第四十三話 忘れてしまった花瓶
花瓶は、花を覚えていることがある。
ニナがそれを知ったのは、満願堂で晴れ乞いの人形を納めてからしばらく経った頃だった。
彼女は以前より、雨の日の花を怖がらなくなっていた。晴れの日に映える花。曇り空に合う花。雨粒を受けると形がよく見える花。師匠が昔から言っていたことを、少しずつ自分の手で覚えている。
それでも、満願堂の棚を見ると、時々胸がざわめいた。
願具は便利だ。
便利なだけではない。願いを手伝ってくれる。
だからこそ、欲しくなる。
その欲しさを知ってしまったニナは、満願堂で紅茶を飲む時、表の棚をあまり長く見ないようにしていた。
そんなニナが、花瓶を持ってきた客と出会ったのは、偶然だった。
客は若い娘だった。
名をイーリスという。花屋では見かけない顔だったが、手には丁寧に包まれた花瓶を抱えている。白地に淡い青い線が入った、小さな花瓶だった。高価な品ではない。だが長く使われたものらしく、口の縁に細い擦れがあり、底には手の跡のような曇りがある。
イーリスは満願堂の扉を開けるなり、カウンターの前で立ち止まった。
「こちらで、願具を納められると聞きました」
リゼットは静かに頷いた。
「はい。品によりますが、納めることはできます」
「これが、願具なのかどうかも分からないんです」
イーリスは花瓶を黒布の上へ置いた。
モルが近づく。
「花のにおい」
「花瓶だもの」
ニナが思わず言うと、モルは首を横へ振った。
「ちがう。覚えてるにおい」
リゼットが花瓶を見つめた。
「花を長持ちさせる願具になりかけていますね」
「なりかけ」
「ええ。まだ表の棚に並べるほど整ってはいません。けれど、同じ願いを長く受けてきたのでしょう」
イーリスは唇を噛んだ。
「母の花瓶でした」
母。
その一言で、ニナは背筋を少し正した。
花と母。花瓶と記憶。満願堂では、それだけで何かが始まることがある。
イーリスの母は、花を枯らすのが嫌いな人だった。
切り花は、いつか枯れる。そんなことは誰でも知っている。だが彼女は、花がしおれるたびにひどく寂しそうな顔をしたという。
庭の花も、店で買った花も、野で摘んだ花も、花瓶に挿すと毎朝水を替えた。茎を切り、窓の向きを変え、風の通りを見た。
「もう少しだけ、咲いていて」
母はよく花にそう言った。
イーリスは子どもの頃、その言葉を少しおかしいと思っていた。花に頼んでも仕方ない。花は花だ。咲いて、しおれて、落ちる。
けれど、母が亡くなった後、花瓶に挿した花だけが不思議と長持ちするようになった。
一日、二日、三日。
普通ならしおれる花が、少しだけ長く立っている。
最初は嬉しかった。
母が使っていた花瓶だから、母の手入れの仕方が残っているのだと思った。
だが、やがて怖くなった。
花が枯れないわけではない。けれど、枯れる時が遅れる。その遅れた分、最後の日に花は一度に色を失う。朝まで綺麗だったものが、夕方にはくたりと折れる。
まるで、我慢していた時間がまとめて来るようだった。
「それでも、私は使い続けました」
イーリスは言った。
「母がまだ花を世話しているような気がしたからです」
「今は?」
リゼットが聞く。
イーリスは花瓶を見た。
「最近、この花瓶に挿した花の名前を忘れるようになったんです」
ニナは思わず顔を上げた。
「花の名前を?」
「ええ。買った時には覚えているのに、花瓶に挿してしばらくすると、何の花だったか分からなくなるんです。色は分かります。形も分かります。でも名前が出てこない」
モルが花瓶の口を覗き込んだ。
「花を長くするかわりに、名前、うすい」
リゼットは頷いた。
「花が終わる時間を少し後ろへ送るかわりに、その花が何であったかを少し曖昧にする返りでしょう」
ニナは胸がひやりとした。
晴れを借りる人形が、雨を後ろへ送ったように。
この花瓶は、枯れる時間を後ろへ送っている。
そして、そのぶん花の名前が薄れていく。
「納めれば、戻りますか」
イーリスが聞く。
「花の名前が、すぐ戻るわけではありません」
リゼットは答えた。
「ですが、これ以上、花瓶が花の時間を引き延ばすことはなくなります」
「それなら」
イーリスはすぐに言いかけて、止まった。
花瓶から手を離せない。
その指を見て、ニナは昔の自分を思い出した。
晴れ乞いの人形を納める時、自分も手放すのが少し怖かった。あれがあれば、また晴れを借りられる。あれがなければ、雨の日を自分で扱わなければならない。
イーリスも同じなのだろう。
花瓶を納めれば、母の手が消えるように感じるのかもしれない。
ニナは席を立った。
「花を、一本買いに行きませんか」
自分でも突然の提案だった。
イーリスは驚いた顔をした。
「今から?」
「はい。私、花屋で働いています。今日なら、雨でも合う花があります」
リゼットは止めなかった。
モルは尻尾を揺らした。
「花、いく」
「モルは店番です」
「モル、行かない」
少し残念そうだった。
ニナはイーリスを花屋へ連れていった。
外は小雨だった。晴れを借りたくなるような雨ではない。傘をさせば歩ける。石畳の色が深くなり、花屋の軒先の白い花がよく映える雨だった。
師匠はニナが満願堂の客を連れてきたと聞いても、深くは聞かなかった。ただ、雨の日に向いた花をいくつか出した。
「これは?」
イーリスが一つを指す。
「白霧草です。雨の日は花弁の縁が少し透けます」
ニナは答えた。
「これは?」
「青釣鐘。水を吸いすぎると頭が下がりますけど、今日は大丈夫です」
「これは?」
「月待ち草。夕方に少し香ります」
イーリスはひとつひとつの名前を繰り返した。
白霧草。
青釣鐘。
月待ち草。
口に出すたび、花の輪郭が少しはっきりするようだった。
最後に、彼女は月待ち草を一束買った。
「母が好きそうです」
「お母さんが?」
「ええ。でも、私も好きだと思います」
その言葉を聞いて、ニナは少しだけ笑った。
母が好きそうだから選ぶのと、自分も好きだから選ぶのは、似ているようで違う。
イーリスはその違いを、花瓶を納める前に確かめたかったのかもしれない。
満願堂へ戻ると、リゼットは新しい水を用意していた。
花瓶ではなく、ただの透明な瓶だった。願具ではない。表の棚にも奥の棚にも関係のない、普通の瓶。
イーリスは月待ち草をそこへ挿した。
花は普通に揺れた。
特別に長持ちしそうには見えない。雨の湿気で葉が少し重そうだった。切り口から水を吸い、夕方になれば香るだろう。数日すればしおれる。
それだけだった。
「この花の名前は?」
リゼットが聞く。
イーリスは少し緊張したように答えた。
「月待ち草です」
「はい」
「忘れたくありません」
「では、書いておきましょう」
リゼットは小さな紙を出した。
イーリスはそこへ自分で書いた。
月待ち草。
母が好きそうで、私も好きな花。
文字は少し震えていた。
それを見て、イーリスはようやく花瓶から手を離した。
「納めます」
リゼットは両手で花瓶を受け取った。
「はい。願具になりかけた品ですので、満願堂で休ませましょう」
「母の願いは、消えますか」
「花を長く咲かせたいという願いは、ここへ納まります」
リゼットは静かに言う。
「けれど、お母様が花を大切にされていたことまで消えるわけではございません」
イーリスは目を伏せた。
「それを、私が覚えていれば?」
「はい」
モルが花瓶を嗅いだ。
「まだ、花のにおい」
「母の?」
「花の」
モルは少し考えた。
「でも、あったかい」
イーリスは泣きそうな顔で笑った。
その後、ニナは花屋へ戻った。
師匠は軒先で雨を眺めていた。
「満願堂の用事は済んだかい」
「はい」
「花は売れた?」
「一束だけ」
「なら上出来だ」
ニナは窓辺に残った花を見た。
どれもいずれ枯れる。
そのことが、以前ほど怖くなかった。
花を長く咲かせたい願いは、悪くない。もう少し見ていたい。大切な人が好きだった花を、少しでも長く残したい。その気持ちは優しい。
けれど、長く咲くことと、名前を覚えていることは同じではない。
ニナはその日の売上帳に、月待ち草と書いた。
誰が買ったかまでは書かない。ただ、雨の日に月待ち草が一束売れたことだけを残す。
満願堂の奥の棚では、白地に青い線の花瓶が静かに休んでいるだろう。
花を忘れたくなかった人の願いではなく、花が終わることを少し遅らせたかった人の願いとして。
そして、透明な普通の瓶の中では、月待ち草がその日の雨を吸っている。
長持ちするかどうかは分からない。
でも、その名前はもう一枚の紙に書かれている。
それだけで十分な日もあるのだと、ニナは思った。
月待ち草は、四日目の朝にしおれた。
イーリスはそれを見て、少し泣いた。だが花瓶を納める前のように、花の終わりを責めるような泣き方ではなかったという。
後日、彼女は満願堂へ来て、しおれた月待ち草の押し花を一枚見せた。
「上手ではないんですけれど」
紙の間に挟まれた花弁は少し歪み、色も生きていた時よりくすんでいた。けれど、そこには小さな字で名前が書かれていた。
月待ち草。
雨の日に買った花。
母が好きそうで、私も好きな花。
リゼットはそれを丁寧に見た。
「よい記録ですね」
「願具ではないんですよね」
「ええ。ただの押し花です」
「それでいい気がします」
イーリスは少し照れたように笑った。
「花がずっと咲いていたら、押し花にはできませんから」
モルが押し花を嗅ごうとして、リゼットにそっと止められた。
「潰れてしまいますよ」
「もう、つぶれてる」
「さらにです」
モルは少し不満そうだったが、前足を引っ込めた。
ニナもその日、配達のついでに満願堂へ寄った。イーリスの押し花を見ると、彼女は嬉しそうに言った。
「名前、覚えていましたね」
「書きましたから」
「書くの、大事ですよね」
その言葉に、リゼットは黒布の下の古い帳面を思い出した。
願いを書き留めること。
花の名前を書くこと。
同じではない。だが、失わせないために文字を置くという点では、少し似ている。
ニナは紅茶を飲みながら、ふと表の棚を見た。
晴れ乞いの人形は、今は表に出ていない。休んでいる。いつかまた誰かの手へ渡るのかもしれないが、今のニナにはもう必要ない。
必要ないと思えることが、少し誇らしかった。
「雨の日の花も、売れますか」
イーリスが尋ねる。
「売れます」
ニナはすぐに答えた。
「晴れの日とは違う花が」
それは師匠の受け売りでもあり、今のニナ自身の言葉でもあった。
満願堂の奥の棚では、白地に青い線の花瓶が静かにしている。
花を長く咲かせたい願いは、悪ではない。
ただ、花の終わりを少し後ろへ送るたびに、名前が薄くなることがある。
イーリスはこれからも花を買うだろう。時々、母が好きそうな花を選ぶだろう。時々、自分が好きな花を選ぶだろう。どちらがどちらか分からない日もあるかもしれない。
けれど、そのたびに名前を聞き、書くことはできる。
花は枯れる。
名前は、書けば少し残る。
それは願具よりずっと小さな方法だった。
けれど、満願堂には、そういう小さな方法も似合っていた。
その日から、ニナは花の札を少し丁寧に書くようになった。
値段だけではなく、花の名を大きく。雨の日に映えるものには、雨に合います、と小さく添える。師匠はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「急にまめになったね」
「名前がないと、忘れますから」
「花は忘れてもまた咲くよ」
「でも、買った人のところでは一度だけです」
師匠はしばらく黙って、それから笑った。
「いい言い方だ」
ニナは照れた。
満願堂の願具は不思議だ。だが、不思議な品に頼らなくてもできることはある。札を書くこと、水を替えること、花の終わりを見届けること。
それらは願いを叶える力ではない。
けれど、願いが乱暴に薄れないための小さな支えにはなる。
ニナはそう思いながら、新しい札に月待ち草と書いた。
もう雨は上がっていた。
ニナはその後、雨の日の花を一つずつ帳面につけるようになった。
晴れの日の売れ筋なら、花屋なら誰でも見る。明るい花、祝いの花、目を引く花。けれど雨の日に手に取られる花は、人によって少し違う。
白い花を選ぶ人。
香りの強い花を選ぶ人。
長持ちする花ではなく、今日だけ綺麗に見える花を選ぶ人。
ニナはそれを、以前より丁寧に見た。
満願堂で花瓶を納めた日から、花を長く保たせることと、花を覚えておくことは違うのだと知ったからだ。
数日後、花瓶を持ち込んだ婦人が花屋へ来た。
ニナはすぐに分かった。婦人は少し気まずそうに店先で立ち止まり、月待ち草ではなく、小さな白い花を見ていた。
「今日は、ご自宅用ですか」
ニナが声をかけると、婦人は頷いた。
「ええ。長持ちするものではなくていいの」
その言葉には、以前にはなかった迷いがあった。
「すぐ枯れても?」
「枯れるところも、見ておこうと思って」
ニナは少しだけ胸が温かくなった。
彼女は小さな白い花を選び、茎を整えた。
「この花は、朝より夕方の方が香ります。水は浅めでいいです。枯れる時は、花びらが透けるみたいになります」
婦人は花束を受け取った。
「そんなことまで教えてくれるのね」
「はい」
ニナは笑った。
「覚えておきたいなら、終わり方も知っている方がいいと思うので」
婦人は少しだけ目を伏せた。
「ありがとう」
その日、ニナは売上帳の端に、白い花の名前を書いた。
誰が買ったかは書かない。
ただ、雨上がりにその花が選ばれたことだけを残す。
満願堂の納願帳ほど大げさなものではない。花屋の小さな記録だ。
けれど、書かないまま忘れるよりはいい。
夕方、ニナは満願堂へ寄った。
リゼットに今日のことを話すと、モルが足元で言った。
「ニナ、書く人?」
「売上帳だけだよ」
「でも、書く」
リゼットは微笑んだ。
「願いの記録は、納願帳だけではございません」
ニナはカップを両手で包んだ。
花は枯れる。
雨は戻る。
願いは返りを伴う。
それでも、名前を書くことはできる。
小さな文字で残すことはできる。
それは、満願堂から少しだけ学んだ、花屋の仕事だった。




