第三十八話 月環街の外から来た客
ファルコは、満願堂を商売相手だと思っていた。
月環街の外から来た旅商人で、荷馬車には異国の布、香辛料、銀細工、古い護符、どこで手に入れたのか分からない小瓶が積まれている。声は大きく、笑顔は明るく、値をつけるのが上手かった。
「願いを扱う店なら、こういう品は必要でしょう」
そう言って、彼は満願堂のカウンターに小箱をいくつも並べた。
リゼットは紅茶を注ぐ手を止めなかった。
「どういった品でしょうか」
「東の港で手に入れた恋の護符。南の砂市で買った夢見の香。北境の修道院に伝わる忘れ石。どれも珍しい。月環街ではまず見ない品です」
ファルコは得意げだった。
彼は実際、良い目を持っていた。
本物と偽物を見分ける目ではない。売れるものと売れないものを見分ける目だ。古い護符が本当に恋を叶えるかどうかより、それを欲しがる人がいるかどうかを見ている。夢見の香がどんな夢を見せるかより、瓶の形が客の指を止めるかを知っている。
商人としては正しい。
だからこそ、満願堂とは少しずれていた。
満願堂の品は、欲しがる人に売るだけでは済まない。欲しがること自体が、品を育てるからだ。
「満願堂は願具を置く店だと聞きました。まとめて買いませんか」
モルがカウンターの上に上がり、小箱を一つずつ嗅いだ。
「からい」
「香辛料も混じってるからな」
ファルコは笑う。
「こっちは?」
「さびしい」
「いいね。そういうのを求める客もいるだろう」
モルは尻尾を揺らしたが、楽しそうではなかった。
リゼットは一つの小箱を開けた。中には、青い石が入っている。表面に細い傷があり、見ていると、忘れたいことが少し遠くなるような気がした。
「これは願具に近い品ですね」
「でしょう」
ファルコは身を乗り出す。
「値は相談に乗ります。まとめ買いなら安くしましょう」
「満願堂は、買い集める店ではございません」
声は穏やかだった。
ファルコは一瞬、意味が分からない顔をした。
「願具を売っているんでしょう」
「はい」
「なら、仕入れが必要では?」
「必要な品は、届きます」
「そんな商売がありますか」
「満願堂は、少し変わっておりますので」
ファルコは笑った。
「変わっている店ほど、珍しい品を欲しがるものです」
彼は次の箱を開けた。
中には、赤い糸で巻かれた指輪があった。
「これは縁を結ぶ指輪。未使用です。いい品ですよ」
モルがすぐに言った。
「ちがう」
「違う?」
「使ってる」
ファルコは眉を上げた。
「そんなはずはない。買った時からこの状態で」
リゼットが指輪を見た。
「どなたかが、手放したのでしょう」
「だから売り物になった」
「いいえ」
リゼットは首を横へ振る。
「売り物ではなく、納めるべき品かもしれません」
ファルコの表情が少し変わった。
「あなたは、ずいぶん物に肩入れする」
ファルコは言った。
「品は品でしょう。持ち主が手放し、私が買った。なら、私の荷だ」
「荷であることは間違いございません」
リゼットは穏やかに答える。
「ですが、行き先を間違える荷もございます」
「行き先を決めるのは商人です」
「時には、荷の方が先に知っていることもございます」
ファルコは鼻で笑った。
だが、指輪の赤い糸には触れなかった。
商人の顔だった。
「値をつけないつもりですか」
「納めるのであれば、代金の話ではございません」
「損な店だ」
「そう見えることもございます」
ファルコはしばらく黙った。
それから、荷の中から古い木箱を一つ出した。ほかの箱より丁寧に布で包まれている。
「これは、売るか迷っていた品です」
中には、小さな硝子瓶が入っていた。
瓶の中は空だった。蓋は閉まっている。だが、空の中に何かが揺れているように見える。
モルが一歩下がった。
「遠いにおい」
リゼットの目が少し深くなる。
「どこで手に入れられましたか」
「西の廃屋です。持ち主はもういない。現地の者は、願いを閉じ込める瓶だと言っていました」
「売るつもりでしたか」
「高く売れるなら」
ファルコは言い、すぐに肩をすくめた。
「商人ですから」
リゼットは瓶を見た。
「この瓶は、誰かの願いを閉じたまま遠くへ運ばれてきたのでしょう」
「開ければどうなる」
「分かりません」
「珍しいですね。あなたが分からないと言うのは」
「満願堂は、すべての願いを知っているわけではございません」
その言葉に、ファルコは初めて少し真面目な顔をした。
「では、どうする」
「納めるのであれば、満願堂でお預かりします」
「金は?」
「お支払いはできません」
「商売にならない」
「はい」
ファルコは瓶を見た。
長く旅をしてきた男の顔から、少しだけ笑みが落ちた。
「これを持ってから、眠りが浅い」
彼は言った。
「夢を見るんです。知らない家の廊下を歩く夢だ。奥で誰かが泣いている。何を願ったのかは分からない。でも、出してくれと言われている気がする」
「では、売るより先に、帰す方がよろしいでしょう」
「帰す、ね」
ファルコは息を吐いた。
「商人には向かない言葉だ」
それでも彼は、瓶を満願堂に置いていった。
ほかの護符や香や石は持ち帰った。リゼットは買わなかった。ファルコも、それ以上無理にはすすめなかった。
帰り際、彼は扉の前で振り返った。
「外にも、こういう品はある」
「ええ」
「あなたの店だけで納まりきるものではない」
「そうでしょうね」
リゼットは微笑んだ。
「それでも、ここへ帰るものはございます」
ファルコは少しだけ笑った。
「また珍しい品を見つけたら来ます」
「売りにではなく、納めにでしたら」
「厳しい店だ」
彼はそう言って出ていった。
店を出る時、ファルコは一度だけ看板を見上げた。
ティーポットと古書と小さな鍵。商人の目で見れば、悪い看板ではない。店名がないのは不便だが、覚えられやすいとも言える。
ただ、その鍵の意匠だけが気になった。
開けるための鍵ではないように見える。
見張るための鍵。
そんな言葉が浮かび、ファルコは肩をすくめた。
月環街は、商売だけでは量れないものが多すぎる。
だからこそ、また来ることになるだろうとも思った。
モルは瓶の前で丸くなった。
「遠い」
「ええ」
リゼットは黒布を用意する。
「月環街の外にも、願いはございますから」
瓶の中で、空のはずのものが一度だけ揺れた。
まるで、長い旅がようやく終わったことに気づいたようだった。
ファルコは、その日のうちに月環街を出なかった。
旅商人としては珍しいことだった。彼は一つの街に長く留まるのを好まない。留まれば、品の来歴を聞かれる。値の根拠を問われる。どこで買ったか、誰が手放したか、余計な話が増える。
だが、指輪のことが気になった。
帰りたい。
モルの言葉は短かったが、妙に耳に残った。
宿の部屋で荷を広げ、ファルコは指輪を買った時のことを思い出した。港町の古い市。雨の後の湿った木箱。指輪を売った女は、早く手放したがっていた。
「よく戻るんです」
女はそう言った。
「捨てても、売っても、朝には机にある」
その時、ファルコは良い売り文句だと思った。
なくしたものが戻る指輪。
そう言えば高く売れる。
だが、戻っていたのは何だったのか。
持ち主のところへ戻っていたのか。それとも、戻りたい場所を探していただけなのか。
翌日、ファルコは満願堂へ再び顔を出した。
「調べました」
彼は少し不機嫌そうに言った。
「まだ全部ではないが、あの指輪は北の港の家紋に似ている。たぶん、持ち主筋を辿れる」
「そうですか」
リゼットは静かに頷いた。
「満願堂で買い取る気は?」
「ございません」
「変わらないな」
「はい」
ファルコはため息をついた。
「なら、持って行く。売るためじゃない。戻るかどうか確かめるためだ」
モルがカウンターの上で尻尾を揺らした。
「ファルコ、ちょっと変わった」
「失礼だな」
「いいにおい、すこし」
ファルコは返事に困った。
リゼットは指輪を黒布から出した。指輪は昨日より少し落ち着いて見えた。ファルコが受け取ると、赤い糸が指に絡むように揺れた。
「満願堂は、買い集める店ではありません」
リゼットは言った。
「ええ、分かりましたよ」
「ですが、行き先を探す方のお手伝いはできます」
ファルコは指輪を懐へ入れた。
「商売にならない」
「そうかもしれません」
「だが、評判にはなるかもしれない」
彼は商人らしく笑った。
「帰りたい品を帰した商人、というのも悪くない」
その言葉が本心か、商売の計算か、リゼットには分からなかった。
けれど、どちらでもよかった。
品が行き先へ向かうなら、理由は一つでなくてもいい。
ファルコが出ていった後、モルは言った。
「また来る」
「ええ」
リゼットは表の棚を整えながら答えた。
「月環街の外にも、願いはございますから」
「外、広い?」
「とても」
モルは少し考えた。
「満願堂、全部は入らない」
「ええ」
リゼットは微笑んだ。
「だから、すべてを買い集めることはできないのです」
満願堂は、世界中の願具を集める場所ではない。
けれど、帰り道を求める品が扉の前に立ったなら、その時は開く。
ファルコの背中は、路地の向こうへ消えた。
彼の荷は、昨日より少しだけ軽そうだった。
ファルコが三度目に満願堂へ来た時、指輪はもう持っていなかった。
北の港町まで戻しに行ったという。詳しい話はしなかった。ただ、古い家の女主人が泣いたことと、指輪がその家の小さな祭壇の前でようやく動かなくなったことだけを話した。
「売れば高かった」
彼は未練がましく言った。
「でしょうね」
リゼットは紅茶を出した。
「だが、戻した話も高く売れる」
「お話を売るのですか」
「旅商人は品だけでなく話も運ぶ」
ファルコは胸を張る。
「帰りたい指輪を帰した話だ。悪くない」
モルが鼻を鳴らした。
「ファルコ、商売」
「当然だ」
「でも、におい、前よりいい」
「商売人に向かって、匂いで評価するな」
彼はそう言いながら、少し嬉しそうだった。
その日、ファルコは新しい品をいくつか持ってきた。
売り込みではなく、見てもらうためだと言う。
「これは危ないか。これはただの土産物か。あなたの店の基準を知っておきたい」
「基準は、品だけでは決まりません」
「持ち主も見るのだろう」
「はい」
「面倒だな」
「ええ」
リゼットは否定しなかった。
ファルコはため息をついたが、品をしまう手つきは以前より丁寧だった。
満願堂は買い集める店ではない。
けれど、月環街の外から来た客が、外へ戻る品の行き先を少し考えるようになることはある。
それもまた、満願堂の外へ伸びる細い道だった。
ファルコが帰った後、ロイが言った。
「満願堂に似た場所は、外にもあるんでしょうか」
リゼットは少し考えた。
「同じものはないでしょう。けれど、願いを納めようとする場所は、どこかにあるかもしれません」
「月環街だけではない」
「はい。人が願うところには、似たものが生まれることがございます」
その言葉は、ロイの頭に残った。
満願堂は唯一の場所なのか。
それとも、数ある行き先の一つなのか。
今はまだ分からない。
だが、旅商人の荷が外へ戻っていくのを見送った時、満願堂の扉が世界の端にあるわけではないことだけは分かった。
扉の外にも、願いは続いている。




