第三十六話 願具市
月環街の古道具市は、朝から人で溢れていた。
割れた陶器、古い燭台、欠けた額縁、誰かの名前が彫られた銀の匙。使い道の分かるものも、分からないものも、布の上に並べられる。古いものには、持ち主の癖が残る。オルスはそういう市が好きではなかったが、仕事にはなるので顔を出す。
「今日は満願堂へ持っていくものが多そうですね」
隣でココが言った。
「何でもかんでも持っていくな」
オルスは短く返す。
「でも、願具になりかけのものがあるかもしれません」
「だから見るんだろ」
さらに後ろで、ロイが小さな帳面を持っている。逓便局としての用ではないが、ヴェルナーに「目を慣らしてこい」と言われたらしい。納め物だけでなく、満願堂へ届く前の品を知っておくことも必要だという。
古道具市には、普通の物がほとんどだ。
普通の物にも、古い暮らしは染みている。
誰かが長く握った杖。子どもの背丈を刻んだ柱の板。もう使われない薬研。半分だけ残った刺繍糸。そういうものは、願具ではない。ただ、人が暮らした跡があるだけだ。
オルスは、その違いを大切にしていた。
何でも願具にしてしまえば、物を見誤る。古いものがすべて不思議なわけではない。壊れたものがすべて願いを持つわけでもない。
けれど、たまにある。
普通の物のふりをして、もう普通ではなくなっているものが。
しかし、普通の物ほど危うい時がある。
最初に見つけたのは、小さな櫛だった。
飾りはない。歯が一本欠けている。オルスは手に取り、すぐに戻した。
「これは普通だ」
「欠けてますよ」
ココが言う。
「欠けてるだけだ。何でもかんでも願具にするな」
次に、ロイが古い手袋の前で足を止めた。
「これは?」
白い手袋だった。指先が少し擦れている。近くに立つと、拍手のような音が遠くから聞こえた気がする。
オルスは眉を寄せる。
「触るな」
ロイは手を引っ込めた。
店主の老人が笑う。
「ただの古手袋だよ。昔、芸人が使っていたらしい」
「値は」
オルスが聞くと、老人は少し高めの額を言った。
「買うんですか?」
ココが耳を立てる。
「満願堂へ持っていく」
「やっぱり願具ですか」
「なりかけだ。まだ分からん」
ロイは手袋を見た。
拍手。
その音に、どこか聞き覚えがある気がした。満願堂の奥で聞いたことがあるような、ないような。
オルスは手袋を布に包み、工具袋とは別の袋へ入れた。
「こういうものは、売り物に置いておくと誰かが遊びで嵌める」
「嵌めたらどうなるんですか」
「拍手が欲しくなるかもしれん」
ココは少しだけ真面目な顔になった。
市の奥へ進むと、今度は小さな陶器の鳥があった。
その前に、ココは古い靴を見つけた。
片方だけの子ども靴だった。小さく、革は硬くなっている。ココが手に取ろうとすると、オルスが首を横へ振った。
「それは置いておけ」
「危ないんですか」
「違う。まだ誰かが探してる」
「じゃあ、満願堂へ」
「探しているなら、まず市の店主に聞く。何でも満願堂じゃない」
ココは少し恥ずかしそうに耳を倒した。
願いがあるからといって、すぐ納めるとは限らない。
そのことも、この市では学ぶ必要があった。
羽の先が欠けている。腹の中に何か入っているのか、動かすとからからと鳴る。
ココが覗き込んだ瞬間、鳥のくちばしが少しだけ動いたように見えた。
「今、動きました?」
「見間違いだ」
オルスはそう言いながら、鳥を手に取った。
冷たい。
けれど、中にほんの少し熱がある。
「これは?」
ロイが聞く。
「帰りたがってる」
「どこへですか」
「俺に聞くな」
オルスは鳥も買った。
さらに、市の端で、小さな鏡を見つけた。
曇っていて顔は映らない。けれど近づくと、鏡の奥に別の顔が一瞬だけ見える。
ココは思わず後ずさった。
「これは、さすがに満願堂ですよね」
オルスは鏡を見た。
「いや、これは違う」
「違うんですか」
「ただの嫌な鏡だ」
「ただの嫌な鏡って何ですか」
「買わなきゃいいものだ」
ロイは少し笑いそうになったが、オルスの顔が真面目だったのでやめた。
満願堂へ持ち込んだのは、手袋と陶器の鳥、それから市の最後に見つけた細い銅の鍵だった。
三人が満願堂へ向かう途中、ロイは何度か袋を見た。
自分たちは、荷物を運んでいるのか、願いを拾っているのか。
逓便局の仕事なら、行き先は伝票に書いてある。だが、市で見つけた品には伝票がない。差出人も、受取人も、時には持ち主さえ分からない。
それでも、満願堂へ向かう道だけは分かる。
ロイはそれを少し不思議に思った。
鍵は、どの箱にも合わなかった。店主は飾りだと言ったが、モルが見た瞬間、耳を立てた。
「ちがう鍵」
「違う?」
ココが聞く。
「開けない鍵」
リゼットは三つの品を一つずつ見た。
手袋は、表の棚でしばらく休ませることになった。まだ強く願いを覚えてはいない。ただ、拍手を欲しがる人の手に渡れば、育つかもしれない。
陶器の鳥は、奥の棚へ。
「帰りたい願いが残っています」
リゼットはそう言った。
「持ち主を探しますか」
ロイが聞くと、リゼットは首を横へ振った。
「帰りたい場所が、人の家とは限りません」
最後に鍵。
リゼットはそれを長く見た。
モルも静かだった。
「これは満願堂のものですか」
ココが尋ねる。
「いいえ」
リゼットは答える。
「ですが、満願堂に似た場所を知っている鍵かもしれません」
その言葉に、ロイは少し背筋を伸ばした。
満願堂に似た場所。
願いは、この街だけにあるわけではない。
だから願具も、満願堂の棚だけで生まれるわけではない。
オルスは工具袋を置き、ため息をついた。
「市へ行くだけで、面倒が増える」
「でも、見つかってよかったですね」
ココが言う。
「見つからなければ、誰かが買っていた」
「そうだな」
オルスは手袋の包みを見る。
「道具は、使う人間を選べない。だから面倒なんだ」
リゼットは微笑んだ。
「ですから、見つける人も必要なのです」
オルスは鼻を鳴らした。
「褒めても何も出ないぞ」
モルが工具袋に鼻を近づける。
「はさむやつ、ある?」
「今日はない」
「つまらない」
古道具市で見つかった三つの品は、それぞれ違う棚へ納められた。
外にも願いは落ちている。
拾われるのを待つものも、間違った手に渡るものもある。
満願堂の扉は、その全部を集めるために開いているわけではない。
けれど、帰り道を見つけた品だけは、今日も静かに棚の中へ入っていく。
翌月の古道具市にも、三人は顔を出した。
今度はココが小さな札を作ってきた。
「願具らしき品、要確認」
「そんな札を勝手に貼るな」
オルスは即座に言った。
「分かりやすいと思ったんですけど」
「分かりやすいのが一番危ない。面白がって人が集まる」
ココは耳を倒した。
ロイは横で少し笑った。
「局でも同じです。納め物を特別便みたいに見せすぎると、覗きたがる者が出ます」
「ほら見ろ」
オルスは得意げではなく、面倒そうに言った。
その日、願具になりかけの品はほとんどなかった。
古い釦、錆びた鍵、割れた皿、動かない時計。どれも暮らしの跡はあるが、願いとしては静かだった。
ココは少し拍子抜けした顔をした。
「毎回あるわけじゃないんですね」
「当たり前だ」
オルスは古い椅子の脚を見ながら答える。
「願いがそんなにごろごろ転がってたら、街はもっと面倒なことになってる」
「もう十分面倒な気もします」
「それは満願堂に関わったせいだ」
ロイは市の人々を見た。
古い皿を値切る婦人。壊れた玩具を欲しがる子ども。使えるか分からない燭台を買う若者。そこには、願具ではない願いがいくつもあった。
安く買いたい。
子どもを喜ばせたい。
古いものを飾りたい。
そのほとんどは、品に宿らないまま人の中で過ぎていく。
それでいいのだろう。
すべての願いが物になるわけではない。
満願堂へ戻ると、前回の陶器の鳥は奥の棚で静かにしていた。
モルが言う。
「まだ、帰りたい」
「帰る場所は分かったんですか」
ココが尋ねる。
リゼットは首を横へ振った。
「まだです」
「じゃあ、ずっとここに?」
「分かるまで」
その答えは、短いのに満願堂らしかった。
オルスは手袋の置かれた棚を見る。
「前の手袋は」
「表には出しておりません。拍手に近い願いの方が来られた時だけ、お見せするかもしれません」
「厄介だな」
「はい」
リゼットは微笑む。
「でも、見つけていただけて助かりました」
オルスは鼻を鳴らした。
「俺は拾い屋じゃない」
「ええ。直す方です」
「最近は、直す前に持ってくる方が増えた」
「それも、見極めのうちでは」
オルスは答えなかった。
ただ、工具袋の留め具を少し強く閉めた。
その横で、ココがロイに小声で言う。
「僕たちも、見極めの練習ですね」
「そうだな」
「黒い紐がなくても」
「納め物になる前のものもある」
ロイはそう答えながら、表の棚、奥の棚、そして黒鉄の扉の方を順に見た。
満願堂は、届いた願いを受け取る場所だ。
けれど、その手前で誰かが気づくこともある。
逓便局の仕事ではないかもしれない。
それでも、道を間違えそうな品を見つけた時、見なかったことにはできないだろう。
外にも願いは生まれる。
そして、満願堂へ続く道は、伝票の上だけにあるわけではない。
願具市という名前は、ココが勝手につけたものだった。
「古道具市です」
オルスは何度も訂正した。
「でも、願具も見つかりました」
「だからって市の名前を変えるな」
「心の中で呼ぶだけです」
「それもやめろ」
ロイは横で帳面を開き、見つかった品の特徴を書き留めていた。ヴェルナーに報告するためではあるが、半分は自分のためでもあった。
白い手袋。拍手に似た気配。
陶器の鳥。帰りたい願い。
銅の鍵。開けないための鍵。
記録にすると、どれも確かなもののように見える。だが実際に市で見た時、それらは普通の品に紛れていた。少し古いだけ、少し傷んでいるだけ、少し妙なだけ。
その「少し」を見落とせば、誰かの手に渡る。
「見極めは難しいですね」
ロイが言うと、オルスは短く答えた。
「難しいと思ってるうちは、まだましだ」
「簡単だと思ったら?」
「だいたい壊す」
それは職人の言葉でもあり、満願堂に関わる者への忠告でもあった。
数日後、市で見つけた陶器の鳥について、小さな手がかりが届いた。
古い人形芝居の一座が使っていた飾りらしい。舞台の上で鳴く役目を持っていたが、火事の後に行方が分からなくなったという。
リゼットはその話を聞き、鳥の置かれた棚を見た。
「帰りたい場所は、舞台だったのかもしれませんね」
「戻すんですか」
ココが聞く。
「一座が今もあるなら」
「なければ?」
「その時は、別の帰り方を探します」
帰るとは、元の場所へ戻ることだけではない。
その言葉は、ロイの中に残った。
満願堂には、元に戻れない願いが多い。壊れたもの、仕上がったもの、持ち主を失ったもの。それでも、行き先はある。
古道具市の品々も同じだった。
誰かの家へ戻るものもある。
満願堂へ納められるものもある。
ただの物として、次の持ち主に使われるものもある。
全部を不思議にしないこと。
全部をただの物にしないこと。
その間を見極めるのが、これからの三人の仕事になっていくのだろう。
オルスはそう言われれば嫌な顔をするに違いない。
だが、翌月の市の日を、彼は誰よりも先に覚えていた。




