第三十五話 願いを食べる皿
その納め物が届いた日、モルはカウンターの下へ隠れた。
ロイとココが一緒に持ってきた箱だった。黒い紐。暗い赤の封蝋。月環と扉と閉じた目の紋章。納め札には、持ち主の名がかすれている。
「納め物です」
ココの声はいつもより少し低かった。
ロイも箱を傾けないよう、両手で支えている。
リゼットは箱を見た。
「ありがとうございます」
いつものように受け取ろうとした時、モルが短く鳴いた。
「いや」
店内が静かになった。
ココは、無意識に箱から少し離れた。
納め物を怖いと思うことはあまりない。怖い品でも、満願堂へ届ければいい。リゼットが受け取り、モルが匂いを嗅ぎ、しかるべき棚へ行く。その流れを、ココは何度も見てきた。
だが、モルが嫌がると、急に道が見えなくなった気がした。
ロイも同じだった。
納め物は届けるものだ。覗くものではない。欲しがるものでもない。ヴェルナーの言葉を思い出しながら、それでも目の前の箱から視線を外せなかった。
モルが納め物を嫌がることは珍しい。納め物は、モルにとって「いいにおい」のものが多い。怖い品でも、悲しい品でも、帰ってきた願いであるなら、モルは鼻を寄せる。
だが、その箱には近づかなかった。
「モル?」
リゼットが声をかける。
「たべる」
「何をですか」
「願い」
ロイの手がわずかに強張った。
ココの耳も伏せられる。
リゼットは箱をカウンターに置き、封蝋を確認した。
「開けましょう」
黒い紐をほどく。蓋を開ける。
中に入っていたのは、白い皿だった。
特別な装飾はない。丸く、薄く、少し古い。食卓で使われていても不思議ではない皿だ。だが、皿の中央だけが妙に白かった。光を反射しているのではない。そこだけ何もなかった。
「願いを食べる皿ですね」
リゼットが静かに言った。
「そんな願具があるんですか」
ロイが聞いた。
「ございます。ただし、満願堂の棚には置きません」
「願いを叶える店なのに?」
ココが言うと、リゼットは皿を見たまま答えた。
「満願堂は、願いを叶えるだけの店ではございません。けれど、願いをなかったことにする品は、扱いが難しいのです」
皿の来歴は、箱の底に入っていた短い手紙で分かった。
持ち主は、ある家の老婦人だった。家族の争いに疲れ、誰も何も望まなくなれば静かになると思った。最初は自分の不満を皿に乗せた。次に、息子の怒り。娘の悲しみ。孫の欲しがる心。
皿はよく食べた。
食べられた願いは、小さくなる。欲しいと言わなくなる。怒らなくなる。泣かなくなる。家は静かになった。
静かすぎるほどに。
手紙には、さらにこう書かれていた。
最初に皿へ乗せたのは、自分の苛立ちだったという。息子の声が大きいこと。娘が泣くこと。孫が同じ菓子を何度も欲しがること。それらを皿へ置くと、少し静かになった。
次の日、息子が怒らなくなった。
その次の日、娘が泣かなくなった。
さらにその次の日、孫が菓子を欲しがらなくなった。
老婦人は、最初それを平和だと思った。
けれど、誰も何かを欲しがらない食卓には、匙の音だけが残った。
誰も喧嘩をしなくなりました。けれど、誰も朝に何を食べたいか言わなくなりました。この家は、平和なのでしょうか。
ココは手紙を読み終え、皿を見た。
「これ、怖いです」
「ええ」
リゼットは頷いた。
モルはまだカウンターの下にいる。
「モルさん、大丈夫ですか」
ココが覗き込むと、モルは少しだけ顔を出した。
「近いと、すかすか」
「すかすか?」
「おなかじゃない。願い」
ロイは皿を見つめた。
白い皿。
何かを食べるための器。
それが、人の願いを食べる。
「これは、壊すんですか」
「いいえ」
リゼットはすぐに答えた。
「壊しても、食べられた願いが戻るわけではございません。それに、この皿にも行き着く場所は必要です」
「奥ですか」
「奥の部屋ではありません。けれど、表にも奥の棚にも置けません」
リゼットは黒布を二重に用意し、皿を包んだ。皿が布に触れた瞬間、店内の空気が少し戻ったように感じた。
モルがようやく出てきた。
「布、ある」
「ええ」
「これ、見えない方がいい」
「そうですね」
その日、満願堂では少しだけ不思議なことが起きた。
表の棚の願具たちが、いつもより静かだった。晴れ乞いの人形は窓の方を向かず、静読の栞は本の間でじっとしている。小さな喝采の鈴も鳴らない。
願いを食べる皿が近くにあるだけで、願具たちは息を潜めるようだった。
夕方、エリアスが来た。
いつもの席へ座り、いつもの紅茶を頼む。リゼットがいつものようにカップを置くと、エリアスは奥の方を見た。
「今日は、少し静かね」
「納め物がございました」
「そう」
エリアスはカップを持つ。
「願いが静かになると、楽な人もいるわね」
「はい」
「でも、静かすぎると、本をめくる理由もなくなるかもしれないわ」
リゼットは少しだけ目を細めた。
「ええ」
願いを食べる皿は、その夜、黒鉄の扉とは別の奥まった戸棚へ納められた。
戸棚には、ほかにも少し変わった品があった。
使う者の怒りを冷ます石。泣き声を吸う布。眠る前の不安を薄める砂時計。どれも救いになることがある。だが、近づきすぎると、人の輪郭を淡くしてしまう。
リゼットは皿をその奥へ置いた。
「願いが強すぎることも、苦しみになります」
彼女は小さく言う。
「けれど、願いが何もないことも、また苦しいのでしょう」
モルは棚の前で丸くなりながら、目だけを開けていた。
「ここ、すかすか」
「ええ。だから、見張っていてください」
「見るの、いや」
「では、近くにいてください」
「それなら、できる」
満願具ではない。願いを仕上げる品ではないからだ。だが、普通の願具たちのそばに置くには、あまりに空白が濃すぎた。
モルは戸棚の前でしばらく丸くなった。
「見てるのか」
ロイが聞くと、モルは首を横へ振った。
「見ないようにしてる」
「それも仕事なのか」
「たぶん」
リゼットは灯りを落としながら言った。
「願いを守るには、叶えることだけでなく、食べられないようにすることも必要なのかもしれません」
皿は何も言わない。
ただ、黒布の下で静かにしている。
その静けさは、穏やかではなかった。
翌日、リゼットは皿の手紙をもう一度読んだ。
手紙の主である老婦人は、最後に自分の願いも皿へ置いたらしい。
家族を静かにしたい。
争いを終わらせたい。
その願いを置いた時、老婦人は初めて、自分が何を望んでいたのか分からなくなったという。
だから、皿を送った。
自分が何を望んでいたのか分からないままでも、この皿だけは誰かに食べられない場所へ置いてほしい、と。
リゼットは手紙を畳んだ。
願いは、時に人を苦しめる。
願いがあるから争う。願いがあるから妬む。願いがあるから失望する。なら、願いなどない方が楽ではないか。そう考える人を、リゼットは責められなかった。
けれど、願いがなくなった後の静けさは、満願堂の静けさとは違う。
満願堂は静かだ。
だが、願いが眠っている。棚の奥、黒布の下、納願帳の頁の中に、誰かが何かを望んだ気配がある。
願いを食べる皿の静けさには、それがない。
モルはその日も戸棚の前へ行った。
「まだ、すかすか」
「近づきすぎないでくださいね」
「うん」
「怖いですか」
モルは少し考えた。
「こわい、ちがう」
「では?」
「さみしい、でもない。ない」
ない。
その言葉は、リゼットの胸に小さく残った。
昼過ぎ、エリアスがいつもの席で本を閉じた。
「願いがない人は、どうなるのかしら」
「深い願いがない方なら、普通に暮らしていらっしゃいます」
リゼットは答えた。
「でも、何も欲しくない人は?」
「何も欲しくないことを望んでいる場合もございます」
エリアスは静かに微笑んだ。
「言葉は難しいわね」
「ええ」
「私は変わらないことを望んだわ。けれど、紅茶は欲しい。本も欲しい。いつもの席も」
彼女はカップを撫でる。
「願いが全部なくなったら、きっとここへ来ないわね」
その言葉で、リゼットは戸棚の皿を思った。
誰も来ない店。
誰も欲しがらない棚。
誰も納めたいものを持たない満願堂。
それは、平和なのだろうか。
夕方、ロイが再び顔を出した。普通便はない。休憩の合間に通りかかっただけだと言った。
「皿は、落ち着きましたか」
「ええ。今は戸棚で休んでいます」
「願いを食べる品も、納めるんですね」
「はい。願いをなくしたいという願いも、願いですから」
ロイはしばらく黙った。
「難しいですね」
「ええ」
「でも、壊さない方がいい気がします」
「なぜですか」
「壊したら、願いをなかったことにしたい気持ちまで、なかったことにするみたいです」
リゼットは少しだけロイを見た。
「そうですね」
彼の言葉は、リゼットの中で静かに残った。
願いを叶えることだけが満願堂ではない。
願いを守ることだけでもない。
願いたくない夜、願うことに疲れた人、その疲れまで、どこかへ置く場所が必要なのかもしれない。
戸棚の中で、白い皿は何も言わない。
何も言わないからこそ、満願堂はその前に黒布を掛けておく。
誰かがうっかり、自分の明日まで食べさせてしまわないように。
数日後、皿の持ち主だった老婦人の家から、もう一通手紙が届いた。
差出人は、老婦人の娘だった。
母は、静かな家が欲しかったのだと思います。
私たちはよく喧嘩をしました。兄は家業を継ぎたくないと言い、私は遠くへ行きたいと言い、子どもは毎日何かを欲しがりました。母はその全部を疲れた顔で聞いていました。
皿を使ってから、家は静かになりました。
兄は何も言わず店に立つようになりました。私は遠くの街の話をしなくなりました。子どもは菓子をねだらなくなりました。
平和でした。
でも、母が泣いたのです。
誰も何も言わない食卓で、母だけが泣いていました。
手紙の文字はそこで少し乱れていた。
リゼットは続きを読んだ。
母は、私たちの願いがうるさかったのではなく、私たちの願いに答えられないことが苦しかったのかもしれません。
皿を送ります。
母は、もう使いたくないと言いました。
でも、願ってしまうことも、まだ怖いそうです。
リゼットは手紙を畳み、皿の納められた戸棚へ向かった。
モルがついてくる。
「戻る?」
「何がですか」
「願い」
「すぐには戻りません」
「じゃあ、どうする?」
「また願えるまで、待つのでしょう」
戸棚の中で、皿は黒布の下にある。
願いを食べた皿。
けれど、手紙を読んだ後では、その皿もまた誰かの疲れを受け止めようとした器に見えた。危うい。けれど、ただ悪いだけではない。
リゼットは皿の横へ娘の手紙を置いた。
「これも一緒に?」
モルが聞く。
「ええ。皿だけでは、行き着く場所が足りませんから」
願いを食べる皿は、家族の願いを食べた。
だが、その後に残った後悔や、また願うことへの怖さまでは食べきれなかった。
だから手紙が来た。
満願堂へ届いたのは、皿だけではなく、静かになりすぎた家の息遣いでもあった。
その日の閉店後、リゼットは表の棚を少し長く整えた。
小さな晴れ乞いの人形。
探し物の栞。
勇気が出るボタン。
眠りやすくなる香草。
どれも、願いを少しだけ手伝う品だった。
願いが強すぎれば人を傷つける。
願いがなければ、人は遠くなる。
満願堂は、その間にある。
叶える店でも、消す店でもない。
行き着く場所を作る店。
リゼットはその言葉をまだ自分のものとして意識していなかった。
けれど、皿の置かれた戸棚の前で、モルが小さく言った。
「リゼット、食べさせない人」
「そうでしょうか」
「うん。願い、食べない。置く」
その言葉は、のちにリゼット自身へ返ってくる。
今はまだ、ただ静かな夜の中に落ちただけだった。
さらに一週間後、皿の家の孫から小さな絵が届いた。
皿に食べられた願いが、少しずつ戻っているのかもしれない、と娘の手紙にはあった。子どもはまた菓子を欲しがった。最初は家族全員が固まったという。泣かれ、ねだられ、騒がれて、面倒で、少し腹も立った。
けれど、その日の食卓には久しぶりに会話があった。
兄はまだ家業を継ぐと言っている。けれど、たまに遠くの仕事の話をするようになった。娘は遠くへ行くかどうかを決めていない。ただ、行きたいと言っても家が壊れるわけではないと知った。
老婦人は、まだ皿を思い出して震えることがあるらしい。
それでも、孫が菓子を欲しがって泣いた時、少しだけ笑ったという。
リゼットは絵を戸棚の内側へ貼った。
子どもの拙い絵だった。丸い皿と、菓子と、たぶん家族らしい棒のような人々が描かれている。皿は白く塗られていたが、その周りには小さな色がいくつもあった。
「これも納める?」
モルが聞く。
「ええ。皿が食べきれなかったものですから」
「色?」
「願いかもしれません」
モルは絵を見て、少しだけ戸棚へ近づいた。
「すかすか、ちょっと少ない」
リゼットは頷いた。
皿は相変わらず危うい。
けれど、その周りに手紙や絵が置かれることで、ただの空白ではなくなっていく。
願いを食べた品にも、食べきれなかったものが残る。
その残りを集めることもまた、満願堂の仕事だった。




