第三十九話 モルがいない日
モルがいない朝、満願堂は少し広すぎた。
カウンターの上には、いつもの白い毛玉がない。受け取り印の横も空いている。茶器を並べる音は変わらないはずなのに、リゼットには店の空気が少し低く感じられた。
「モル?」
呼んでも返事はない。
店の中にはいるのかもしれない。奥の棚の陰、古書の下、エリアスの席の近く。モルは時々、考えごとをするように変な場所で丸くなる。
だが、その日はどこにもいなかった。
リゼットは扉の札を見た。
開けるべきか、少し迷う。
モルがいなくても、満願堂は開けられる。リゼットは管理人だ。願具の説明も、魔願具の扱いも、納め物の受け取りもできる。
けれど、モルが嗅ぎ分けるものがある。
願いの匂い。抜け落ちたもの。まだ表でよいものと、奥へ行くべきもの。その微妙な境目。
リゼットは扉の札を返した。
満願堂は開いた。
開店してすぐ、小さな違和感がいくつも見えた。
受け取り印はあるのに、押す前足がない。焼き菓子の皿を少し内側へ押してくれる毛玉がいない。客が扉の前で迷った時、真っ先に「おきゃくさま」と言う声がない。
リゼットは一つ一つ自分で補った。
できないわけではない。
けれど、満願堂の日常は、思ったより多くモルの小さな動きでできていた。
最初に来たのは、ロイだった。
その前に、年配の婦人が一人来ていた。
なくした指輪を探す栞が欲しいと言う。表の棚の願具で十分な願いだった。リゼットは説明し、返りも伝え、無事に送り出した。
何も問題はなかった。
ただ、婦人が帰った後、リゼットは少しだけ不安になった。
モルがいれば、今の願いの匂いを何と言っただろう。
軽い。まだ表。さびしい。帰りたい。
その一言がないだけで、判断の輪郭が少し柔らかくなる。
「逓便局です。普通便です」
彼はカウンターに茶葉の包みを置き、すぐに周囲を見た。
「モルさんは?」
「少し出ているようです」
「出ている?」
「ええ」
ロイはそれ以上聞かなかったが、心配そうだった。
「何か手伝いますか」
「ありがとうございます。今のところは大丈夫です」
そう答えた時、扉の鈴が鳴った。
入ってきたのは、若い男だった。名をシモンといった。手には細い赤い紐を持っている。
「これを見てほしいんです」
紐は古く、ところどころ色が抜けている。だが、結び目だけが妙に硬そうだった。
「祖母のものです。これを持っていると、人との縁が切れにくいと言っていました」
リゼットは紐を見た。
願具になりかけている。
そう判断するのは難しくなかった。長く人の手にあり、何かを結び止めたい願いを覚えている。
「どのように使われたいのですか」
「恋人が、街を出ると言っています」
シモンは紐を握る。
「引き止めたい。でも、言えば嫌われるかもしれない。これで、縁が切れないようにできるなら」
リゼットは静かに紐を受け取った。
表の願具として扱えるだろうか。
人の縁を少し思い出させる程度なら、表の棚にも似た品はある。だが、この紐は少し重かった。結び目が、ほどけることを嫌がっている。
モルがいれば、すぐに鼻を鳴らしただろう。
リゼットは言った。
「これは、今はお渡しできません」
「どうして」
「縁を思い出させるだけではなく、結び止める方へ傾いています」
「それが欲しいんです」
「でしたら、なおさらです」
シモンは不満そうだった。
「満願堂は願いを叶える店だと聞きました」
「願いを迷わせないための店でもございます」
「迷っているのは俺じゃない。彼女です」
その言葉で、紐の結び目が少し締まった。
リゼットはそれを見た。
やはり、奥へ近い。
だが、満願具へ至るほど澄んではいない。シモンは彼女を愛しているのか、置いていかれる自分を恐れているのか、まだ自分でも分かっていない。
「今日は、この紐をお預かりします」
「返してくれないんですか」
「すぐにお返しするには危うい品です」
シモンは声を荒げかけた。
その時、店の奥から小さな足音がした。
モルが戻ってきた。
モルは、どこから入ってきたのか分からなかった。
扉の鈴は鳴らなかった。奥の棚の陰から、気づけば出てきていた。白い毛には埃だけでなく、古い紙片のようなものがついていた。
リゼットはその姿を見た瞬間、昨日の言葉を思い出した。
奥の奥。
古いもの。
リゼットのにおい。
白い毛に、埃を少しつけている。首元の鍵がいつもより強く揺れていた。
「モル」
リゼットの声が少しだけ柔らかくなる。
モルはカウンターに上がり、赤い紐の匂いを嗅いだ。
「もう奥」
「奥の棚ですか」
「奥。でも、部屋じゃない」
リゼットは静かに頷いた。
自分の判断は、大きく外れてはいなかった。けれど、モルが一言で示した境目は、やはりはっきりしている。
シモンはモルを見た。
「その獣が決めるのか」
「決めるのは、お客様です」
リゼットは答えた。
「ですが、この紐を使うなら、どなたの願いを結ぶのか、よく考えてからです」
「彼女を失いたくないだけです」
「彼女の行き先も、願いではありませんか」
シモンは黙った。
赤い紐は、リゼットの手の中で静かにしている。
結びたい願い。
ほどきたい願い。
縁は、そのどちらにも触れる。
シモンは結局、その日は紐を預けて帰った。納めたわけではない。使うとも決めていない。ただ、満願堂に置いて考えることにした。
ロイは一部始終を見ていた。
「モルさんがいないと、やはり違いますか」
「ええ」
リゼットは認めた。
「私にも見えるものはございます。ですが、モルは別のものを嗅ぎます」
「どこへ行っていたんですか」
モルは前足についた埃を舐めようとして、リゼットに止められた。
「奥の奥」
「奥の奥?」
「古いものが、呼んだ」
リゼットの手が止まる。
「古いもの」
モルは首元の鍵を前足で押さえた。
「リゼットのにおい、少しあった」
店内が静かになった。
リゼットはすぐには聞き返さなかった。
モルが言う「リゼットのにおい」は、今ここにいるリゼットの匂いとは少し違う時がある。古い納め物に残った、リゼットの手。古い帳面に残った、リゼットの文字。
ロイはその沈黙を見て、何かがあると分かった。
「見に行きますか」
彼が思わず言うと、リゼットは少しだけ微笑んだ。
「営業時間中ですので」
「……すみません」
「いいえ」
その日は、赤い紐を奥の棚へ納めるところまでで終わった。
モルは少し疲れたようにカウンターで丸くなる。
「モル、いないと、店ひろい?」
「ええ」
リゼットは答えた。
「少し広すぎました」
モルは満足そうに目を閉じた。
「じゃあ、いる」
「お願いします」
満願堂はまた、いつもの広さに戻った。
けれど、奥の奥でモルを呼んだ古いもののことが、リゼットの胸に小さく残った。
モルが戻った後も、満願堂はすぐにいつも通りにはならなかった。
白い毛玉はカウンターで丸くなり、何事もなかったように欠伸をした。だが、リゼットは何度かその首元の鍵を見た。
「リゼット、見る」
モルが目を閉じたまま言う。
「見ています」
「鍵?」
「ええ」
「鍵は、ある」
「そうですね」
ある。
それは当たり前の返事だった。けれど、リゼットには少し違って聞こえた。鍵は、今ここにある。では、鍵が見てきたものはどこにあるのか。モルが嗅いだ古いものは、どこから来るのか。
夕方、ロイとココが帰った後、リゼットは東通りの古い紙屋へ行った。
モルを連れて行くつもりだったが、モルは首を横へ振った。
「今日は、リゼットだけ」
「なぜですか」
「におい、残るから」
説明になっているようで、なっていなかった。
それでもリゼットは一人で店を出た。
紙屋は古い店だった。店主は白髪の男で、満願堂の管理人を見ると少し驚いた顔をした。
「珍しいですね」
「昨日、こちらの屋根に白いものが来ませんでしたか」
店主は少し考え、苦笑した。
「猫のようなものなら。屋根裏へ入りましてね。古い紙束を落としていきました」
「紙束」
「もう処分するつもりでしたが、変な文字があって。明日、修理屋のオルスさんが古い机を見に来るので、一緒に見てもらおうかと」
リゼットの胸の奥が静かに沈んだ。
モルは見つけたのだ。
リゼットがまだ知らない、何かを。
その夜、リゼットは店へ戻ると、モルの隣に座った。
客席ではなく、カウンターの内側。普段なら立って作業をする場所に、小さな椅子を置いて座る。
モルは目を開けた。
「リゼット、休む?」
「少しだけ」
「めずらしい」
「そうですね」
沈黙が落ちた。
満願堂には、閉店後の匂いがある。冷めた茶葉、閉じた本、拭いた木のカウンター。そこに今日は、古い紙の気配がほんの少し混ざっている。
「モル」
「うん」
「古いリゼットとは、何ですか」
モルは困ったように尻尾を動かした。
「リゼット。でも、今じゃない」
「昔の私ですか」
「たぶん。願いのリゼット」
リゼットはそれ以上聞かなかった。
願いのリゼット。
それは、管理人としての自分より前にあったものなのか。それとも、満願堂そのものに近い何かなのか。
答えはまだ来ない。
翌日、オルスが古い帳面を持ってくる。
そのことを、リゼットはまだ知らない。
けれど、その夜の満願堂はすでに、次の頁がめくられる前の静けさを持っていた。
モルは小さく欠伸をする。
「明日、くる」
「何がですか」
「古いもの」
「怖いものですか」
モルは少し考えた。
「こわい、ちがう」
「では」
「だいじ」
リゼットは灯りを一つ落とした。
「そうですか」
だいじ。
その言葉だけが、夜の満願堂に残った。
モルがいない一日は、ただの不在ではなかった。
リゼットが、モルの役割を改めて知る日であり、満願堂の奥がまだ自分の知らないものを持っていると知る日でもあった。
翌朝、扉の鈴が鳴る前から、リゼットはカウンターの上を整えていた。
モルはいつもの場所で丸くなっている。
けれど、首元の鍵だけが、昨日より少し古く見えた。
翌朝、モルはいつもより長く眠っていた。
リゼットは起こさなかった。茶器を並べ、表の棚を整え、開店の札を返す。モルの前足がなくても、受け取り印は置いておく。焼き菓子の皿も、いつもの位置に出す。
昨日の一日で、モルがしていることの多さを知った。
けれど同時に、リゼットは別のことにも気づいていた。
モルがいない時、自分はすぐに不安になった。
願いを見落とすのではないか。
返りを嗅ぎ分けられないのではないか。
奥へ進めるべきでない人を通してしまうのではないか。
それらは、管理人として当然の不安だった。
だが、その奥にもう一つあった。
モルが、自分の知らない場所へ行ってしまうことへの不安。
リゼットはその感情に、少し戸惑った。
満願堂に来る人々は、いつか帰る。願具も納められ、眠り、時に戻っていく。行き着く場所があるなら、それでいい。そう思ってきた。
では、モルが自分の知らない古い場所へ帰ろうとしたら。
その時、自分は同じように微笑めるのだろうか。
カウンターの上で、モルが目を開けた。
「リゼット、へんなにおい」
「私がですか」
「うん。心配」
リゼットは少しだけ笑った。
「心配していました」
「モル、いる」
「ええ」
「でも、また行くかも」
その言葉は、少しも悪びれていなかった。
リゼットは胸の奥が小さく痛むのを感じた。
「その時は、教えてください」
「うん。たぶん」
「たぶんですか」
「急ぐと、忘れる」
モルらしい答えだった。
けれど、その気まぐれさの中にも、古い役目があるのだろう。
モルは願いを叶えない。
願いを押しつけない。
ただ、抜け落ちたもの、迷ったもの、帰りかけたものを嗅ぎ分ける。
時には、リゼットの知らないものも。
昼前、オルスから短い伝言が届いた。
東通りの紙屋で見つかった古い机を見に行く。妙なものがあれば満願堂へ寄る。
リゼットはその伝言を読み、昨日のモルの言葉を思い出した。
古いリゼット。
まだ何も始まっていない。
けれど、もう始まりの匂いはしていた。
その日の満願堂は、いつも通り開いていた。
だが、リゼットは時々カウンターの奥を見る。そこにはまだ何もない。黒布も、古い帳面も、置かれていない。
それでも、空いた場所があるように見えた。
何かが来るための場所。
モルはその場所を見て、満足そうに尻尾を揺らした。
「そこ」
「ここですか」
「うん。明日」
リゼットは静かに頷いた。
明日。
その言葉は、ただ次の日を示しているだけではない気がした。
満願堂にとっての、次の頁。
その日の夕方、エリアスはいつもの席で本を閉じた。
「モルがいないと、満願堂の影が少し違うのね」
「影ですか」
リゼットが聞く。
「ええ。いつもは白い影が先に動くでしょう。今日は、棚の影が少し長かったわ」
エリアスの言葉は、時々詩のようで、時々そのまま真実だった。
リゼットは店内を見回した。
カウンター、表の棚、奥の棚、黒鉄の扉。すべて見慣れている。けれど、モルが不在だった一日を通ると、同じ配置が少し違って見えた。
自分は満願堂をよく知っている。
そう思っていた。
だが、それは管理人として毎日触れている範囲を知っているだけなのかもしれない。モルは、もっと古いところを知っている。エリアスは、変わらない時間の中から別の影を見る。ロイやココは、外から来る荷の道を知っている。オルスは、壊れた物の奥を知っている。
満願堂は、リゼット一人の目だけでできてはいない。
そのことを、まだ彼女ははっきり言葉にはしなかった。
けれど、胸の奥に小さく置いた。
夜、モルは寝言のように言った。
「納め台」
リゼットは振り返った。
「モル?」
白い体は丸くなったまま動かない。
「白いところ。置くところ」
寝言なのか、古い記憶なのか分からない。
リゼットは灯りを消さず、しばらくモルのそばにいた。
明日、オルスが何を持ってくるのか。
まだ知らない。
けれど、納め台という言葉だけが、閉店後の店内に薄く残った。
リゼットはその夜、納願帳を開かなかった。
書くべきことがないわけではない。むしろ、書きたいことは増えていた。モルがいなかったこと。古い紙屋へ行ったこと。納め台という寝言。明日、オルスが何かを持ってくるかもしれないこと。
けれど、それらはまだ願いではなかった。
記録にすれば落ち着くこともある。だが、落ち着かせるには早いものもある。
リゼットはペンを置き、代わりに白い布でカウンターを拭いた。
モルがいない間、ほんの少しだけ埃が目立った場所。受け取り印の横。焼き菓子の皿の下。モルがいつも丸くなる場所。
拭きながら、彼女は思った。
満願堂には、自分が気づいていない手がいくつもある。
モルの前足。
ココの配達鞄。
ロイの几帳面な受け取り帳。
オルスの傷だらけの手。
エリアスがいつもの席に置く栞。
それらが少しずつ、この店の形を保っている。
管理人であることは、すべてを一人で支えることではないのかもしれない。
その考えは、まだリゼットの中で言葉にならなかった。
ただ、翌朝の光の中で、モルの寝場所が少しだけ温かく見えた。




