第四十一話 黒布の下の頁
黒布の下に置かれた帳面は、ただ古いだけではなかった。
満願堂には古い物が多い。誰かが読み終えた本、持ち主を失った栞、使われすぎて角の丸くなった茶匙、表の棚で休む小さな願具。古さだけなら、店内のどこにでもある。
けれどその帳面だけは、古いというより、戻ってきたもののようだった。
前に見つかったそれは、黒布に包まれたまま、カウンターの奥へ置かれている。リゼットは朝の茶器を並べる時も、表の棚を整える時も、奥の棚へ魔願具を納める時も、必ず一度だけ黒布へ視線を落とした。
見るだけだった。
開かない。
モルも急かさなかった。
「まだ」
そう言って、帳面のそばで丸くなるだけだった。
ロイはそれを不思議に思っていた。
満願堂の管理人は、願具の扱いを迷わない。客の願いがどこへ向かうか、表の棚なのか奥の棚なのか、奥の部屋へ至るものなのかを静かに見極める。返りも、納め時も、リゼットはいつも必要なぶんだけ告げる。
その人が、一冊の帳面を前にして待っている。
それは満願堂の中で、誰よりも不思議な光景だった。
その日、ロイは普通便を届けに来ていた。
包みは茶葉と、月環街地誌の古い写し、それからエリアス宛ての白い封筒だった。黒い紐も暗い赤の封蝋もない。納め札も下がっていない。
「逓便局です。お届け物です」
「ありがとうございます、ロイさん」
リゼットはいつものように署名した。
モルは受け取り印を前足で押す。少しだけ斜めだったが、ロイは何も言わなかった。前に言って、モルにじっと見られたからだ。
「今日も普通便ですね」
リゼットが言う。
「はい。納め物はありません」
ロイは答えながら、どうしてもカウンター奥を見てしまった。
黒布。
その下に、古い帳面がある。
リゼットは彼の視線に気づいた。気づいたうえで、何も言わなかった。
沈黙が少し長くなる。
ロイは迷った。聞いていいことではないかもしれない。けれど、何も聞かないまま帰れば、今日一日ずっとその帳面のことを考えるだろう。
「リゼットさん」
「はい」
「その帳面は、まだ読まれないのですか」
言ってから、少し踏み込みすぎたと思った。
リゼットは怒らなかった。ただ、カウンター奥の黒布を見た。
「読めないわけではありません」
「では」
「読むと、こちらも読まれる気がするのです」
ロイは言葉を失った。
本を読む。帳面を読む。書かれた文字を見る。それだけなら誰にでもできる。だが、リゼットの言い方では、帳面の方にも目があるようだった。
モルが黒布へ鼻を近づけた。
「リゼットのにおい」
「前にも言っていましたね」
「うん。でも、ふるい。いまのリゼットじゃない」
リゼットは少しだけ目を伏せた。
「今の私ではない私、でしょうか」
「たぶん」
モルは自信があるのかないのか分からない声で答えた。
ロイはそのやり取りを聞きながら、胸の奥が落ち着かなくなった。満願堂の過去に触れることは、リゼットの過去に触れることと同じなのだろうか。
彼は自分がリゼットを知りたいと思っていることを、少し恥じた。
知りたい。
けれど、知る権利があるわけではない。
願いの扱いと同じだ。覗きたいから覗くのではない。届くべきものだけが届く。
昼過ぎ、オルスが来た。
彼は仕事用のエプロンをつけたまま、工具袋を肩へかけている。満願堂に来るたびに、少しだけ木屑と油の匂いを連れてくる。店内の紅茶と古書の香りの中では、その匂いは不思議と邪魔にならなかった。
「また面倒な物か」
ロイが思わず言うと、オルスは眉を上げた。
「俺がいつも面倒を持ってくるみたいな言い方だな」
「違うんですか」
「違わない」
モルが言った。
オルスはモルを見て、何か言い返そうとしてやめた。
その日、彼が持ってきたのは壊れた留め金だった。古い帳面を縛るためのものに似ている。真鍮製で、中央に月環のような輪があり、その奥に閉じた目にも見える細い傷があった。
「古道具屋から回ってきた。壊れているから直してくれと言われたが、どうにも嫌な感じがする」
「嫌な感じ」
「壊れたところが壊れてない。説明になってないのは分かってる」
オルスは留め金を黒布のそばへ置いた。
その瞬間、帳面を包んでいる黒布が、ほんの少しだけ沈んだ。
風はない。
誰も触れていない。
モルの耳がぴんと立つ。
「同じにおい」
リゼットは留め金を見つめた。
「……古い納願帳の留め具かもしれません」
「納願帳?」
ロイが聞く。
「今の納願帳とは、違うものです。願いを書き留めるための帳面が、満願堂に整う前にもあったのでしょう」
「でしょう、って」
オルスが腕を組む。
「あんたの店のものじゃないのか」
「満願堂になってからのものなら、私にも分かります」
リゼットの声は静かだった。
「けれど、満願堂になる前のものは、まだ私も知らないことがございます」
その一言で、店の空気が少し変わった。
満願堂になる前。
月環街に古くからあった、願いを納める場所。
ロイは以前聞いた断片を思い出した。願いを、末永く、ひとつでも多く、行き着く場所を。
その続きを、黒布の下の帳面が持っているのかもしれない。
リゼットは黒布を外した。
慎重な動きだった。
帳面は深い茶色の表紙をしている。縁は擦れ、角は丸い。表紙には文字がない。ただ、小さな月環の押し紋がある。今の満願堂の納願帳にある紋よりも線が粗く、けれど深かった。
留め具を近づけると、表紙の欠けた部分にぴたりと合った。
オルスは低く息を吐く。
「直るな」
「直してよいものでしょうか」
リゼットが問う。
「俺に聞くな。だが、壊れてるままより、閉じられる形を思い出したがってるようには見える」
その言い方に、ロイは少し驚いた。
オルスは照れたように眉をひそめる。
「満願堂へ来ると、変な言い方がうつる」
「よいことです」
リゼットは微笑んだ。
オルスは小さく舌打ちしながら、工具袋から細い道具を出した。留め具を表紙に合わせ、曲がった部分をほんの少しだけ戻す。力を入れすぎれば割れる。弱すぎれば留まらない。彼の指は無骨だが、動きは丁寧だった。
カチリ。
小さな音がした。
帳面は閉じられる形を取り戻した。
その瞬間、表紙の押し紋がわずかに濃くなった。
モルが鼻を鳴らす。
「起きた」
リゼットはしばらく黙っていた。
それから、帳面を開いた。
最初の頁は、ほとんど読めなかった。
紙は黄ばみ、ところどころインクが滲んでいる。文字は今の月環街で使うものより少し古い形だった。リゼットは指で紙に触れず、目だけで追う。
ロイもオルスも、覗き込まなかった。
リゼットが読んでよいものと、周囲が読んでよいものは違う。満願堂では、その区別を間違えない方がいい。
けれど、リゼットの唇から、ぽつりといくつかの言葉が落ちた。
「壊す前に……聞くこと」
モルが動かない。
「願いを……なかったことに……しない」
オルスの表情が少し変わる。
「リゼット」
モルが呼んだ。
リゼットは顔を上げた。
「はい」
「今のリゼットに、におい、近づいた」
その言葉を聞いて、リゼットは小さく息を吐いた。
怖かったのだと、ロイはその時気づいた。
帳面を読むことで、リゼットは何かを思い出すのかもしれない。あるいは、思い出したくないものに近づくのかもしれない。
だが彼女は頁を閉じなかった。
「今日は、ここまでにいたしましょう」
そう言って、黒布をかけ直す。
「少しだけ読めました」
「何が書いてあった」
オルスが聞く。
リゼットはすぐには答えなかった。
「おそらく、願いを帯びた品を壊す前に、その願いを記録していた方の言葉です」
願いを帯びた品。
古い呼び方だった。
ロイは逓便局で見つかった古い伝票を思い出す。願い物は、月環の堂へ納めること。
「その方は、満願堂の人だったのでしょうか」
「分かりません」
リゼットは静かに言った。
「ですが、少なくとも、壊して終わりにすることを望まなかった方です」
その声は、いつものリゼットの声だった。
けれど、ほんの少しだけ、自分の声を遠くから聞いているようでもあった。
夕方、ロイが帰る時、帳面はまた黒布の下にあった。
変わったことといえば、留め具が戻ったことだけだ。だが、その小さな金具一つで、黒布の下のものは「見つかった断片」から「閉じられた帳面」へ変わっていた。
閉じられるものは、開くこともできる。
ロイはそのことを、少し怖いと思った。
店を出る前、リゼットが言った。
「ロイさん」
「はい」
「今日は、聞かずに待ってくださってありがとうございます」
ロイは少しだけ目を見開いた。
「俺は、何も」
「何も聞かないことも、時には大切です」
その言葉は優しかった。
優しいから、胸に残った。
ロイは頭を下げ、満願堂を出た。
月環街の空は薄く曇っている。石畳は乾いていたが、遠くで雨の匂いがした。
満願堂の扉の向こうでは、リゼットが黒布の下の帳面をもう一度見ているのだろう。
その頁には、リゼット自身も知らない古いリゼットの匂いが残っている。
願いを壊す前に、聞くこと。
願いを、なかったことにしないこと。
それは、満願堂の今にとても近い言葉だった。
近いからこそ、まだ全部は読めないのかもしれない。
ロイは逓便局へ戻りながら思った。
満願堂の奥へ向かう道は、黒鉄の扉を開くところから始まるのではない。
閉じた帳面を、少しずつ開くところから始まるのだと。
翌日、ロイは逓便局で帳面のことをココに話した。
もちろん、読まれた文字のすべてを話したわけではない。リゼットが声にした言葉だけだ。壊す前に、聞くこと。願いを、なかったことにしないこと。
ココは仕分け台の前で耳を揺らしながら聞いていた。
「壊す前に聞くって、大事ですね」
「そうだな」
「でも、聞いたら壊せなくなりそうです」
その言葉は軽く聞こえたが、ロイはすぐには返せなかった。
願いを聞くということは、願いに責任を持つということに近い。聞いてしまえば、ただの物として扱えなくなる。処分場が恐れられ、処分役の家が必要とされた理由も、少し分かる気がした。
「だから、誰かが聞かなければならなかったんだろう」
ロイが言うと、ココは少し真面目な顔になった。
「それが、昔のリゼットさんだったんでしょうか」
「分からない」
「分からないの、増えましたね」
「ああ」
ロイは逓便局の壁にある紋章を見た。
月環。扉。閉じた目。
前は、そこにあるだけの局章だった。今は、見られているように感じる時がある。荷を運ぶ者が、荷の中身を覗かないために。願いの行き先を間違えないために。閉じた目は、閉じているからこそ見ているのかもしれない。
その日の午後、ヴェルナーはロイに古い書式の伝票を数枚渡した。
「満願堂へ行く時、これを持っていけ」
「これは?」
「帳面の留め具が出た古道具屋から、似た金具がもう一つ見つかった。満願堂が受け取るなら、記録として添える」
伝票には、今の欄と違う項目があった。
品名。
願い。
納め先。
破損の有無。
破損理由。
ロイは最後の欄を見つめた。
壊れたかどうかだけではなく、なぜ壊れたのかまで書く形式だった。
「昔の伝票は、細かいんですね」
「細かいのではない」
ヴェルナーは言った。
「必要だったんだ。壊れた理由を見落とせば、願いの行き先を間違える」
ロイは頷いた。
満願堂でリゼットが帳面を開く時、彼女はただ過去を読むのではない。壊れた理由を探しているのだ。
自分の願いが、どこで、何に触れて、どの形に仕上がったのか。
それを探すには、時間がいる。
その夜、満願堂の黒布の下で、帳面は静かに閉じていた。
留め具はもう外れていない。
閉じられる形に戻った帳面は、急いで開かれることを望んでいないようだった。
モルはその横で丸くなり、寝言のように言った。
「まだ」
リゼットは小さく頷いた。
「ええ。まだ」
その「まだ」は、拒絶ではなく、待つための言葉だった。
満願堂へ戻ったロイがその伝票を届けると、リゼットは破損理由の欄をしばらく見ていた。
「今の納願帳には、この欄はございません」
「必要ないからですか」
「いいえ。今は、お客様ご自身から伺うことが多いからでしょう」
昔は、持ち主ではない者が願いを帯びた品を運ぶことも多かった。壊れた理由を記さなければ、願いの向きが分からなくなる。今の満願堂では、客が自分の願いを話し、リゼットが聞き、モルが匂いを嗅ぐ。だから欄ではなく会話がある。
ロイはその違いを考えた。
書式が変わるということは、願いの扱われ方が変わるということでもある。
リゼットは伝票を帳面のそばへ置いた。
「ありがとうございます。これは、今すぐ納めず、写しを取ってから逓便局へお返しいたします」
「返すんですか」
「はい。逓便局の記録でもありますから」
満願堂がすべてを抱え込むわけではない。
その小さな判断に、ロイはなぜか安心した。
その夜、ロイは逓便局の宿直室で、黒布の下の頁のことを思い出していた。
仕事なら忘れられる。伝票を整理し、荷物を並べ、明日の配達順を確認していれば、手は自然に動く。けれど手が止まると、満願堂のカウンター奥へ置かれた帳面が頭に浮かんだ。
読むと、こちらも読まれる気がする。
リゼットの言葉が離れなかった。
帳面に読まれるとは、どういうことなのか。
願いを書いた帳面なら、そこには願った人の輪郭が残る。ならばリゼットの筆跡が残っている帳面には、リゼット自身の何かも残っているのだろう。
それを読むことは、過去を知ることではなく、過去から見返されることなのかもしれない。
翌朝、ロイはヴェルナーにそれとなく尋ねた。
「局長補佐、古い帳面に、書いた人の願いが残ることはありますか」
ヴェルナーは書類から顔を上げた。
「満願堂の話か」
「……はい」
「あるだろうな」
思ったよりあっさりした答えだった。
「願いを運ぶ伝票でさえ、長く残れば重くなる。願いそのものを書き留めた帳面なら、なおさらだ」
「読むと危ないですか」
「危ないかどうかは知らん。だが、読んだ者は読まなかった者ではいられない」
ロイはその言葉を覚えた。
満願堂でリゼットが帳面を開く時、彼女もまた、開く前の彼女ではいられなくなるのかもしれない。
その日の昼、満願堂ではリゼットが黒布を少しだけめくっていた。
モルは隣に座り、じっとしている。
頁の端に、かすれた文字があった。
壊す前に、聞くこと。
抜け落ちたものを、書き留めること。
そこまでは読めた。
その先は、墨が薄れている。
リゼットは新しい納願帳を開き、同じ言葉を書き写そうとした。けれど、ペンを紙へ下ろす直前で手が止まった。
写すことはできる。
だが、写した瞬間、その言葉が今の満願堂の規則になってしまうような気がした。
古い言葉をそのまま今へ移すことは、簡単なようで危うい。
「リゼット、書かない?」
「今日は、まだ」
「まだ」
モルは納得したように尻尾を巻いた。
リゼットは黒布を戻した。
全部を読む日はいずれ来るのだろう。
けれど今日は、読めた一文だけを胸に置いた。
壊す前に、聞くこと。
それは満願堂がずっとしてきたことでもあり、リゼット自身がこれから自分にしなければならないことでもあるのかもしれなかった。
翌朝、リゼットは古い納願帳のために小さな箱を用意した。完全にしまい込むためではない。布をかけたまま置いておくよりも、少しだけ丁寧な居場所を作るためだった。箱は古書の修繕に使う紙と同じ匂いがする。新しいものではあるが、古いものを傷めないための新しさだった。
モルは箱を覗き込み、鼻を鳴らした。
「まだ、からっぽ」
「ええ。帳面を入れますから」
「帳面、寝る?」
「休む、と言った方が近いでしょうか」
そこへロイが来た。普通便の配達だったが、彼は箱に気づいて足を止めた。
「帳面を片づけるんですか」
「いいえ。置き場所を変えるだけです」
リゼットは箱の底へ薄い布を敷いた。
「見えるところに置いておくと、読めないことばかりを考えてしまいます。かといって、奥へしまえば、なかったことにしてしまいそうですから」
ロイは少しだけ頷いた。
「間の場所ですね」
「はい」
その言葉は、リゼットの中で静かに落ちた。
満願堂には、表の棚、奥の棚、奥の部屋がある。けれど、すべての願いがすぐにそのどれかへ分けられるわけではない。迷っているもののための、間の場所が必要な時もある。
古い納願帳は箱へ収められ、カウンター奥の低い棚へ置かれた。
見ようと思えば見える。忘れようと思えば忘れられない。
その距離が、今のリゼットにはちょうどよかった。




