第四十二話 壊された願具の欠片
壊れた願具は、ただの壊れ物ではない。
オルスはそのことを、満願堂へ通うようになってから嫌というほど知った。
椅子の脚なら継げる。皿の欠けなら埋められる。櫛の歯なら差し直せる。道具は壊れ方に従って直せばいい。だが願具は、壊れ方だけでは済まない。
壊したことで何かが終わる場合もある。
壊したことで、かえって願いが散る場合もある。
そして、壊した本人が、自分が何を壊したのか忘れてしまう場合もある。
その朝、オルスの店に持ち込まれたのは、銀色の小さな欠片だった。
欠片は布に包まれていた。持ち主は年配の男で、身なりは良いが、顔色がどこか頼りなかった。彼は包みを開く時、自分の手元を何度も見失うようにまばたきした。
「直るでしょうか」
「何の欠片だ」
オルスが聞くと、男は困ったように笑った。
「それが、よく分からないのです」
「分からない物を直せと?」
「大事な物だった気がします」
気がします。
その言葉で、オルスは工具へ伸ばしかけた手を止めた。
包みの中には、銀の縁取りの一部らしき欠片があった。鏡の縁か、小箱の金具か、首飾りの飾りか。何かの一部ではあるが、それだけでは形が分からない。
ただ、欠片の端に細い文字が刻まれていた。
祈るような、縋るような、けれど途中で途切れた文字。
オルスには読めなかった。
読めないのに、その欠片を長く持っていたくなかった。
「これは俺の店じゃない」
「直せないのですか」
「直す前に、見てもらう場所がある」
オルスはそう言って、満願堂へ向かった。
満願堂は昼前の静けさに包まれていた。
エリアスが窓際で本を開き、モルはカウンターの上で前足を揃えている。リゼットは紅茶を注いでいた。
「また面倒な物ですか」
リゼットが言う。
「最近、あんたの第一声がそれになってきたな」
「違いましたか」
「違わない」
オルスは包みをカウンターに置いた。
モルが鼻を近づける。
「いたいにおい」
「持ち主は、何か大事な物だった気がすると言う。何だったかは覚えていない」
リゼットの表情が少しだけ変わった。
彼女は欠片を手に取らず、黒布の上へそっと広げた。
「壊された願具の欠片ですね」
「壊された?」
「ええ。自然に割れたのではありません」
リゼットは欠片の端を見た。
「何かを終わらせるために、意図して壊されたのでしょう」
男は一歩後ろで話を聞いていた。オルスが連れてきたのだ。満願堂へ入った時から、彼はどこか落ち着かない様子だった。店内の古書を見ては顔を曇らせ、茶器の音に肩を揺らす。
「私は、それを壊したのでしょうか」
「おそらく」
リゼットは静かに答えた。
男は目を伏せた。
「それなら、なぜ覚えていないのでしょう」
「願具を壊すことで、願いが薄れることがございます」
リゼットの声はいつも通り柔らかい。だが、その内容は軽くない。
「願いを生んだご本人や、深く関わった方の中から、その願いに結びついていた記憶や感情が抜け落ちることがあるのです」
男は唇を震わせた。
「私は、何を願っていたのでしょう」
モルが欠片を見つめた。
「待ってたにおい」
「待っていた?」
「うん。ずっと。窓のそば」
男の顔が、ほんの少し歪んだ。
「窓……」
その一言で、欠片がかすかに震えた。
リゼットは男を席へ案内した。
紅茶を出す。いつもの作法だったが、その日の紅茶は少し渋みが強かった。甘い茶では、思い出しかけた痛みを支えられないと判断したのかもしれない。
男の名はグスタフといった。
若い頃、彼には妹がいた。病弱で、家の外へ出ることが少なかった。彼女はいつも窓辺に座り、通りを見ていたという。雨の日も、晴れの日も、窓の向こうを眺めていた。
「私は商いで忙しく、あまり構ってやれませんでした」
グスタフは言った。
「ただ、あの子は窓辺で何かを待っていた気がします」
「何を?」
オルスが聞く。
グスタフは首を振った。
「分からないのです。そこだけ、ぽっかり抜けています」
リゼットは欠片を黒布の上で向きを変えた。
「これはおそらく、窓飾りの一部です。外を見たい、誰かを待ちたい、あるいは誰かに見つけてほしい。そうした願いが宿ったものかもしれません」
「私は、それを壊した」
「はい」
「なぜ」
誰もすぐには答えなかった。
グスタフ自身も、答えを探していた。
壊した理由まで忘れてしまったのか。それとも、忘れたい理由だったのか。
やがて彼は、ぽつりと言った。
「妹が亡くなった後、部屋を片づけました」
声が掠れていた。
「窓辺に、銀の縁の飾りが下がっていた気がします。あれを見ると、家の中がいつまでも待っているようで……私は、それが嫌だったのかもしれません」
「待つ家が」
「ええ」
グスタフはカップを見つめた。
「もう誰も帰らないのに、窓だけが誰かを待っているようで」
彼は欠片を見た。
「私は、待つことを壊したかったのかもしれません」
モルが小さく言った。
「でも、壊しても、待ったことはなくならない」
その言葉に、グスタフは目を閉じた。
オルスは欠片を見ながら、腹の奥が少し重くなるのを感じた。
職人としてなら、壊れた物を直すか、直せないと断るかのどちらかだ。だが、壊したことで忘れられた願いを前にすると、直すという言葉が急に狭くなる。
「これは直すのか」
彼はリゼットに聞いた。
「元の形へは戻せないでしょう」
「なら、どうする」
「納めます」
リゼットは言った。
「ただし、これは満願堂へ戻ってきた願具ではありません。欠片です。欠片のまま、残っている願いを休ませます」
「持ち主には返さないのか」
グスタフが聞く。
リゼットは彼を見た。
「お持ち帰りになることもできます。ですが、持ち帰れば、思い出しかけたものがまた少しずつ戻るでしょう。戻ることが、今のグスタフさんに必要かどうかは、私には決められません」
男は長く黙った。
妹を忘れていたわけではない。亡くなったことも、病弱だったことも覚えている。だが、窓辺で何を待っていたのか、その待つ時間を自分がどう見ていたのかが抜けている。
欠片を持ち帰れば、そこが戻るかもしれない。
戻れば、痛いだろう。
「壊した時、私は楽になったのでしょうか」
「一時的には」
リゼットは正直に答えた。
「では、楽になるために、妹の願いを壊したのですね」
「願いを壊したのではなく、願いが宿った物を壊したのでしょう」
「違いますか」
「同じではありません」
リゼットの声は少しだけ強かった。
「けれど、遠くもありません」
グスタフは小さく笑った。泣きそうな笑いだった。
「厳しい方ですね」
「満願堂は、慰めるだけの場所ではございませんから」
最終的に、グスタフは欠片を納めた。
ただし、リゼットは小さな紙を一枚渡した。
そこには、彼が満願堂で思い出したことだけが書かれていた。
妹。
窓辺。
待っていた。
銀の飾り。
たったそれだけだった。
「これは願具ではありません。ただの覚書です」
「持っていても、また忘れますか」
「忘れることもあるでしょう」
リゼットは言った。
「ですが、忘れた時に、もう一度尋ねることはできます」
グスタフは紙を受け取った。
「誰に」
「ご自身に」
彼はその言葉を、長い時間かけて飲み込んだ。
満願堂を出る時、グスタフは一度だけ振り返った。
「私は、妹に謝るべきでしょうか」
リゼットは答えなかった。
代わりに、モルが欠片のそばで言った。
「あの人、まだ待ってない」
「まだ?」
「うん。今は、思い出すにおい」
グスタフは小さく頭を下げ、出ていった。
欠片は奥の棚へ納められた。
満願具ではない。魔願具ほどの力ももう残っていない。ただ、壊された願具の欠片として、黒布の上で静かに休むことになった。
オルスは棚を見て言った。
「壊したら忘れる。忘れるなら楽になる。そう考える奴はいるだろうな」
「ええ」
「だが、忘れたあとに残る穴もある」
「はい」
リゼットは欠片に黒布をかけた。
「だから、壊す前に聞く方がよいのです」
その言葉に、オルスは黒布の下の古い帳面を思い出した。
壊す前に、聞くこと。
先日リゼットが読んだ断片と、今の言葉は同じ場所へ向いている。
「その帳面を書いたのは、あんたか」
オルスが聞くと、リゼットは少しだけ笑った。
「分かりません」
「分からないわけないだろ。匂いが同じなんだろ」
モルが答える。
「同じ。でも、ちがう」
「便利な答えだな」
「ほんと」
モルは胸を張った。
オルスはため息をついた。
リゼットは黒布の下の帳面へ視線を落とす。
「同じでも、違う。願いも、そういうことがございます」
壊された願具の欠片は、その日の夕方まで一度も鳴らなかった。
ただ、棚の中でほんの少しだけ光を返していた。
まるで窓辺に吊られていた頃の光を、まだ覚えているように。
白い鳥の欠片を納めた翌日、骨董屋が満願堂へ顔を出した。
品を売り逃したことを惜しんでいるのかと思えば、そうではなかった。彼は帽子を胸に当て、少しばつが悪そうに言った。
「実は、あの鳥を棚に置いていた日から、妙なことがありましてね」
骨董屋の店では、客が古い手紙を買うことが多い。封の切られていない恋文、もう使われない商家の帳簿、遠い街から届いた絵葉書。文字の価値より、紙の古さや装飾を好む客がいる。
ところが白い鳥の欠片を置いた数日間だけ、手紙を手に取る客が皆、言葉に詰まったという。
「この手紙は、誰へ届かなかったのかしら」
「これは売っていいものなのか」
そう言って買わずに帰る者が増えた。
骨董屋は最初、商売にならないと苛立った。だが夜になって、売れ残った手紙の束を見ているうちに、自分も同じことを考え始めた。
「私は古い紙を商品として扱ってきた。もちろん悪いことではないと思っています。けれど、あの鳥がある間だけ、紙の向こうに人がいる気がして仕方なかった」
リゼットは静かに聞いた。
「それで、こちらへ」
「はい。あの欠片がどうなったか、知りたくなりまして」
モルが骨董屋を見上げる。
「見にきた?」
「ええ。見に来たんだと思います」
「なら、いい」
モルはそう言って、奥の棚の方へ歩いた。もちろん客を奥へ入れるわけではない。ただ、棚の前で立ち止まり、ふわふわの尻尾を揺らす。
「鳥、ねてる」
骨董屋はほっとしたように笑った。
「そうですか。眠れているなら、よかった」
リゼットはそれを見て、少しだけ考えた。
壊された願具は、持ち主だけに影響を残すわけではない。手にした者、売ろうとした者、直そうとした者、納めようとした者。それぞれの中に、ほんの小さな波紋を残す。
返りではない。
罰でもない。
ただ、願いに触れたことで、今まで見えていなかったものが見えるようになることがある。
その午後、オルスもやって来た。
「骨董屋が謝りに来たぞ」
「こちらにもいらっしゃいました」
「そうか」
オルスは少し不機嫌そうに紅茶を受け取った。
「俺のところでは、次から変な品はすぐ満願堂に持っていくと言っていた。迷惑な話だ」
「よいことでは」
「俺の仕事が減る」
「オルスさんは、満願堂へ持ってくるかどうかを見極める仕事が増えていますね」
「ますます迷惑だ」
言いながら、彼はどこか満更でもなさそうだった。
その夜、リゼットは白い鳥の欠片をもう一度確認した。箱の中の仕切りは丁寧に作られている。欠片は互いに触れず、けれど離れすぎてもいない。壊れたまま、一つの箱の中にいる。
モルが隣で言った。
「ばらばら、さみしい?」
「さみしいかもしれません」
「でも、ぶつからない」
「ええ。ぶつからない距離も、必要です」
「人も?」
「そうですね」
リゼットは箱の蓋を閉じる。
「人も、願いも」
白い鳥は、誰かの想いを遠くへ届けるために生まれたのだろう。壊され、忘れられ、箱にしまわれ、それでも欠片として戻ってきた。
もう飛ぶことはない。
けれど、飛べなかった願いがここにあると、誰かが知った。
それだけで、壊されたものの終わり方は少し変わる。
リゼットはそう思った。
数日後、グスタフから満願堂へ手紙が届いた。
リゼットはカウンターで封を切り、短い文を読んだ。
妹の部屋を、もう一度見ました。
窓辺には何もありませんでしたが、壁に薄い跡がありました。
そこに何かが吊るされていたのだと思います。
妹が何を待っていたのかは、まだ分かりません。
ただ、あの子は窓の外を見る時、いつも少しだけ背筋を伸ばしていたことを思い出しました。
手紙には、それだけが書かれていた。
リゼットはその紙を納願帳には挟まなかった。これは満願堂に納める願いではなく、グスタフ自身が持つべき思い出だと思ったからだ。代わりに、欠片の収められた棚の前で静かに読み、元の封筒へ戻した。
モルが見上げる。
「戻った?」
「少しだけ」
「全部?」
「いいえ」
「でも、少し」
「はい」
モルは満足そうに尻尾を揺らした。
全部戻る必要はないのかもしれない。失われたものは、同じ形で戻らない。けれど、壁の跡を見ること、背筋を伸ばして外を見ていた妹を思い出すこと。その小さな戻り方にも、意味はある。
オルスもその手紙の話を聞いた。
彼は作業場で古い額縁を直しながら、リゼットの話に耳を傾けていた。
「で、結局その飾りが何だったのかは分からないのか」
「はい」
「気持ち悪いな」
「そうでしょうか」
「職人としては、形が分からないものは落ち着かない」
オルスは釘を一本抜き、曲がりを直した。
「だが、人の思い出はそういうものかもしれないな。全部の形が戻らなくても、釘穴だけで何かがあったと分かることがある」
自分で言ってから、彼は顔をしかめた。
「また変な言い方をした」
リゼットは微笑んだ。
「よい言い方だと思います」
「褒めるな」
「では、記録しておきましょうか」
「やめろ」
満願堂の奥の棚で、銀の欠片は静かに光っていた。
それは窓飾りだったのか、鏡の縁だったのか、呼び鈴の一部だったのか、もう誰にも分からない。
けれど、分からないままでも、そこにあった願いは少しだけ場所を得た。
壊されて終わったものにも、遅れて届く行き先がある。
そのことを、リゼットは古い帳面の黒布を見るたびに思い出した。
数日後、オルスは自分の作業場で、割れた硝子を一つ拾った。
満願堂へ納めた欠片とは別のものだった。だが、光を受けた時の鈍い返り方が似ていた。彼はそれを捨てようとして、手を止めた。
以前なら、危ないから捨てた。
今は、何の欠片なのかを考えてしまう。
面倒な癖だった。
夕方、彼の店へ若い母親が来た。壊れた木の箱を抱えている。子どもが大事にしていた箱だが、腹を立てた夫が割ってしまったという。
「直せますか」
オルスは箱を見た。
願具ではない。ただの木箱だ。けれど、壊れ方に怒りの跡が残っている。蓋の端が乱暴に割れ、蝶番がねじれている。
「直せる」
母親はほっとした。
「でも、割れた跡は残る」
「跡も消せませんか」
「消せるが、すすめない」
言ってから、オルスは自分の言葉に少し驚いた。
すすめない。
それは、満願堂の管理人がよく使う言葉だった。
母親は不安そうにした。
「跡があると、子どもが思い出します」
「思い出した方がいいこともある」
「痛いでしょう」
「痛いままでも、箱は使える」
オルスは箱の割れ目に指を当てた。
「なかったことにすると、次に壊された時、何が嫌だったのかも分からなくなる」
母親は黙った。
オルスは、少し言いすぎたかと思った。けれど、言葉は戻さなかった。
その夜、彼は箱を直した。
割れた跡は薄く残した。子どもの指が引っかからないよう磨き、蝶番を替え、蓋が静かに閉まるようにした。
完全な新品ではない。
だが、壊れたままでもない。
翌日、母親は箱を受け取り、しばらく跡を見つめた。
「これでいいと思います」
そう言った。
オルスは頷いた。
満願堂の奥の棚に納められた願具の欠片を思い出す。
壊されたものは、何も語らないようで、時々いちばん多くのことを残している。
その残ったものを全部消さないことも、直す仕事の一つなのかもしれない。




