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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第二章 奥の棚に眠るもの

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第四十話 管理人の願い

古い帳面は、オルスが持ってきた。


「直せと言われた机の引き出しから出てきた」


そう言って、彼は満願堂のカウンターに薄い包みを置いた。


机は、月環街の北区にあった古い屋敷のものだという。脚が割れ、引き出しの底が沈んでいた。修理のために分解したところ、二重底の奥から小さな帳面の束が見つかった。


「持ち主に聞いたが、家のものじゃないと言う」


オルスは腕を組む。


「捨てるには嫌な感じがした」


リゼットは包みを見た。


モルはすでにカウンターの上へ上がっている。昨日から、落ち着きがなかった。奥の奥で古いものに呼ばれたと言ってから、何度も棚の方を見ていた。


「開けます」


リゼットが布をほどく。


中にあったのは、古い帳面の断片だった。


表紙は失われている。頁は数枚だけ。水に濡れた跡があり、端は黒ずんでいる。文字は薄い。けれど、消えてはいなかった。


ロイとココも、その場にいた。


二人とも、本来ならすぐ逓便局へ戻る時間だった。


だが、誰も「帰れ」とは言わなかった。満願堂の空気が、いつもの納め物の時とも違っていたからだ。願いが帰ってきたというより、店そのものが古い引き出しを開けられたような静けさだった。


ココは小さく息を呑む。


「これ、局長補佐が見たら、また怖い顔しますね」


「もうしている顔が浮かぶ」


ロイが答える。


軽い会話のつもりだった。


けれど、誰も笑わなかった。


普通便の配達に来たところだったが、オルスの様子がいつもと違うので残っていた。


ヴェルナーから預かった古い記録の写しを持ってきたココは、耳を立てて帳面を見ている。


「これ、納願帳ですか?」


「今の納願帳ではございません」


リゼットは静かに答えた。


「ですが、近いものです」


頁には、古い言葉が並んでいた。


文字の中には、今の満願堂では使わない言い回しもあった。


願具ではなく、願い物。


奥の棚ではなく、控え棚。


満願具ではなく、仕上がり物。


分類はまだ曖昧で、言葉も定まっていない。だが、どの頁にも同じ気配があった。


壊さずに置く。


忘れずに記す。


迷ったものを、迷ったまま投げ出さない。


それは、今の満願堂の根に近い考えだった。


願い物。


納め台。


月環の堂。


そして、何度も書き直されたような一節。


願いを……


末永く……


ひとつでも多く……


行き着く場所を……


文字は途切れている。


だが、その筆跡を見た瞬間、ロイは顔を上げた。


「リゼットさん」


「はい」


「これ、リゼットさんの字に似ています」


店内の空気が少し動いた。


ココも帳面とリゼットの手元を見る。リゼットが納願帳に書く文字を、配達の際に何度か見たことがある。細く、整っていて、最後の線だけ少しやわらかい。


古い帳面の文字も、似ていた。


似ている、というより、少し若い同じ手のようだった。


リゼットは帳面を見つめた。


「古いものです」


声はいつも通りだった。


「私のものではございません」


モルが鼻を近づけた。


「リゼットのにおい」


誰もすぐには言葉を返せなかった。


「モル」


リゼットの声は静かだった。


「本当に?」


「うん」


モルは帳面の周りを一周する。


「今のリゼットじゃない。古いリゼット」


ココの耳が少し下がった。


「古いリゼットさん?」


ロイはリゼットを見た。


何十年も前から同じ声で局員を迎えている。


ヴェルナーの言葉が頭に戻る。


言葉の綾ではなかったのかもしれない。


オルスは余計なことを言わなかった。ただ、帳面の紙質を見ている。


「かなり古い。今の紙じゃない」


「どれくらいですか」


ロイが聞く。


「俺は紙屋じゃない。だが、少なくとも数十年では済まない」


リゼットは帳面の頁をめくった。


そこには別の断片があった。


壊して終わらせない。


なかったことにしない。


願ったことを、どこかへ。


その先は焼けている。


リゼットの指が、ほんの少しだけ止まった。


彼女自身にも、何かが分からなかった。


覚えているようで、覚えていない。


見たことがあるようで、初めて見る。


満願堂の棚には、たくさんの願いがある。誰かの痛み、誰かの後悔、誰かの美しさ、誰かの正しさ。リゼットはそれらを納めてきた。


けれど、自分の願いがどこにあるのかを考えたことは、ほとんどなかった。


管理人としての役割がある。


満願堂を開ける朝がある。


納め物を受け取る手がある。


それで十分だった。


十分だったはずなのに、帳面の文字は胸の奥に小さな隙間を作った。


「これは、どこにありましたか」


リゼットはオルスに聞いた。


「北区の古い屋敷だ。持ち主は、昔は納め番の家筋だったとか言っていた」


「納め番」


ココが呟く。


逓便局の古い記録にも、その言葉に近いものがあった。今の逓便局より前、願い物を月環の堂へ運んだ者たち。


「ヴェルナー局長補佐に見せた方がいいかもしれません」


ロイが言った。


リゼットは頷いた。


「そうですね」


だが、帳面をすぐ渡す様子はなかった。


モルが前足で頁の端を押さえる。


「リゼット、これ、だいじ」


「ええ」


「リゼットの願い?」


その問いに、リゼットは答えられなかった。


店内には紅茶の香りがある。古書の匂い。ステンドグラスの淡い光。カウンターの上の納願帳。奥の棚。黒鉄の扉。


すべてがいつも通りだった。


なのに、その日だけ、満願堂そのものがリゼットを見ているように感じられた。


エリアスが窓際の席から静かに言った。


「リゼットさん」


「はい」


「顔が、少し遠いわ」


リゼットは自分の頬に触れた。


「そうでしょうか」


「ええ」


エリアスは詩集に栞を挟む。


「いつものリゼットさんより、少しだけ古い顔」


モルが小さく頷いた。


「古いリゼット」


リゼットは微笑もうとした。


いつものように。


けれど、うまく形にならなかった。


ロイはそれを見た。


リゼットが困っている。


満願堂の管理人としてではなく、一人の人として。


そう思った瞬間、胸の奥が強く動いた。


「リゼットさん」


彼は声をかけた。


「今は、分からなくてもいいんじゃないですか」


リゼットが顔を上げる。


「分からないまま、納めておくこともあるんですよね」


それは、満願堂で何度も聞いたことだった。


すぐに答えが出ない願いもある。


納めた後に、少しずつ形が分かるものもある。


リゼットは帳面を見る。


「そうですね」


声は少しだけ戻っていた。


「では、今は満願堂でお預かりしましょう」


表の棚でも、奥の棚でもない。カウンターの奥、リゼットが毎朝最初に触れる茶器の少し近く。そこへ、黒布に包んで置かれた。


その夜、店を閉めた後も、リゼットはしばらく帳面の前に立っていた。


願いを。


末永く。


ひとつでも多く。


行き着く場所を。


その言葉は、誰のものなのか。


なぜ、モルはリゼットのにおいだと言ったのか。


なぜ、自分はその文字を見ると、胸の奥が少し痛むのか。


リゼットには、まだ分からなかった。


その夕方、ヴェルナーも満願堂へ来た。


ロイが報告したのだろう。彼はいつものように隙のない制服で、右手に手袋をはめていた。古い帳面を見ると、顔つきが変わった。


「これをどこで」


「オルスさんが持ち込まれました」


リゼットが答える。


ヴェルナーは頁をめくらなかった。ただ、文字を遠くから見る。


「局の古記録にも、似た手がある」


「誰の字ですか」


ロイが聞くと、ヴェルナーは答えなかった。


「今はまだ、扱いを誤るな」


それだけ言い、リゼットへ深く頭を下げた。


「満願堂でお預かりください」


恐れているのか、敬っているのか、ロイには分からなかった。


たぶん、両方だった。


古い帳面は、現在の納願帳の隣には置かれなかった。


ヴェルナーが帰った後も、ロイは少しだけ残った。


「リゼットさん」


「はい」


「怖いなら、誰かに預けてもいいと思います」


言ってから、自分でも少し踏み込みすぎたと思った。


だが、リゼットは怒らなかった。


「満願堂に納められたものを、私が怖いからと外へ出すわけにはまいりません」


「そうではなく」


ロイは言葉を探す。


「リゼットさん一人で、怖がらなくてもいいという意味です」


リゼットは、ほんの少しだけ目を見開いた。


その反応を見て、ロイは自分が何を言ったのか遅れて理解した。顔が熱くなる。けれど、言葉は引っ込めなかった。


モルが足元で言った。


「ロイ、今日はいいにおい」


「何の話ですか」


「たぶん、勇気」


ロイは返事に困った。


リゼットは、少しだけ笑った。


モルが足元で丸くなる。


「リゼット、こわい?」


「少し」


リゼットは正直に答えた。


モルは尻尾を揺らした。


「でも、いいにおい」


「そうですか」


「うん。古くて、いい」


リゼットは小さく笑った。


満願堂の灯りを落とす。


黒布の下で、古い帳面は静かにしている。


第一部の終わりは、大きな音を立てて来たわけではなかった。


ただ、管理人の知らない管理人の願いが、ようやく頁の端から顔を出した。


その夜、リゼットは夢を見なかった。


夢を見なかった、というより、眠ったのかどうかも曖昧だった。店を閉め、茶器を片づけ、奥の棚を確かめ、黒布の下の帳面を見て、それから長い時間が過ぎた。


気づくと、窓の外が少し明るくなっていた。


満願堂は静かだった。


モルはカウンターの上で丸くなっている。エリアスの席にはまだ誰もいない。表の棚の願具たちは、夜明けの光の中で小さく眠っている。


リゼットは黒布の下の帳面へ手を伸ばしかけ、止めた。


今はまだ、開かない。


そう思った。


願いを。


末永く。


ひとつでも多く。


行き着く場所を。


その言葉が、自分のものなのか、過去の誰かのものなのか、まだ分からない。


けれど、分からないままでも、満願堂は開く。


それが少し怖く、少し救いでもあった。


朝の最初の湯を沸かす時、モルが目を開けた。


「リゼット」


「はい」


「今日、開ける?」


リゼットは扉の札を見た。


いつもの札。


開店を告げる、小さな札。


「ええ」


彼女は答えた。


「今日は、開けましょう」


「古いリゼット、いる?」


「おります」


リゼットは少し考え、黒布の下の帳面を見た。


「けれど、今の私もおります」


モルは満足したように尻尾を揺らした。


「じゃあ、だいじょうぶ」


「そうでしょうか」


「たぶん」


その曖昧な答えに、リゼットは小さく笑った。


第一部は、何かが解決して終わるわけではない。


むしろ、分からないものが増えて終わる。


だが、満願堂はそういう場所だった。願いは、分かった瞬間にだけ意味を持つのではない。分からないまま納められ、時間をかけて形を見せることもある。


扉の鈴が鳴った。


最初の客は、普通の紅茶を求める若い娘だった。願具を見るでもなく、奥の棚に気づくでもなく、ただ冷えた手を温めるために席へ座る。


リゼットはカップを用意した。


いつも通りの朝だった。


けれど、カウンターの奥には黒布の帳面がある。


いつか、そこから長い話が始まる。


リゼットはまだそれを知らない。


ただ、湯気の向こうで、自分の知らない願いが少しだけこちらを見ている気がした。


それでも彼女は、いつもの声で言った。


「いらっしゃいませ」


その声は昨日までと同じように柔らかかった。


けれど、ほんの少しだけ遠くへ届いた。


その日の午後、ロイは逓便局へ戻ってからも、古い帳面のことを考えていた。


仕分け台の上には普通便が並ぶ。茶葉、手紙、古書、役所の通達。どれも行き先が書いてある。番地があり、宛名があり、届けるべき人がいる。


古い帳面には、行き先がなかった。


むしろ、行き先を作ろうとした誰かの痕跡だった。


リゼットの字に似た文字。


モルが言った、古いリゼットのにおい。


ヴェルナーの硬い顔。


それらが、ロイの中で一つに繋がりそうで繋がらない。


「手が止まってますよ」


ココに言われ、ロイは我に返った。


「すまない」


「帳面のことですか」


「ああ」


ココは少し耳を伏せた。


「リゼットさん、少し怖そうでした」


「そう見えたか」


「はい。でも、怖いって言ってくれて、少し安心しました」


ロイはココを見る。


「どうして」


「リゼットさんでも怖いものがあるなら、僕たちが怖がってもいい気がして」


その言葉は、ロイの胸に残った。


リゼットは満願堂の管理人だ。


多くの願いを見届け、満願具の仕上がりを納め、奥の部屋の扉を前にしても声を荒げない。


けれど、怖いと言った。


そのことが、ロイには大切に思えた。


夜、ヴェルナーは古い局章の前に立っていた。


ロイが報告書を出すと、彼は短く受け取り、しばらく黙った。


「局長補佐は、あの帳面について何かご存じなんですか」


ロイは思いきって聞いた。


ヴェルナーはすぐには答えなかった。


「知っていることと、語ってよいことは違う」


「はい」


「だが一つだけ言っておく」


ヴェルナーは局章を見る。


月環。扉。閉じた目。


「満願堂は、初めから店だったわけではない。店になる前にも、願いの行き先を求める者はいた」


「リゼットさんは」


「それ以上は、今は聞くな」


厳しい声だった。


だが、拒絶ではなかった。


「ただし、見届けろ。お前はもう、あの店の外側だけを運んでいるわけではない」


ロイは深く頭を下げた。


翌朝、満願堂はいつも通り開いた。


ココが普通便を届け、モルがはんこを押す。エリアスはいつもの席で本を開き、オルスはまだ来ない。リゼットは紅茶を淹れる。


何も変わっていないように見える。


けれど、カウンターの奥には黒布に包まれた帳面があった。


リゼットがそこへ視線を向けるのは、ほんの一瞬だけだ。


その一瞬を、ロイは見た。


第一部の終わりは、誰かが消えたり、店が閉じたりする終わりではなかった。


むしろ、これまで当たり前だった満願堂の奥に、まだ知らない始まりがあると分かる終わりだった。


リゼットは客へ紅茶を置き、いつもの声で言う。


「ごゆっくりどうぞ」


その声は変わらない。


けれどロイには、ほんの少しだけ、その声が自分自身へも向けられているように聞こえた。


ごゆっくり。


まだ急がなくていい。


分からない願いは、分からないまま納めておいてもいい。


黒布の下で、古い帳面は静かに眠っている。


そして満願堂は、次の部へ続くように、今日も扉を開けていた。


ロイは後になって、この日のことを何度も思い返す。


何か大きな事件が起きたわけではない。誰かが満願具へ進んだわけでも、納め物が激しく鳴ったわけでもない。古い帳面の断片が見つかり、モルが匂いを嗅ぎ、リゼットが少しだけ答えに詰まった。


ただ、それだけだった。


けれど、満願堂の見え方が変わるには十分だった。


それまでロイにとって、リゼットは満願堂の答えだった。


願具の説明をし、返りを告げ、奥の棚と奥の部屋を見極め、納める場所を決める人。怖く、美しく、静かな管理人。


だが、古い帳面の前で、リゼットは答えを持たない人になった。


そのことが、ロイには忘れられなかった。


ココも同じだったらしい。


数日後、彼女は配達鞄を肩にかけながら言った。


「リゼットさんにも、分からない願いがあるんですね」


「ああ」


「じゃあ、満願堂って、まだ途中なんでしょうか」


ロイは少し考えた。


「仕上がっているようで、途中なのかもしれない」


「満願堂なのに?」


「満願堂だから、かもしれない」


自分で言って、ロイはその言葉が胸に残った。


満願堂の仕上がり。


それは、すべてが完成して動かなくなることではないのかもしれない。願いが届き、納められ、また次の願いが来る。時々、店そのものの過去が顔を出す。


仕上がりとは、終わりではなく、行き着いた形であり続けることなのかもしれない。


リゼットはまだ知らない。


この帳面が、やがて彼女自身の願いへ繋がることを。


モルも、すべてを言葉にはできない。


ただ、匂いで知っている。


古いリゼット。


願いを。


行き着く場所を。


その断片は、黒布の下で静かに眠っている。


第一部は、そこで閉じる。


けれど、満願堂の扉は閉じない。


翌朝も、鈴は鳴る。


誰かが紅茶を頼み、誰かが願具を眺め、誰かが納め物を運んでくる。


そして管理人は、いつもの声で客を迎える。


その声の奥に、ほんの少しだけ、まだ本人も知らない願いの響きを残しながら。


黒布の下の帳面は、その日から満願堂の朝に加わった。


茶器を並べる。


表の棚を整える。


納願帳を確認する。


そして、古い帳面の黒布に乱れがないかを見る。


たったそれだけの手順が増えただけだった。


けれど、その一手間があるたび、リゼットは自分の知らない願いのそばを通ることになった。


モルは何も急かさない。


エリアスも聞かない。


ロイは時々視線を向けるが、言葉にしない。


ココだけが一度、「まだ読まないんですか」と聞きかけて、モルに尻尾で止められた。


「まだ」


モルはそう言った。


まだ。


その言葉が、今の満願堂にはちょうどよかった。


願いは、見つかった瞬間にすべて読まなければならないわけではない。扉も、棚も、帳面も、開く時を待つ。


リゼットはそのことを誰より知っている。


だからこそ、自分に関わる願いにも、同じだけの時間を与えなければならなかった。


第一部の終わりに、答えはない。


あるのは、閉じた帳面と、いつも通り開く店と、その間に立つ管理人だけ。


けれど、その管理人の声は、昨日よりほんの少しだけ、自分自身にも届いていた。


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