第三十二話 幸運を拾う袋
ネロは、小さな損をよくする男だった。
月環街の荷運び組合で働いている。力はある。足も速い。愛想も悪くない。けれどなぜか、最後の一つに間に合わない。
朝市へ行けば、焼きたてのパンは目の前で売り切れる。賭け事をすれば、あと一枚で勝てるところで負ける。雨が降る日に限って屋根のない荷台を担当し、休憩所に入れば自分の席だけ椅子の脚がぐらついている。
大きな不幸ではない。
ネロの不運は、誰かが助けに来るほどではないところが厄介だった。
骨を折ったなら休める。大金を失ったなら同情される。けれど、焼き菓子が一つ足りない、洗濯物だけ鳥に汚される、少し早く出たのに橋の上で荷馬車に塞がれる。そういう不運は、笑い話になるだけだ。
ネロ自身も笑い話にした。
自分で笑っておけば、人に笑われても痛みが少ない。
ただ、夜に一人で靴を脱ぐ時、今日も自分だけ少し損をしたと思うと、心の底が薄く削られているように感じた。
だから人は笑った。
「ネロは運がないな」
彼も一緒に笑った。笑うしかなかった。
けれど小さな不運も、毎日積もれば重い。大怪我をしたわけではない。家を失ったわけでもない。だが、毎日ほんの少しだけ損をしている気がすると、人は自分の人生そのものが安く見える。
満願堂へ来たのは、落とした銅貨が排水溝へ転がり込んだ日だった。
「ああ、もう少し運が欲しい」
紅茶を飲みながら呟くと、リゼットは表の棚から古い銅貨を一枚出した。
「小さな幸運を呼ぶ銅貨です。表の棚の願具です」
「これが運を呼ぶのか」
「呼ぶというより、拾いやすくなります。道で銅貨を見つけたり、雨を避けられたり、最後の一つが残っていたり」
リゼットは、小さな不運にも少し敏感になる返りがあると告げた。
ネロは笑った。
「それはもう慣れてる」
ネロは小さな幸運を呼ぶ銅貨の代金を支払った。
願具はよく効いた。
翌朝、彼は通りで銅貨を一枚拾った。昼には、いつも売り切れる肉入りパンが一つ残っていた。夕方、荷運びを終えた直後に雨が降り出した。
小さい。
本当に小さい。
それでも、ネロにはまぶしかった。
幸運とは、空から金貨が降ることではないのかもしれない。必要な時に傘を借りられること。最後の席が空いていること。こぼれそうな荷物が、ぎりぎり落ちないこと。
銅貨を持っていると、それらが少しずつ手に入った。
やがてネロは、もっと欲しくなった。
満願堂へ戻ると、リゼットは奥の棚から少し大きな袋を出した。深い緑の布に、細い金糸で月環のような模様が縫われている。
「幸運を拾う袋です。魔願具にあたります」
「さっきのより強いのか」
「はい。落ちている幸運を、より多く拾います」
「強くなるぶん、何が起こる」
「誰かの足元にあった小さな幸運を、拾ってしまうことがございます」
ネロは袋を見る。
「盗むってことか」
「そう感じる方もいらっしゃるでしょう」
「でも、落ちてるんだろ」
リゼットは否定しなかった。
ネロは幸運を拾う袋の代金を支払った。
リゼットは納願帳を開いた。
ネロは書いた。
少しでいい。俺にも運がほしい。
モルが袋に鼻を近づけた。
袋の口が、かすかに鳴った。
「ころころ」
「何がころころだ」
「落ちてるもの」
袋は、驚くほど効いた。
ネロの周りでは、良いことが続いた。重い荷物の担当が急に軽い荷へ変わる。組合のくじで当たりを引く。転びかけた時、ちょうど積み藁があって怪我をしない。酒場で隣になった商人が、使わない切符を譲ってくれる。
彼は笑った。
これが運のある人生か。
しかし、周囲では妙なことが増えた。
最初は、偶然だと思えた。
ネロが濡れずに済んだ日に、隣の洗濯物が濡れた。ネロが最後のパンを買えた日に、後ろに並んでいた少年が空腹のまま帰った。ネロが軽い荷を担当した日に、新人が重い荷を運び、腰を押さえていた。
誰もネロを責めない。
だからこそ、ネロは自分で気づかなければならなかった。
袋の中で、見えないものがころころと鳴るたび、自分の幸運が誰かの足元から転がってきたように思えた。
同僚の荷紐が切れた。パン屋の娘が、最後に残しておいた菓子を焦がした。酒場の客が椅子を取り損ねた。ネロが雨を避けた日、隣の通りでは洗濯物が全部濡れた。
どれも小さい。
けれど、見覚えのある不運だった。
「ネロ、最近ついてるな」
同僚が言った。笑っていたが、肩には落とした荷物でついた打ち身がある。
「ああ」
ネロはそう答えた。
胸の中で、袋が少し重くなった。
ある夕方、彼は道端で銀貨を拾った。
手を伸ばした瞬間、少し離れたところで子どもが泣き出した。
「お母さんにもらった銀貨がない」
ネロの手の中で、銀貨が冷たくなる。
袋は腰に下がっていた。拾った。幸運を拾った。それだけだ。
そう思おうとした。
だが、子どもの泣き声は思ったより長く続いた。
ネロは銀貨を子どもへ返した。
その瞬間、袋の口がひとりでに少し閉じた。
「……なんだよ」
彼は満願堂へ向かった。
「納める」
カウンターに袋を置くと、リゼットは両手で受け取った。
「はい。魔願具ですので、納めることはできます」
「俺は、誰かの運を盗ってたのか」
「拾っていたのです」
「同じじゃないか」
「同じに感じられたなら、納め時かもしれません」
ネロは唇を曲げた。
「俺は、少し運が欲しかっただけだ」
「はい」
「大金持ちになりたいとか、誰かを踏みつけたいとか、そういうことじゃなかった」
「ええ」
リゼットは責めなかった。
そのことが、かえってネロには堪えた。
モルが袋に鼻を近づける。
「まだ、ころころ」
「俺の運は戻るのか」
ネロが聞くと、リゼットは少し考えた。
「運は、戻すものではないのかもしれません」
「じゃあ、どうすればいい」
「拾った時に、誰のものか見られるようになったのではありませんか」
ネロは黙った。
袋を納めた翌日、彼はまた小さな損をした。
損をすると、少し腹が立つ。
それは変わらなかった。袋を納めたからといって、ネロが急に立派な人間になるわけではない。売り切れたパンの前で舌打ちもしたし、泥にはまった車輪に悪態もついた。
けれど、悪態をついたあと、周りを見るようになった。
自分だけが損をしているのではない。自分の隣にも、少し運の悪い顔をしている者がいる。そう気づけるようになったことは、袋の返りなのか、それとも袋を納めた後に残ったものなのか、ネロには分からなかった。
朝市でパンが売り切れ、荷馬車の車輪が泥にはまり、昼の休憩では自分の椅子だけがぐらついていた。
ネロはため息をついた。
ついてない。
だがその時、隣の新人が昼食を忘れていることに気づいた。ネロは自分の固いパンを半分割って渡した。
新人は目を丸くした。
「いいんですか」
「どうせ固い」
そう言いながら、ネロは少し笑った。
幸運を拾う袋はもうない。
それでも、誰かの小さな不運に気づく目だけは、少し残った。
満願堂の奥の棚で、緑の袋はしばらく口を閉じていた。モルは前を通るたび、鼻を鳴らす。
「ころころ、静か」
「ええ」
リゼットは棚を見る。
「幸運は、転がっている時が一番見えにくいのかもしれませんね」
袋を納めてから、ネロの暮らしは劇的には変わらなかった。
朝市では相変わらず目当てのパンが売り切れる。荷運び組合では、重い木箱が彼の担当になる。雨が降る日に限って、屋根のない道を通ることもある。
「やっぱりネロは運がないな」
同僚は笑う。
ネロも笑った。
以前と同じ笑い方のはずなのに、少しだけ違った。自分だけが損をしていると決めつける前に、周りを見るようになったからだ。
その日、組合の新人が荷紐を切らした。荷物は崩れ、通りに布袋が散った。以前のネロなら、自分の荷でなくてよかったと思っただろう。実際、そう思いかけた。
けれど、袋を持っていた頃のころころという音が耳に戻った。
誰かの足元から転がってきた小さな幸運。
ネロはため息をつき、荷を下ろして手伝った。
「ついてないな」
新人が情けない顔で言う。
「そういう日はある」
ネロは布袋を拾いながら答えた。
「でも、全部自分だけの不運だと思うと、余計に重いぞ」
新人は意味が分からない顔をした。
ネロも、うまく言えたとは思わなかった。
夕方、彼は満願堂へ寄った。紅茶だけを頼むつもりだったが、表の棚の古い銅貨に目が止まった。最初に買った、軽い願具の方とよく似ている。
「また使われますか」
リゼットが尋ねる。
ネロは少し迷い、それから首を横へ振った。
「今日はいい」
「そうですか」
「運が欲しくないわけじゃない」
「はい」
「でも、拾う前に一度、誰の足元か見る癖がついたみたいだ」
モルがカウンターの上から言った。
「ネロ、ころころ、聞く?」
「時々な」
「うるさい?」
「少し」
ネロは笑った。
「でも、聞こえないよりはいい」
幸運を拾う袋は奥の棚で静かにしている。
口は閉じたまま。中ではまだ、見えない何かが転がる気配がある。けれど今は、誰の手にも下がっていない。
小さな幸運は、今日も街のどこかを転がっている。
拾う者もいれば、見送る者もいる。
ネロはまだ、たまに拾いたくなる。
それでも、拾わなかった幸運が誰かの手に届くところを見る日も、少しだけ悪くないと思えるようになった。
ネロは、それから小さな記録をつけるようになった。
何を拾ったかではない。
何を拾わなかったかを書く記録だった。
朝市で、前の客が落とした銅貨を声をかけて返した。
雨宿りの場所を、荷物を抱えた婦人へ譲った。
最後の焼き菓子を買わずに、後ろの子どもへ回した。
書いてみると、立派なことには見えなかった。どれも小さい。人に話せば「それくらい」と言われるだろう。けれど、ネロにはその小ささがよかった。
幸運を拾う袋が拾っていたのも、この程度のものだった。
この程度のものが、積もれば人を削る。
そのことを知ってから、ネロは自分の小さな不運を少しだけ丁寧に扱うようになった。
ある日、組合長がくじを引かせた。遠方まで運ぶ面倒な荷と、近場で済む軽い荷を決めるためのくじだった。
ネロは面倒な方を引いた。
周囲が笑う。
「やっぱりネロだ」
以前なら腹を立てただろう。今も少し腹は立った。だが、隣で不安そうにしている新人を見ると、くじを取り替えたいとは思わなかった。
遠方の配達は疲れた。
途中で雨にも降られた。
帰り道、荷台の陰から虹が見えた。
それを幸運と言うのか、不運のついでと言うのか、ネロには分からない。
けれど、袋に拾われた幸運ではなかった。
自分の足で、雨の中を歩いた後に見えたものだった。
満願堂へその話をすると、モルは言った。
「ネロ、ころころ、追いかけない」
「追いかけたくなる時もある」
「でも、待つ?」
「たぶん」
リゼットは紅茶を注ぎながら微笑んだ。
「小さな幸運は、拾わなくても訪れることがございます」
「訪れない日も多いけどな」
「ええ」
リゼットは否定しなかった。
その正直さが、ネロには少し気に入った。
運の悪い日は、これからも来る。
それでも、自分だけが世界から少しずつ損を押しつけられている、とは前ほど思わなくなった。
誰かの足元にも、小さな幸運と不運が転がっている。
それを踏まないように歩くのは、案外難しい。
でも、難しいことを知っただけでも、ネロにとっては少し運がよかったのかもしれない。




