けれど、名前を言わないことで話せることもございます」


男は椅子に座った。


手袋は黒布の上に置かれたままだ。


「私は、昔、父の仕事を手伝っていました」


彼はぽつりと話し始めた。


「父は願具を嫌っていました。家に持ち込まれたものを、よく壊していました。私は手伝いとして、箱を押さえたり、布を外したり、欠片を集めたりしていた」


処分場ではない。


だが、家の中で勝手に願具を壊していたのだろう。


「ある日、手袋を渡されました。直接触るなと言われたんです。私はそれをはめて、何かを持ちました」


「何を?」


男は首を振る。


「覚えていません。ただ、そのあと、母が泣かなくなった」


泣かなくなった。


その言葉に、リゼットの目が少しだけ深くなる。


「母は弟を亡くしていました。ずっと泣いていた。でも、その日を境に、弟の話をしなくなった。父は良かったと言いました。私は……たぶん、良かったと思いたかった」


男は手を見た。


「でも、この手袋を見ると、自分が何かを取り上げたような気がするんです」


リゼットは手袋を黒布で少し包んだ。


「この手袋は、おそらく直接触れたくない願具を扱うために使われていたものです。願いそのものではなく、願いの終わりに関わった手の跡を受けて、願具になりかけています」


「願具に」


「はい。触れたことを、自分の手から離したい願いです」


男は小さく笑った。


「卑怯な願いですね」


「そうとは限りません」


リゼットは言った。


「触れたものが重すぎる時、人は自分の手を見られなくなることがございます」


「でも、私は忘れたかった」


「忘れたくて、忘れられなかったのでしょう」


男は黙った。


モルが手袋を見つめる。


「名前、まだない」


「納められますか」


「できます」


リゼットは頷いた。


「ただし、名前のないまま納めます。無理に持ち主を決めることはしません」


男は少し驚いた顔をした。


「私の名前を書かなくていいのですか」


「この手袋が望んでいるのは、誰かのものになることではないようですから」


「では、私のしたことは」


「なかったことにはなりません」


リゼットの声は静かだった。


「ですが、手袋にすべて預けることもできません」


男は長くうつむいていた。


それから、両手を膝の上で握った。


「母に、弟の名前を聞いてみます」


「それがよろしいかもしれません」


「覚えていないかもしれません」


「それでも、尋ねることはできます」


名前のない手袋は、奥の棚へ納められた。


納め札は白紙のままだ。


リゼットはそこへ何も書かなかった。日付も、持ち主も、品名も。ただ黒布に包み、小さな白い札を添えた。


名前のない納め物。


それだけだった。


ロイはその札を見て、少し不安になった。


「記録としては、不十分ではありませんか」


「そうですね」


リゼットは微笑んだ。


「けれど、満願堂の記録は、すべてを名づけるためにあるわけではございません」


「名前がないままでも、納まるんですか」


「納まることもございます」


モルが言った。


「名前、ないまま、いる」


ロイはまだ納得しきれなかった。


逓便局では、荷に宛名がいる。届け先がいる。誰から誰へ向かうのか分からない荷は迷う。だが満願堂には、誰のものでもないまま帰ってくる願いもある。


それを受け取るには、白紙の札を白紙のままにしておく勇気がいるのだろう。


夕方、ココは逓便局でヴェルナーに報告した。


「白紙の札は、満願堂で受け取られました」


「そうか」


「名前は、最後までありませんでした」


「それでいい」


ヴェルナーは書類に短く記録した。


ロイは横から聞いた。


「局の記録には、どう残すのですか」


ヴェルナーはペンを止めた。


「満願堂受取。白紙札。開封なし。以上だ」


「それだけですか」


「それ以上書けば、こちらが名前をつけることになる」


その言葉で、ロイは満願堂でリゼットが言ったことを思い出した。


満願堂の記録は、すべてを名づけるためにあるわけではない。


逓便局の記録も、時には同じなのかもしれない。


荷を迷わせないための記録と、願いを縛らないための空白。


その両方が必要な日がある。


「難しいですね」


ココが言った。


ヴェルナーは低く答えた。


「だから仕事だ」


満願堂の奥の棚で、名前のない手袋は静かに休んでいる。


モルはその前を通るたび、少しだけ鼻をひくつかせた。


「まだ、ない」


「名前が?」


「うん。でも、迷ってない」


リゼットはその言葉に頷いた。


名前がないことと、迷っていることは同じではない。


誰かのものにならないことで、ようやく納まる願いもある。


黒布の下で、白紙の札は白いままだった。


それは欠けた記録ではなく、その願いに必要な余白として、満願堂の棚に残された。


数日後、名前を言わなかった男は、もう一度満願堂へ来た。


今度も帽子を深くかぶっていたが、前より少しだけ顔を上げていた。リゼットは名前を尋ねなかった。男も名乗らなかった。


「母に聞きました」


彼はカウンターの前で言った。


「弟の名前を」


リゼットは静かに頷いた。


「覚えていらっしゃいましたか」


「はい。母は、少し驚いた顔をしました。それから、長い間黙っていました」


男は手袋の納められた奥の棚を見た。


「名前は、ユリオでした」


その名を口にした瞬間、男の肩が小さく震えた。


「私は弟の名前を忘れていたのではありません。家の中で、その名前を呼んではいけないものにしていたんです。父がそうした。母も、たぶん従った。私も」


「今、呼べましたね」


リゼットが言う。


男は目を伏せた。


「はい。でも、弟の顔はまだ思い出せません」


「無理に思い出さなくてもよいのです」


「そうなのでしょうか」


「名前を呼べた日には、名前だけでよいこともございます」


モルが棚の方からやってきた。


「名前、きた」


「手袋に?」


男が聞くと、モルは首を横へ振った。


「手袋じゃない。あの人に」


あの人。


澄んだ願いの人ではなく、もうここにいない弟へ向けた言葉のようだった。


男はその言葉を聞いて、深く息を吐いた。


「手袋に名前を書き足した方がいいですか」


「いいえ」


リゼットは答えた。


「手袋は名前のないまま納まりました。けれど、ユリオさんの名前は、あなたが持っていらっしゃればよろしいでしょう」


「持つのが怖いです」


「でしたら、紙に書いても」


リゼットは小さな紙を出した。


男はしばらく迷い、そこへ一つの名前を書いた。


ユリオ。


その文字は、空白の納め札とは違って、はっきりと黒かった。


「これは、満願堂へ納めますか」


「いいえ」


男は紙を折り、胸の内ポケットへ入れた。


「今日は、持って帰ります」


その答えに、リゼットは微笑んだ。


「それがよろしいと思います」


男が帰った後も、白紙の札は白紙のままだった。


けれど、満願堂の外で一つの名前が呼ばれた。


納めるものと、持ち帰るもの。


その違いを、男は少しだけ選べるようになったのかもしれない。


ロイはその話を聞き、逓便局の白紙記録を思い出した。


すべてを書き込むことが正しいわけではない。


だが、何も書かないことで済ませてはいけない名前もある。


その境目を見極める仕事は、満願堂だけでなく、運ぶ側にも少しずつ求められている気がした。


名前のない手袋が棚に納まってから、満願堂には奇妙な静けさが一つ増えた。


誰のものでもない、という静けさだった。


願いは多くの場合、誰かの名に結びついている。誰が願ったのか。誰が使ったのか。誰が返りを受けたのか。納願帳にも、基本的には名が残る。


けれど、その手袋には名がなかった。


持ち主がいないのではない。


誰かの名に戻すと、かえって願いが歪むような気配があった。


リゼットはその手袋を、奥の棚の端に置いた。


中央ではない。目立たない場所。けれど、忘れられる場所でもない。


数日後、エリアスがその棚の前で立ち止まった。


「名前がないのね」


「ええ」


「寂しくないのかしら」


リゼットは少し考えた。


「寂しさも、誰かの名を呼ぶとは限りません」


エリアスは微笑んだ。


「そうね。私も、昔の名前をあまり思い出さないわ」


その言葉に、リゼットは静かに顔を上げた。


エリアスはいつも通り穏やかだった。


「でも、今の席は分かるの。いつもの本も、いつもの紅茶も。名前より先に、残るものもあるのね」


「エリアス様」


「何かしら」


「お名前がなくなることは、怖くありませんか」


エリアスは少しだけ窓の外を見た。


「怖かったから、変わらないものを選んだのかもしれないわ」


その答えは、軽くはなかった。


名前のない手袋は、棚の中で動かない。


だが、リゼットには少しだけ分かった気がした。


名前がないことは、必ずしも空白ではない。


誰かのものにされないことで、ようやく守られる願いもある。


その夜、リゼットは納願帳の該当頁に、名前の欄を空けたまま記録を残した。


品名。


白い手袋。


願い。


誰にも属さず、ただ差し出された手でありたい。


名前の欄は白い。


だが、それは記録漏れではない。


その願いに必要な余白だった。


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