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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第二章 奥の棚に眠るもの

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第三十四話 ロイの休日

ロイは、休日の朝から制服を見ていた。


着ないと決めているのに、椅子の背に掛けた制服が目に入る。逓便局員として満願堂へ行くなら簡単だ。荷物を持ち、伝票を確認し、扉を開ける。用件があれば声は出る。


だが、客として行くとなると話は別だった。


休日。私服。届け物なし。納め物なし。


つまり、ただリゼットに会いに行くことになる。


「違う」


ロイは誰にともなく言った。


「紅茶を飲みに行くんだ」


そう言い直しても、胸の落ち着かなさは変わらなかった。


満願堂の扉の前で、彼は一度立ち止まった。


文字のない看板。ティーポットと古書と小さな鍵。いつも配達の途中に見るものなのに、今日は少し遠く感じる。


扉を開けると、鈴が鳴った。


「いらっしゃいませ」


リゼットの声だった。


それだけで、ロイは姿勢を正してしまった。


「こんにちは、ロイさん」


「こんにちは」


声が硬い。


自分でも分かった。


カウンターの上で、モルが顔を上げる。


「ロイ、仕事じゃない」


「今日は休みです」


「じゃあ、おきゃくさま」


「そうだ」


「かたい」


「……そうか」


リゼットは微笑んだ。


「お好きなお席へどうぞ」


ロイはいつも配達時に立つカウンター前ではなく、少し離れた席に座った。そこからはリゼットの手元が見える。茶葉を量り、湯を注ぎ、カップを温める動き。仕事として何度も見ているはずなのに、客席から見ると違った。


自分のために紅茶が用意されている。


ロイは、仕事の時には気づかなかったことにいくつも気づいた。


窓際の席には、時間によってステンドグラスの色が違って落ちる。古書の棚には、客が戻しやすいよう背の低い本が下段に集められている。焼き菓子の皿は、誰が取りやすいようにか、カウンターの端から少しだけ内側に置かれている。


満願堂は古く、不思議で、時々怖い。


けれど同時に、誰かが座りやすいように整えられた店でもあった。


その誰かの中に、今日は自分も入っている。


そう思うと、胸の奥が少し落ち着かなかった。


紅茶が置かれた。


「こちらは、渋みの少ないものです」


「ありがとうございます」


カップを持つ手に力が入りすぎた。


モルが足元に来た。


「ロイ、飲む?」


「飲む」


「こぼす?」


「こぼさない」


「なら、いい」


ロイは紅茶を飲んだ。


香りが胸の奥へ入る。配達の途中で嗅ぐ香りとは違う。あの時は、用件を終えたらすぐ出ていく。今日は、座っていていい。


それだけで、満願堂が少し広く見えた。


表の棚には、小さな願具が並んでいる。


晴れ乞いの人形。静読の栞。小さな喝采の鈴。見覚えのある品もあれば、初めて気づく品もある。


その中に、小さな黒いボタンがあった。


「気になりますか」


リゼットが声をかけた。


ロイは少し慌てた。


「いえ。ただ、これは何かと」


「勇気が出るボタンです」


「勇気」


「服の内側へ縫いつけると、一度だけ言い出しにくいことを言いやすくなります。表の棚の願具です」


「返りは?」


「その後、少し恥ずかしさが強く戻ることがございます」


モルがボタンの方を見た。


「ロイ、いる?」


「いらない」


返事が早すぎた。


リゼットが小さく笑ったような気がして、ロイはカップを見る。


欲しい。


言いたいことがあると気づくと、言葉はますます出なくなる。


配達なら言える。受け取りをお願いします。こちらに署名を。納め物です。そういう言葉は、逓便局員として用意されている。


けれど、リゼットと話したいです、とは言えない。


紅茶を飲みに来ました、はまだ言える。


あなたに会えると思ったので、とは言えない。


ロイはカップの中の紅茶を見る。自分の顔が少し揺れて映った。勇気が出るボタンがあれば、この揺れも少し止まるのだろうか。


止まってしまったら、困る気もした。


少しだけ、そう思った。


言いたいことがある。リゼットと普通に話したい。配達員としてではなく、客として来たのだと言いたい。紅茶がおいしいと、きちんと言いたい。それだけのことが、なぜか難しい。


だが、ボタンを買えば言えるというのは、少し違う気がした。


願具は、願いを手伝う。


そのことは分かっている。


けれど今のこれは、手伝われたら困る願いだった。


ロイは首を横へ振った。


「今日は紅茶だけで」


「かしこまりました」


リゼットはそれ以上すすめなかった。


その沈黙に、ロイは少し救われた。


しばらくして、ココが配達に来た。


その前に、エリアスがいつもの席からロイを見た。


「今日は、お仕事ではないのね」


「はい」


「休日に満願堂へ来るのは、少し勇気がいる?」


ロイは返事に詰まった。


エリアスは静かに微笑む。


「私も、最初はいつもの席に座るまで時間がかかったわ」


「エリアスさんでもですか」


「ええ。いつものものは、最初からいつものものだったわけではないもの」


その言葉は不思議と胸に残った。


今日の自分の席も、何度か来れば、少しは硬くなくなるのかもしれない。


「逓便局です、お届け物です!」


扉を開けた瞬間、ココの耳がぴんと立った。


「ロイさん?」


「休日だ」


「満願堂に?」


「紅茶を飲みに来た」


「へえ」


「何だ」


「いえ。へえ」


ココは楽しそうだった。


モルが受け取り印を押す。ココはいつものように頭を撫でる。リゼットが荷物を受け取る。その流れを、ロイは客席から見た。


いつも自分が立っている場所を、今日は少し外から見る。


不思議な気持ちだった。


満願堂は、配達先でもある。


納め物の行き先でもある。


古書茶房でもある。


そして、誰かがただ紅茶を飲む場所でもある。


ロイは、その全部をまだうまく重ねられなかった。


ココが帰った後、リゼットがカップへ少しだけ紅茶を足した。


「おかわりです」


「ありがとうございます」


言ってから、ロイは少しだけ息を整えた。


「紅茶、おいしいです」


それだけの言葉だった。


勇気が出るボタンは使っていない。


リゼットは静かに微笑んだ。


「ありがとうございます」


ロイは顔が熱くなるのを感じた。


返りもないのに、恥ずかしさは十分戻ってきた。


夕方、店を出る時、モルが言った。


「ロイ、また来る?」


「仕事でなら」


「おきゃくさまは?」


ロイは少し考えた。


「紅茶が飲みたくなったら」


「それ、また来る」


「そうかもしれない」


満願堂の外へ出ると、空は薄く曇っていた。


ロイは制服を着ていない自分の袖を見た。配達鞄もない。納め物もない。


それでも、満願堂へ行って帰ってこられた。


それは小さなことだった。


だが、勇気が出るボタンを買わずに済んだことを、彼は少しだけ誇らしく思った。


翌日、ロイは制服に袖を通しながら、昨日の自分を思い出した。


客席に座るだけで、どうしてあんなに緊張したのか。紅茶がおいしいと言うだけで、なぜあれほど胸が跳ねたのか。考えるほど、顔が熱くなる。


逓便局へ行くと、ココがすぐに気づいた。


「ロイさん、昨日より顔が仕事です」


「仕事だからな」


「休日の顔もありましたよ」


「忘れろ」


「もったいないです」


ココは笑った。


ロイは伝票を整えながら、表の棚にあった勇気が出るボタンを思い出す。買わなかったことを後悔しているわけではない。むしろ、買わなかったから昨日の言葉は自分のものだと思えた。


紅茶がおいしい。


たったそれだけの言葉でも、自分で言えたことに意味があった。


午前の仕分けが終わる頃、ヴェルナーがロイを呼んだ。


「昨日、満願堂へ行ったそうだな」


ロイは背筋を伸ばした。


「はい。休日に、客として」


「何か買ったか」


「紅茶だけです」


ヴェルナーはしばらくロイを見た。


「ならいい」


「願具を買うな、という意味ですか」


「必要なら買うこともあるだろう」


意外な答えだった。


ヴェルナーは書類へ視線を戻す。


「だが、必要と憧れを間違えるな」


ロイは何も言えなかった。


憧れ。


その言葉は、リゼットへの気持ちにも、満願堂そのものへの感情にも触れていた。


「満願堂は、近づいた者にだけ奥を見せることがある」


ヴェルナーは続ける。


「だが、奥が見えたからといって、自分のものになるわけではない」


「はい」


「客として行くのは構わん。だが、客である時ほど、余計なものに触れるな」


それは警告だった。


同時に、許可でもあった。


ロイは小さく頭を下げた。


その日の午後、彼は満願堂へ普通便を届けた。


仕事の顔で扉を開ける。


「逓便局です。お届け物です」


リゼットはいつものように迎えた。


「ありがとうございます、ロイさん」


昨日と同じ声。


けれど、ロイの中では少しだけ違って聞こえた。


客としての一日が挟まったからだ。


モルがカウンターの上で言う。


「ロイ、今日は仕事」


「ああ」


「でも、ちょっとおきゃくさま」


「混ぜるな」


「混ざってる」


ロイは返事に困った。


リゼットが受け取り帳に署名する。ロイはその手元を見すぎないように視線を落とした。


表の棚には、昨日の勇気が出るボタンがまだある。


今日は買わない。


きっと、しばらく買わない。


それでも、その品が棚にあることは覚えておこうと思った。


言えない言葉が、いつか本当に必要になった時のために。


満願堂を出ると、ココが路地の角で待っていた。


「どうでした?」


「普通便を届けた」


「それだけですか」


「それだけだ」


「でも、昨日より声が少し柔らかいです」


ロイは顔をしかめた。


「気のせいだ」


「モルさんなら、いいにおいって言うかもしれません」


「やめろ」


ココは笑って走り出した。


ロイは満願堂の看板を一度だけ振り返る。


休日に開けた扉と、仕事で開ける扉は同じだった。


同じなのに、少し違う。


その違いを、彼はまだ言葉にできなかった。


ロイの二度目の休日客は、一度目より少しだけましだった。


扉の前で立ち止まった時間が短くなった。席も前と同じ場所を選べた。紅茶を頼む声も、少しだけ硬さが減った。


モルはすぐに気づいた。


「ロイ、前より座ってる」


「座るくらい誰でもできる」


「前は、座ってるけど、立ってた」


「どういう意味だ」


モルは説明しなかった。


リゼットは笑いをこらえるように、茶器を並べていた。


その日、ロイは勇気が出るボタンではなく、古書を一冊手に取った。月環街の古い地誌だった。路地の名前、橋の由来、逓便局が今の場所へ移る前の記録。そこに、満願堂の名前はほとんど出てこない。ただ一箇所だけ、月環の堂という言葉が脚注のように残っていた。


ロイはその頁を見つめた。


聞きたい。


だが、すぐには聞かなかった。


勇気が出るボタンを買わなかった日から、彼は少しだけ、言葉を選ぶことも勇気なのだと思うようになっていた。


「その本は、古い地誌ですね」


リゼットが声をかける。


「はい」


「気になる頁がございましたか」


ロイは迷い、そして本を閉じた。


「今日は、紅茶を飲みに来ました」


リゼットは少しだけ目を細めた。


「そうでしたね」


それで会話は終わった。


けれど、ロイにはそれで十分だった。


満願堂のすべてを今すぐ知りたいわけではない。知りたい気持ちはある。けれど、知るために来る日と、ただ紅茶を飲むために来る日は、分けてもいい。


夕方、エリアスが言った。


「いつもの席は、いつの間にかできるものね」


「俺の席ではありません」


「今はまだ」


エリアスは微笑む。


ロイは返事に困った。


帰り際、リゼットが小さな紙袋を差し出した。


「焼き菓子です。今日は少し余りましたので」


「いただいていいんですか」


「はい」


モルが横から言う。


「ロイ、客だから」


その言葉に、ロイはようやく少し笑えた。


客だから。


配達員だからではなく、満願堂に来た一人の客だから。


それは小さなことだったが、ロイにとっては、勇気が出るボタンを買うよりずっと大きなことだった。


帰り道、紙袋の中で焼き菓子がかさりと鳴る。


その音は納め物の封蝋の音とも、逓便局の伝票の音とも違った。


ただ、また来てもいいと言われたような音だった。


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