第三十一話 名前を売る名刺
ラウル・フェルムは、自分の名が小さすぎることに耐えられなかった。
月環街の劇場で、彼は脚本を書いていた。正確には、脚本家の名で呼ばれるほどではない。主役が言いにくい台詞を直し、幕間の短い笑いを書き、劇場主が削った場面をつなぐ。芝居が成功すれば役者が褒められ、失敗すれば脚本が悪いと言われる。ラウルの名は、いつも紙の端に小さく残るだけだった。
それでも、最初は十分だと思っていた。
ラウルが本当に書きたかったのは、名前ではなかった。
舞台の袖で、彼はいつも役者の背中を見ていた。自分の書いた台詞が誰かの喉を通り、客席へ届く。その瞬間、文字は紙から離れ、人の息になる。初めてそれを見た時、ラウルは一晩眠れなかった。自分の中にあったものが、自分以外の体で生きた気がしたからだ。
だが、感動は長く続かない。
舞台が終われば、客は役者の名を呼ぶ。劇場主は収益を数える。新聞は主役の表情を褒める。ラウルは裏で、直された台本を束ねる。紙には自分の字が残っているのに、拍手はそこへ届かない。
少しずつ、彼は台詞の出来より、台本の表紙に刷られた自分の名を見るようになった。
文字を書く仕事がある。自分の書いた一行で客席が笑う。たまに役者が「この台詞、悪くない」と言う。それだけでしばらく食べられた。
けれど、客席の拍手が役者の名へ向かい、劇評が劇場主の名を大きく書き、ラウルの名だけが最後に小さく添えられるたび、胸の中で何かが擦れた。
名が残らなければ、いなかったのと同じではないか。
そう思い始めると、彼は自分の書いた台詞より、劇場の貼り紙にある自分の名前の大きさばかり見るようになった。
満願堂へ来た時、ラウルは小さな名刺入れを持っていた。中には自分で刷らせた名刺が入っている。ラウル・フェルム。脚本。添削。舞台構成。文字は立派だったが、渡す相手はあまりいなかった。
「名を覚えてもらえる品はあるか」
リゼットは表の棚から、小さな銀縁のカードを出した。
「思い出しの呼び札です。お渡しした相手が、お名前を少し覚えやすくなります。表の棚の願具です」
「少しだけか」
「はい。返りとして、お名前以外の印象が少し薄くなることがございます」
ラウルは笑った。
「名を覚えられるなら、それでいい」
ラウルは思い出しの呼び札の代金を支払った。
最初の願具はよく効いた。
劇場の裏で名刺を渡すと、翌日には「ああ、フェルムさん」と呼ばれるようになった。劇場主も、役者も、衣装係も、彼の名を間違えなかった。ラウルはそれだけで、少し背筋が伸びる気がした。
だが、呼ばれるだけでは足りなくなった。
名を覚えられる。けれど、仕事は増えない。劇評には載らない。客席は彼を知らない。舞台の灯りが消えれば、ラウル・フェルムという名は劇場の裏側へ戻る。
彼は再び満願堂へ来た。
リゼットは奥の棚から、黒い紙束を出した。薄い名刺が十枚ほど重なっている。紙は黒く、文字を書くところだけが淡く白い。
「噂を運ぶ名刺です。魔願具にあたります」
「効果は」
「名刺にお名前を書き、誰かへ渡すと、その名が人の口に上りやすくなります」
「返りは」
「名が広がるほど、顔や声は少しずつ薄く覚えられるでしょう」
ラウルは名刺を見た。
「顔なんて、見られなくてもいい」
ラウルは噂を運ぶ名刺の代金を支払った。
リゼットは納願帳を開いた。
彼は書いた。
ラウル・フェルムという名を、もっと多くの人に覚えさせたい。
モルが鼻を近づけた。
「かみのにおい」
少し間を置いて、尻尾を揺らす。
「でも、中がからん」
ラウルには意味が分からなかった。
魔願具は、願具よりもずっとよく効いた。
ラウル・フェルムという名は、急に月環街の劇場界隈で聞かれるようになった。新しい脚本家らしい。辛口の添削屋らしい。役者を泣かせたらしい。古い劇を盗んだらしい。貴族に気に入られたらしい。子ども向けの芝居を書いているらしい。
噂は増えた。
正しいものも、間違ったものもあった。
ラウルは最初、間違った噂を訂正しようとした。
ある日、劇場の前で、見知らぬ青年がラウルの名を口にしているのを聞いた。
「フェルムの新作は退屈らしい」
新作など書いていなかった。
別の日には、酒場で別の噂を聞いた。
「ラウル・フェルムは貴族の愛人のために芝居を書いたそうだ」
そんな貴族も愛人も知らない。
腹立たしいはずだった。だが、ラウルはその夜、少しだけ機嫌がよかった。
間違っていても、名が歩いている。
そのことが、彼には甘かった。
けれど、人々は彼の顔を見ると少し首を傾げた。
「失礼、どなたでしたか」
「ラウル・フェルムだ」
「ああ、フェルムさん。噂は聞いております」
名は届いている。
本人は、届いていない。
それでもラウルは止まらなかった。名が広がる。呼ばれる。劇場の外でも、酒場でも、印刷所でも、誰かが自分の名を口にする。それは甘かった。
やがて、彼はもっとはっきり願うようになった。
名だけでいい。
名だけが残ればいい。
本人など、いつか老いて、忘れられ、死ぬ。ならば先に、名を人から切り離してしまえばいい。
満願堂へ三度目に来た時、ラウルの顔はひどく疲れていた。けれど目だけが明るかった。
「名を残すものをくれ」
リゼットは静かに尋ねた。
「ラウルさんご自身を覚えてほしいのではなく?」
「俺自身に価値はない」
彼は言った。
「名前が残ればいい。悪名でもいい。忘れられるよりはずっといい」
リゼットは目を伏せた。
「それは、おすすめ致しません」
「なぜだ」
「お名前以外のものが、落ちていきます」
「いらない」
その返事は早かった。
「ラウル・フェルムが残るなら、俺がどんな顔をしていたか、どんな声だったか、何を書きたかったか、そんなものはどうでもいい」
モルがカウンターから降りた。
何も言わず、奥の通路へ歩く。
黒鉄の両開き扉の前で、リゼットは鍵をかざした。ガチャリ、と重い音がする。
「開けるのは、貴方様です」
ラウルは扉を押した。
軽かった。
その軽さに、彼は少し笑った。
自分自身を置いていくことが、こんなにも簡単だとは思っていなかった。
地下で彼が見つけたのは、一枚の名刺だった。
紙とも金属ともつかない白い板に、名前を書くための空白だけがある。縁には細い月環の模様。何も書かれていないのに、そこに自分の名があると分かった。
「名前を売る名刺です」
リゼットの声は聞こえていた。
満願具は願いを根付かせる。根付いた願いは仕上がりまで止まらない。
その説明も、ラウルの耳には届いていたはずだった。
けれど彼が見ていたのは、白い空白だけだった。
「お代はございません」
「ないのか」
「はい。満願具は、お売りするものではございません」
ラウルは納願帳に書いた。
ラウル・フェルムという名だけは、残ってほしい。
白い名刺は、その名を待っているようだった。
名刺に名を書いた日から、ラウル・フェルムは広がり始めた。
芝居の貼り紙に、彼の名が大きく載った。誰も依頼していない劇評に、彼の名が出た。酒場の壁に落書きされた。古い本の余白に書かれた。子どもが意味も知らず、歌のように口ずさんだ。
だが、ラウル本人を覚えている者は減った。
劇場主は、彼が来ても気づかなかった。役者は、彼の書いた台詞を誰のものか知らなかった。宿屋の主人は部屋代を受け取りながら、客の顔を忘れた。
ラウル・フェルムという名だけが、街を歩く。
本人は、その後ろに薄い影のように残った。
数日後、満願堂に納め物が届いた。
仕上がりが進むにつれ、ラウルは文字を書けなくなった。
書こうとすると、自分の名だけが紙の上に出た。台詞を書きたいはずなのに、登場人物の名がすべてラウル・フェルムになる。街の名も、劇の題も、手紙の宛名も、最後には同じ名になった。
それは彼の望み通りだった。
名は増えた。
名以外は、紙から落ちていった。
黒い紐。暗い赤の封蝋。納め札。
箱の中には、白い名刺が一枚入っていた。そこには、ラウル・フェルムという名だけが美しく書かれている。
モルが覗き込んだ。
「あれ、名前」
「ええ」
リゼットは名刺を黒布に置く。
「名前だけは、よく残りました」
「ラウルは?」
リゼットはすぐには答えなかった。
名刺の文字は、かすかに光っている。名だけが、誰かに呼ばれるのを待っているようだった。
「ラウル様の願いは、ここへ届きました」
それが、一番近い答えだった。
それからしばらく、ラウル・フェルムという名は月環街のあちこちに残った。
劇場の貼り紙、酒場の壁、古書店の端本、子どもの遊び歌。意味は変わり、噂はねじれ、誰が最初にその名を口にしたのか分からなくなっていった。
「フェルムの作は泣けるらしい」
「いや、笑えるんだ」
「悪い男だったそうだ」
「女だったと聞いたぞ」
誰も、もう本人を知らない。
それでも名は残る。
ラウルが望んだ通りだった。
劇場では、若い脚本家が一度だけ、その名の下に自分の短い台詞を載せられた。彼は不満を言わなかった。言えば仕事が減る。フェルムの名がある方が客は入る。劇場主はそう言った。
若い脚本家は、夜更けに誰もいない舞台で、自分の本当の名前を小さく呟いた。
その声は客席へ届かない。
けれど、舞台の床は少しだけ鳴った。
満願堂に納められた白い名刺は、時々かすかに文字を濃くした。
誰かがラウル・フェルムの名を口にするたび、紙の上の名は少しだけ新しくなる。本人の顔も声も、もう戻らない。だが、願いは確かに仕上がっている。
モルはその名刺の前を通るたび、鼻をひくつかせた。
「名前、いっぱい」
「ええ」
リゼットは黒布を整える。
「たくさん呼ばれているのでしょう」
「ラウル、うれしい?」
「ラウル様の願いとしては」
リゼットはそこで言葉を止めた。
願いとしては、叶っている。
けれど、人としてどうだったかを、満願堂は簡単には答えない。
ある日、ロイが普通便を届けに来た時、その名刺の棚の前で足を止めた。
「名前だけが残るのは、怖いですね」
「そう思われますか」
「はい。誰かが名前を呼んでも、本人に届かないなら」
ロイは少し考える。
「それは、配達先のない手紙みたいです」
リゼットは静かにロイを見た。
「届かない手紙にも、書かれた理由はございます」
「でも、できれば届けたいです」
逓便局員らしい答えだった。
リゼットは少しだけ微笑んだ。
「では、ロイさんは名前だけでなく、行き先も大切になさってください」
ロイは頷いた。
棚の中で、白い名刺は静かにしている。
ラウル・フェルム。
その名は今も、どこかで誰かの口に上る。
けれど満願堂だけは、その名がかつて一人の男の願いだったことを忘れない。
数日後、ロイは逓便局で奇妙な封筒を仕分けた。
宛名は、ラウル・フェルム様。
差出人は空白。住所は月環街劇場裏、とだけ書かれている。普通なら差し戻すべき手紙だった。けれど、封筒の紙は妙に白く、宛名の文字だけが強く目に残った。
「ロイさん、それ」
ココが覗き込む。
「満願堂行きじゃないですか」
「宛名は劇場裏だ」
「でも、なんだか納め物っぽいです」
黒い紐も、暗い赤の封蝋もない。納め札もない。ただの手紙だ。それでも、ロイにはココの言葉が分かった。
ヴェルナーに確認すると、彼はしばらく封筒を見た後で言った。
「満願堂へ持っていけ」
「普通便としてですか」
「普通便としてだ。ただし、リゼットさんに直接渡せ」
満願堂で封筒を開くと、中には白紙が一枚入っていた。
白紙の中央に、しばらくして文字が浮かんだ。
ラウル・フェルム。
それだけだった。
リゼットはその紙を名刺の隣へ置いた。
「まだ増えているのですね」
「止まらないんですか」
ロイが聞く。
「満願具ですから」
リゼットの声は静かだった。
「仕上がった願いは、持ち主の手を離れても続くことがございます」
「では、これからも名前だけが届くんですか」
「しばらくは」
モルが紙を嗅いだ。
「名前、さびしくない」
ロイは少し驚いた。
「寂しくないんですか」
「名前は、いっぱい呼ばれる。さびしいのは、たぶん、名前じゃない」
その言葉に、誰もすぐには答えなかった。
ラウル本人はもう薄い。
けれど名は寂しくない。
呼ばれ、書かれ、噂され、使われ続ける。本人がいなくても、名は満ちている。
ロイはそれをひどく怖いと思った。
同時に、ラウルがそれを望んだことも分かった。
劇場では、フェルムの名がついた新しい戯曲が上演された。客は入り、評判は割れた。誰かは褒め、誰かは貶し、誰かは「やはりフェルムだ」と知ったように頷いた。
その夜、若い脚本家は自分の机で、小さく自分の名前を書いた。
紙の上に書かれたその名は、まだ弱く、誰にも知られていない。
だが彼は、その名を消さなかった。
満願堂の奥で、ラウル・フェルムの名刺は静かに白い光を含んでいる。
名前が残ること。
本人が残ること。
書いたものが残ること。
それらは似ているようで、少しずつ違う。
ラウルの願いは、ひとつだけを選んだ。
だから、他のものは落ちた。
その落ちたものの形を、満願堂だけが黒布の奥で覚えている。
ラウルの古い部屋は、やがて別の劇場係に貸し出された。
荷物は少なかった。机、古い椅子、インクの染みた布、書きかけの紙束。紙束には台詞がいくつか残っていたが、登場人物の名はどれも途中でラウル・フェルムに変わっていた。
新しく部屋を借りた青年は、その紙を気味悪がって捨てようとした。
けれど一枚だけ、捨てられなかった。
そこには名前ではなく、短い台詞が残っていた。
誰かに呼ばれなくても、声は届くことがある。
それを書いたのがラウルなのか、名に飲まれる前の誰かなのか、もう分からない。青年はその一行を机の引き出しへしまった。
後日、その台詞は小さな芝居の中で使われた。
観客は笑わなかった。泣きもしなかった。ただ、一人の老人が帰り際に「今の台詞はよかった」と言った。
作者の名は聞かれなかった。
青年は少しだけ不満に思い、少しだけほっとした。
満願堂の白い名刺は、その夜、いつもより静かだった。
モルは棚の前で首を傾げる。
「名前じゃないの、残った?」
リゼットは少し考えた。
「落ちたものの欠片かもしれません」
「欠片、戻る?」
「戻るわけではございません。けれど、どこかへ届くことはあるのでしょう」
ラウル・フェルムは名前を残した。
その願いは仕上がった。
けれど、願いから落ちたものがすべて消えるわけではない。時々、紙の端や、誰かの記憶や、名もない台詞の中に、ほんの小さく残ることがある。
満願堂は、それを救いとは呼ばない。
ただ、そういう残り方もあると、静かに覚えておく。
お読みいただきありがとうございます。
また満願堂へお立ち寄りいただけましたら幸いです。
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