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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第二章 奥の棚に眠るもの

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第三十三話 声を真似るオルゴール

テレーズは、娘の声を少しずつ忘れていた。


娘の名はリリといった。六つで熱を出し、七つになる前に亡くなった。残ったものは多くなかった。小さな靴、縫い目の曲がった人形、欠けた木の匙。どれも大切だったが、声だけは物に残らない。


最初の一年、テレーズは毎朝娘の声を思い出せた。


おはよう。


まだ眠い。


このリボンがいい。


母さん、歌って。


どれも鮮やかだった。


二年目、少し遠くなった。


三年目、娘の声は時々、近所の子どもの声と混ざるようになった。


それが怖かった。


人は忘れることで生きていくと言う。


テレーズも、頭では分かっていた。毎日同じ鋭さで悲しんでいたら、体が保たない。薄れていくことは、裏切りではなく、時間が人を生かすための働きなのかもしれない。


それでも、忘れたくない声があった。


顔は肖像画に残せる。服は畳んでおける。人形は棚に飾れる。けれど声だけは、部屋の空気に溶け、次の朝には少し薄くなる。


テレーズは時々、自分の口で娘の声を真似ようとした。


似なかった。


似ないことに、ひどく傷ついた。


忘れたくないと願うことは、死んだ子を手放さないことなのかもしれない。そう言われるのも分かっていた。けれど、忘れることが正しいとは思えなかった。


リゼットは表の棚から、小さな貝殻を取り出した。


「耳に当てると、昔聞いた声を少し思い出しやすくなります。表の棚の願具です」


リゼットはそう説明した。


今聞いている声が、少し遠く感じられる返りがあるとも告げた。


テレーズは頷いた。


今聞いている声より、聞きたい声があった。


テレーズは小さな貝殻の代金を支払った。


貝殻はよく効いた。


夜、耳に当てると、娘の笑い声に似たものが遠くから聞こえた。はっきりした言葉ではない。けれど、テレーズの胸を温めるには十分だった。


しかし、すぐに物足りなくなった。


似ているだけでは足りない。


声が欲しい。


あの子が自分を呼ぶ声が。


二度目に満願堂へ来た時、リゼットは奥の棚から小さなオルゴールを出した。


「声を真似るオルゴールです。魔願具にあたります」


木箱の蓋には、薄い月の模様が彫られている。手のひらに収まるほどの大きさで、ぜんまいを巻く小さな鍵がついていた。


「大切な方の声を、残された記憶から真似ます」


「本物ではないのですね」


テレーズは聞いた。


「はい」


リゼットは静かに答えた。


「境目は、残りますか」


「真似た声と、本当に聞いた声の境目が曖昧になることがございます」


テレーズはオルゴールに触れた。


「それでも、聞きたいの」


テレーズは声を真似るオルゴールの代金を支払った。


リゼットは納願帳を開いた。


彼女は書いた。


リリの声を忘れたくない。


モルはオルゴールを見上げた。


小さな耳が、少しだけ伏せられる。


「さびしい」


オルゴールは、最初の夜から声を出した。


ぜんまいを巻き、蓋を開ける。細い音楽が流れ、その奥から小さな声がした。


母さん。


テレーズは息を止めた。


本物ではない。


そう分かっているのに、膝から力が抜けた。


「リリ」


声は短い言葉を真似た。おはよう。ねむい。母さん。歌って。昔、娘がよく言った言葉ばかりだった。


テレーズは毎晩オルゴールを開けた。


最初は一度だけ。次第に二度、三度。昼にも開けるようになった。オルゴールは、彼女の記憶から声を拾い、少しずつ言葉を増やした。


「今日は寒いね」


そんな言葉を聞いた時、テレーズは泣いた。


娘は、その言葉を本当に言っただろうか。


分からなかった。


けれど、言いそうだった。


その「言いそう」が、やがて記憶の中へ入り込んでいった。


近所の子どもが窓の外で笑うと、テレーズは腹を立てた。今はリリの声を聞いているのに。生きている子どもの声が、オルゴールの声を邪魔するように感じた。


ある日、友人が訪ねてきた。


「少し外へ出ない?」


「いいの」


「テレーズ、ずっとそれを聞いているでしょう」


「リリが話しているの」


友人は黙った。


友人は、リリの葬儀の日からずっとテレーズを見ていた人だった。


「テレーズ」


その声は優しかった。


「聞こえるのは、悪いことじゃないと思う。でも、あなたがもう誰の声も聞かなくなるのは怖い」


テレーズは返事をしなかった。


友人の言葉は正しい。正しいから、すぐには受け取れない。オルゴールの声が「母さん」と呼ぶたび、正しさは少し遠くなる。


その沈黙で、テレーズは自分が何を言ったのかに気づいた。


リリではない。


オルゴールだ。


本物ではない。


それなのに、否定されると娘を否定されたように痛かった。


テレーズは満願堂へ行った。


オルゴールを両手で抱えていた。


「納めに来られましたか」


リゼットが尋ねると、テレーズは首を横に振った。


「相談に来たの」


「はい」


「これを聞いていると、リリの声が戻るの。でも、どれが本当に聞いた声なのか、分からなくなってきた」


「はい」


「納めた方がいいのでしょうね」


リゼットは答えなかった。


「納めたら、私はまた忘れていくのでしょう」


「忘れるというより、時間が進むのだと思います」


「時間なんて」


テレーズはオルゴールを抱きしめた。


「進まなくてよかったのに」


モルが足元に来て、オルゴールを見上げた。


「まね。でも、だいじ」


「大事なの」


「うん」


テレーズは笑った。涙が出ていた。


「リゼットさん。これを納めないのは、間違いかしら」


リゼットは静かに首を横へ振った。


「満願堂は、無理に納めさせる店ではございません」


「持ち帰ってもいいの」


「はい。ただし、返りは続きます」


「分かっているわ」


「本物ではないことを、時々ご自身で思い出せますか」


テレーズはしばらく考えた。


「たぶん、忘れる日もある」


「はい」


「でも、思い出そうとするわ」


それが正しい答えかどうか、誰にも分からなかった。


テレーズはオルゴールを持ち帰った。


それから彼女は、毎晩ではなく、週に一度だけ蓋を開けることにした。


蓋を開ける日は、花を買う日にした。


小さな花を一輪だけ。高いものではない。リリが生きていたら、途中で飽きて葉をむしったかもしれないような、何でもない花だった。


花瓶に挿り、オルゴールを開ける。


声を聞く。


蓋を閉じる。


そして、花が枯れるまで次は開けない。


そう決めると、声は以前より少し遠くなった。けれど、遠くなったぶんだけ、テレーズは自分の部屋の音も聞けるようになった。時計の音。隣家の足音。友人が戸を叩く音。


それらはリリの声ではない。


だが、生きている時間の音だった。


最初の週は守れなかった。二日目に開けた。三日目にも開けた。


けれど、少しずつ間隔を空けるようになった。


オルゴールの横に、小さな紙を置いた。


これはリリではない。


リリを忘れたくない私のための声。


その文字を見るたび、胸は痛んだ。


痛むなら、まだ境目は残っているのだと思った。


満願堂では、リゼットが納願帳に短く記した。


魔願具使用。未納。


モルが覗き込む。


「納めない?」


「ええ」


「いい?」


「よいかどうかは、テレーズさんがこれから決めていくのでしょう」


モルは少し考えた。


「声、まねでも、だいじ?」


「ええ」


リゼットはカウンターの奥を見た。


「本物でないものに、救われる夜もございますから」


テレーズが次に満願堂へ来たのは、三週間ほど後だった。


オルゴールは持っていなかった。代わりに、小さな花束を持っている。白と薄紫の花で、リリが好きだった色かどうかは分からないと言った。


「今日は、声を聞く日ではないの」


彼女は窓際ではなく、カウンターに近い席へ座った。


「でも、花を買う日は続けているのですね」


リゼットが紅茶を置く。


「ええ。声を聞かない日にも、花は枯れるから」


その言葉は、少し不思議だった。


花が枯れることは寂しい。けれど、枯れるから次の花を買う理由ができる。オルゴールの声は変わらず同じ声で呼ぶが、花は少しずつ古くなる。その違いが、テレーズを現実へ繋いでいた。


友人も、また訪ねてくるようになったという。


最初は気まずかった。テレーズは怒っていたし、友人も踏み込みすぎたと思っていた。けれど、二人は少しずつ、リリ以外の話をする練習をした。


市場の野菜の値段。


近所の猫。


新しくできた菓子屋。


どれも大事な話ではない。


だが、テレーズにはそれが必要だった。


リリの声だけで部屋を満たすと、他の音が邪魔になる。けれど他の音を少しずつ入れておけば、オルゴールを開けた時にも、本物ではないと覚えていられる気がした。


「それでも、聞きたい日はあります」


テレーズは正直に言った。


「昨日も、開けました」


「そうでしたか」


リゼットは責めない。


「約束を破ったことになりますか」


「誰との約束でしょう」


「自分と」


リゼットは少し考えた。


「破った後に、また結び直せる約束もございます」


テレーズはカップを見つめた。


「リリなら、何度も約束を破ったわ」


「お子様ですから」


「ええ。何度も謝って、また同じことをして」


テレーズは笑った。涙は出なかった。


「それも、声なのね。オルゴールは、そういうところまで真似ない」


モルが足元で鼻を鳴らした。


「まね、足りない?」


「足りないわ」


テレーズは頷いた。


「でも、足りないから、本物ではないと分かるのかもしれない」


その日、リゼットは納願帳の「未納」の横に、小さく追記した。


使用継続。境目あり。


モルは文字を覗き込み、満足そうに尻尾を揺らした。


オルゴールはまだテレーズの家にある。


いつか納められる日が来るかもしれない。来ないかもしれない。


満願堂は、そのどちらも急かさない。


声を真似る箱は、今も週に一度、あるいは約束を破った夜に、短い声を響かせる。


母さん。


その声は本物ではない。


けれど、本物を失った人が夜を越えるための小さな灯りにはなる。


テレーズは、その灯りが火事にならないよう、今日も花を替える。


冬の初め、テレーズはリリの部屋を少しだけ片づけた。


全部ではない。


靴も、人形も、欠けた木の匙も、まだ残っている。ただ、床に置いたままだった小さな箱を棚へ上げ、窓辺の小石を布で拭いた。


片づける間、オルゴールは開けなかった。


開ければ声がする。声がすれば手が止まる。手が止まれば、部屋はまた時間の中に沈む。


その日は、沈めたくなかった。


夕方、友人が来た。


二人で茶を飲み、リリの話を少しした。以前なら、テレーズはリリの声を聞かせようとしただろう。今日はしなかった。


「聞かせないの?」


友人が尋ねる。


「聞きたい?」


「聞きたい気持ちはあるわ。でも、今日はあなたの声を聞きに来たの」


テレーズはその言葉で、しばらく黙った。


自分の声。


それも、ここに残っているものなのだと、久しぶりに思った。


その夜、彼女はオルゴールの隣に置いた紙をもう一枚増やした。


これはリリではない。


リリを忘れたくない私のための声。


そして、私はまだ、私の声で話せる。


文字は少し震えていた。


翌週、テレーズは満願堂へ行き、ただの紅茶を頼んだ。オルゴールの話はしなかった。リゼットも聞かなかった。


モルだけが足元で言う。


「今日は、まね、少ない」


「そう」


テレーズは微笑んだ。


「それは、寂しい?」


「ううん。声、ふたつ」


「ふたつ?」


「リリのまね。テレーズの声」


テレーズはカップを持つ手を止めた。


リリの声を失いたくなかった。


そのために、自分の声が消えていくことには、気づいていなかったのかもしれない。


オルゴールはまだ家にある。


納められていない魔願具は、満願堂の棚で眠る品よりずっと危うい。けれど、テレーズはその危うさを見ないふりはしなくなった。


週に一度、蓋を開ける。


時々、約束を破る。


破った翌日には花を買い、紙を読み直す。


完璧ではない。


けれど、悲しみと暮らすことは、たぶん完璧にできるものではない。


リゼットは納願帳を閉じながら、小さく言った。


「未納の願いにも、行き先はございます」


モルは首を傾げる。


「まだ、途中?」


「ええ」


「途中も、納める?」


「いつか。あるいは、途中のまま持っていく方もいらっしゃいます」


満願堂の棚には入らない願いもある。


抱えたまま帰る願いもある。


そのことを、テレーズのオルゴールは静かに示していた。


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