第三十七話 もう一度だけ会う切符
セルマは、弟に最後の言葉を言えなかった。
弟のマルクは、三年前に川で亡くなった。水に落ちた子どもを助けようとして、自分が戻らなかった。街では立派な青年だったと言われた。勇敢だったと言われた。家族は誇りでしょうと言われた。
セルマは、その言葉が嫌いだった。
立派でも、勇敢でも、戻ってこなければ意味がない。
最後に喧嘩をしたのは、その朝だった。つまらないことだった。弟が勝手に彼女の本を借り、表紙を濡らした。セルマは怒り、もう貸さないと言った。マルクは笑って謝り、帰ったら菓子を買うと言った。
帰らなかった。
だからセルマの中で、弟はいつまでも本を濡らしたままの青年だった。
周りは時間を進めた。
母は少しずつ泣く回数が減った。父は弟の話を避けなくなった。近所の人々は、マルクの名前を出す時に、以前ほど声を落とさなくなった。
セルマだけが、あの朝に取り残された。
濡れた本。弟の笑い方。怒鳴った自分の声。戸が閉まる音。
それらが、何度も何度も同じ順番で戻ってくる。悔やむというより、同じ朝を生き直し続けているようだった。
満願堂へ来た時、彼女は古い切符を握っていた。弟と一緒に行くはずだった劇場の切符だ。公演日は三年前。紙はもう色褪せている。
「もう一度だけ会えるものはありますか」
リゼットは表の棚から、小さな便箋を出した。
「届かない人へ手紙を書く便箋です。書くと、夢で少しだけ返事を聞けることがございます」
「夢ではなく、会いたいのです」
リゼットは静かに頷いた。
「奥の棚に、近い品がございます」
出されたのは、一枚の切符だった。
薄い灰色の紙に、行き先は書かれていない。日付もない。縁に小さな月環の模様だけがある。
「もう一度だけ会う切符です。魔願具にあたります」
「死んだ人にも?」
「会えるのは、過去に残ったその方です。死者を呼び戻すものではございません」
「代わりに、何を失いますか」
「会った時間のぶん、今の記憶が少し薄れることがございます」
セルマは切符を見た。
「今の記憶?」
「今日のこと。最近の出来事。あるいは、会いたい方がいない時間に得たもの」
「それでもいい」
彼女はすぐに言った。
セルマはもう一度だけ会う切符の代金を支払った。
リゼットは納願帳を開いた。
書く手は震えた。
マルクに、最後に謝りたい。
モルは切符の端を見た。
それから、少しだけ鼻を鳴らした。
「片道」
切符を使う夜、セルマは弟の古い上着を膝に置いた。
切符を握り、目を閉じる。
気づくと、彼女は三年前の朝の台所にいた。
窓の外は晴れている。鍋にはスープがあり、机の上には濡れた本がある。あまりに鮮やかで、セルマは息が詰まった。
「姉さん、そんなに怒るなよ」
声がした。
振り返ると、マルクがいた。
三年前と同じ顔。少し濡れた袖。悪びれたような笑い方。
セルマは何も言えなかった。
言いたいことは何年も考えていた。怒ってごめん。行かないで。菓子なんていらない。本なんてどうでもいい。生きて帰ってきて。
けれど、目の前にいる弟は、まだ死んでいない。
その人に、死なないでとは言えなかった。
「姉さん?」
マルクが近づく。
セルマは、ようやく言った。
「ごめん」
弟は目を丸くした。
「何が?」
「本のこと。怒って、ごめん」
「俺が悪いだろ」
マルクは笑った。
「帰りに菓子買ってくるから」
その言葉で、セルマは泣いた。
弟は困った顔をした。生きている時と同じように、不器用に肩を撫でる。
「そんなに大事な本だったのか」
「違う」
「じゃあ、何だよ」
セルマは首を横へ振った。
言えないことがある。
言ったところで、過去は変わらない。
だから彼女は、弟の手を握った。
「帰ったら、一緒に劇を見に行こう」
「いいよ。切符、まだあるんだろ」
「ある」
その瞬間、台所の光が遠くなった。
目を覚ますと、セルマは自分の部屋にいた。
膝の上の古い上着は変わらない。
手の中の切符は、半分ほど白くなっていた。
返りは、すぐに分かった。
薄れた記憶は、すべて大切ではないものに見えた。
隣人の名前。最近覚えた料理。友人と見た芝居の一場面。弟がいない時間に、自分が少しずつ得てきたもの。
どれも、マルクに比べれば小さい。
そう思おうとした。
だが、友人が訪ねてきて「この前の約束、覚えてる?」と聞いた時、セルマは答えられなかった。友人は笑ってごまかしたが、その顔に小さな傷がついたのを見た。
その傷は、マルクのせいではない。
自分が切符で払ったものだった。
翌朝、彼女は隣人の名前を思い出せなかった。最近借りた本の内容も曖昧だった。弟が死んだ後に親しくなった友人の顔が、少し薄い。
代わりに、三年前の台所だけが鮮やかだった。
セルマは満願堂へ切符を納めに来た。
「もう一度使えば、もっと話せるかもしれません」
彼女はそう言った。
「はい」
リゼットは否定しない。
「でも、今の私が薄くなるのですね」
「その可能性がございます」
セルマは切符を見る。
「弟に会えた時間は、本物でしたか」
「セルマさんにとっては」
「それで十分なのかもしれませんね」
切符は納められた。
リゼットは切符を包む前に、セルマへ一つだけ尋ねた。
「会えたことを、後悔されていますか」
セルマは首を横へ振った。
「いいえ」
答えは早かった。
「でも、もう一度使えば、会えたことまで欲張りになってしまいそうです」
会えなかった時間が一度埋まると、次の穴が見える。言えなかったことを一つ言えば、また別の言葉が残る。
人は、もう一度だけ、を何度も願う。
セルマはそれを少しだけ理解した。
薄い灰色の紙は、黒布の上で静かにしている。
モルが近づいた。
「もう会わない?」
「会いたいわ」
セルマは泣き笑いをした。
「でも、弟のいない三年にも、少しは私の時間があるみたいだから」
それを全部失うのは、弟に怒られそうだった。
満願堂を出たあと、セルマは劇場の前を通った。
三年前に行けなかった劇はもう終わっている。貼り紙も別のものになっている。
彼女は古い切符の半券を財布に戻した。
弟は帰ってこない。
けれど、あの朝の「いいよ」という声だけは、少しだけ今の彼女の中へ戻っていた。
切符を納めた後、セルマは家の中の小さな紙片を集め始めた。
忘れたくないことを書くためだった。
弟の声ではない。
弟に会った夢のことでもない。
隣人の名前。友人と交わした約束。最近覚えた料理。読んでいる途中の本の頁。マルクがいない三年の間に、自分が手に入れたもの。
最初は、そんなものを書き残すことに罪悪感があった。
弟のことではない記憶を守るのは、弟から離れることのように思えたからだ。
けれど、書いているうちに少しだけ分かった。
マルクに会えなかった三年は、空白ではなかった。
悲しみで曇っていても、友人が訪ねてきた日がある。母と夕食を作った日がある。父が弟の話をして、初めて少し笑った夜がある。
それらを失えば、マルクのいない時間を生きた自分まで薄くなる。
ある日、セルマは友人を誘って劇場へ行った。
三年前に弟と行くはずだった劇とは違う演目だった。席も違う。隣にいるのも弟ではない。
開演前、セルマは古い半券をそっと撫でた。
「弟さんと来たかった?」
友人が聞いた。
「来たかった」
セルマは正直に答えた。
「でも、今日はあなたと来たかった」
友人は少し驚き、それから笑った。
その笑顔を、セルマは忘れたくないと思った。
満願堂の奥の棚で、もう一度だけ会う切符は薄い灰色のまま眠っている。
モルは時々その前で鼻をひくつかせた。
「片道」
「ええ」
リゼットは答える。
「戻ってきたように見えても、同じ場所へは戻れませんから」
「でも、会えた」
「はい」
「それ、いい?」
リゼットは少し考えた。
「よい、だけではございません。けれど、悪いだけでもありません」
モルは首を傾けた。
「むずかしい」
「ええ」
切符は静かだった。
もう一度だけ、という願いは、月環街のどこにでもある。もう一度会いたい。もう一度言いたい。もう一度選び直したい。
だが、もう一度の向こう側にも、今は続いている。
セルマはそれを、まだ時々忘れそうになる。
そのたびに、紙へ書く。
今日、友人と劇を見た。
今日、母がマルクの好きだったスープを作った。
今日、古い本の水跡を見ても、少しだけ笑えた。
失われた人を思うことと、失われた後を生きることは、同じ胸の中に置ける。
その置き方を、セルマはまだ練習している。
春が近づく頃、セルマは川辺へ行った。
弟が亡くなった川だった。
家族は、しばらくそこへ近づかなかった。花を流す時でさえ、誰かに頼んだ。水音を聞くと、あの日の知らせが戻ってくるからだ。
セルマも避けていた。
けれど、切符を納めた後、いつか行かなければならないと思うようになった。
川は、思っていたより普通に流れていた。
冷たく、明るく、春の光を細かく返している。人が一人死んだ場所だからといって、水が暗くなるわけではない。そのことが腹立たしくもあり、少し救いでもあった。
セルマは川辺に立ち、弟へ言った。
「劇、見てきたわ」
返事はない。
夢の中なら、マルクは何か言っただろう。菓子は買ったか。泣いたのか。姉さんは相変わらず怒りっぽいな。そんなふうに笑ったかもしれない。
でも、川辺では声はしない。
その静けさを、セルマはしばらく聞いた。
何も聞こえない時間も、弟のいない今の時間だった。
帰りに、彼女は満願堂へ寄った。
「川へ行きました」
「そうでしたか」
リゼットは紅茶を置く。
「声は聞こえませんでした」
「はい」
「少し寂しかった。でも、声がしない方が正しい気もしました」
モルが足元で言った。
「セルマ、戻ってる」
「どこへ?」
「今」
セルマはその言葉に、少しだけ笑った。
今へ戻る。
それは、弟を置き去りにすることではない。切符で会った時間を嘘にすることでもない。
ただ、夢の停留所から、現在の道へもう一度足を置くことだった。
セルマは古い半券を財布にしまっている。
もう一度だけ会う切符は満願堂に納めたが、劇場の半券はまだ持っている。あれは魔願具ではない。ただの紙だ。
ただの紙でも、思い出は残る。
願具でなくても、人は何かを覚えていられる。
そのことを、セルマは少しずつ信じ直している。
満願堂を出る頃、外では春の雨が降り始めていた。
セルマは傘を持っていなかった。
以前なら、弟と見られなかった劇のことを思い、濡れた本のことを思い、立ち止まっていたかもしれない。
その日は、少しだけ急いで走った。
水たまりを避けながら、今の自分の足で。
それからセルマは、月に一度だけ満願堂へ来るようになった。
切符を求めるためではない。弟の話をするためでもない。ただ、紅茶を飲みながら、最近のことをひとつ話す。
今日は母が笑った。
今日は父が古い釣り竿を出した。
今日は友人と喧嘩をした。
どれも、マルクがいない時間の話だった。
最初は、そうした話をするたび胸が痛んだ。弟のいない日々を積み上げることが、弟を過去へ押し込めることのように感じた。
だが、リゼットはいつも同じように聞いた。
モルも時々、足元で「今」とだけ言った。
ある日、セルマは財布から古い劇場の半券を出し、満願堂のテーブルに置いた。
「これは、まだ納めません」
「はい」
「ただの紙だから」
「ええ」
「でも、ただの紙も、持っていていいんですね」
リゼットは微笑んだ。
「願具でなくとも、大切なものはございます」
その言葉で、セルマは少しだけ肩の力を抜いた。
何でも満願堂へ納める必要はない。
何でも願具で説明する必要もない。
弟と行けなかった劇の半券は、ただの半券として彼女の財布に残る。
その普通さが、今のセルマには大切だった。




