第三十話 モルの店番
満願堂の朝は、いつも紅茶の香りから始まる。
古い木の匂い。昨夜閉じた本の頁が、朝の湿気を吸ってふくらむ匂い。ステンドグラスから落ちる淡い光。カウンターの奥で、湯が静かに沸く音。
リゼットはその日も、いつも通りに開店の準備をしていた。
茶器を並べ、古書の背を軽く払う。焼き菓子の皿を整え、表の棚の小さな願具たちを一つずつ眺める。モルはカウンターの上で丸くなり、首元のリボンと古い鍵だけを時々揺らしていた。
いつもと違ったのは、湯が沸いた直後だった。
古い湯沸かしの底から、細い音がした。
ぴしり。
リゼットの手が止まる。
次の瞬間、湯沸かしの横から、細い湯気が一筋漏れた。
モルが顔を上げる。
「こわれた?」
「……少し」
リゼットは火を落とし、湯沸かしを布で包んだ。
満願堂で長く使っている道具だった。紅茶を淹れるための、銅と銀の間のような色をした古い湯沸かし。普通の道具に見えるが、何十年も、あるいはそれ以上の時間、満願堂の朝を支えてきたものだ。
大きな破損ではない。けれど、このまま使えば危ない。
リゼットは、ほんの少し困ったように目を伏せた。
「オルスさんのところへ持っていかなければなりませんね」
「オルス」
「ええ。こういう古い道具は、オルスさんに見ていただくのが一番です」
モルは湯沸かしの周りを一周した。
「紅茶、できない?」
「火を使う紅茶は難しいですね」
「満願堂、あける?」
リゼットは答えなかった。
ほんの短い沈黙だった。
けれど、モルはその沈黙を嗅ぎ取ったように、尻尾をふわりと立てた。
「リゼット、行っていい」
「モル?」
「モル、店番する」
リゼットは少しだけ目を見開いた。
「ひとりで?」
「モル、できる」
「紅茶を淹れるには、火を使いますよ」
「紅茶、出さない」
リゼットは少しだけ瞬きをした。
「では、飲み物はどうしましょう」
モルは少し考えた。
「花の、あまいやつ」
「ニナさんの花蜜ですね。あれなら、お湯がなくても出せます」
「それ、出す」
「今日は熱い紅茶は出せません」
「出ません」
「奥の棚には触らせてはいけません」
「さわらせない」
「納め物が来たら」
「今日は、来ない」
モルは短く言った。
リゼットは、少しだけモルを見る目を深くした。
「そうですか」
「今日は、普通の日」
「では、普通の日として開けましょうか」
「うん」
リゼットはカウンターの奥から、小さな陶器の瓶を二つ用意した。ニナが届けてくれた花蜜を水で薄く割ったものだ。いつもの紅茶とは違う。茶葉の深みも、湯気もない。けれど、花の香りがほんのり残る。
焼き菓子の皿も用意する。
小さなクッキー。干した果物を練り込んだ菓子。ひと口で食べられる丸い焼き菓子。
「今日は、花蜜水と焼き菓子だけです」
「花蜜水」
「お客様には、そうお伝えしてください」
「おきゃくさま、ゆうせん」
「はい」
リゼットはモルの頭をそっと撫でた。
「では、お願いします」
「まかせて」
モルは胸を張った。
リゼットは壊れた湯沸かしを布に包み、籠へ入れた。エプロンの紐をほどき、いつもの管理人の姿から、少しだけ外へ出るための装いになる。
扉の札を返したのは、リゼットではなくモルだった。
小さな前足で札を押し、少し曲がったまま、どうにか表へ返す。
「開いた」
「ええ。開きました」
リゼットは微笑んだ。
「行ってまいります」
「いってらっしゃい」
リゼットが店を出ると、満願堂の表にはモルだけが残った。
モルはしばらく扉を見ていた。
それからカウンターへ戻り、受け取り印の位置を確認し、クッキーの皿を前足で少しだけ押した。
「モル、店番」
声は、小さかった。
けれど、誇らしげだった。
最初に来たのは、ロイだった。
その日は休日だった。
逓便局の制服ではない。深い灰色の上着に、白いシャツ。いつもより少しだけ髪が整えられている。ロイは満願堂の前で一度足を止め、扉の看板を見上げてから、ゆっくり手を伸ばした。
今日は客として入る。
紅茶を飲む。
リゼットに、普通の客として挨拶する。
それだけだ。
ロイは扉の前で一度だけ息を整えた。
「リゼットさん、おはようございます」
少し声が上ずった。
勢いよく扉を開ける。
けれど、返ってきたのは、いつもの凛とした声ではなかった。
カウンターの上から、白い毛玉が顔を出す。
「ロイきた」
モルだった。
ロイは、開けた扉を閉めるべきか少し迷った。
「……リゼットさんは?」
「オルス」
「オルスさんのところへ?」
「お茶の道具、こわれた」
「壊れた?」
「リゼット、なおしに行った。モル、店番」
ロイは数秒、何も言わなかった。
カウンターの上には、焼き菓子の皿。小さな陶器の瓶。受け取り印。少し曲がった開店の札。いつもの紅茶の香りは薄く、店内はどこか落ち着かない。
モルは胸を張っている。
ロイは真面目な顔で頷いた。
「……そうか」
「ロイ、おきゃくさま?」
「客の予定だった」
「予定?」
「今、少し変わった」
ロイは上着の袖を整え、カウンターの内側を見た。
「何か手伝えることはあるか」
モルは目を丸くした。
「ロイ、手伝う?」
「邪魔でなければ」
「ロイ、おきゃくさま」
「手伝う客だ」
モルはしばらく考えた。
「変」
「俺もそう思う」
「じゃあ、クッキー」
「クッキー?」
「ひとり、いちまい。高いところ、とれない」
カウンター奥の棚に、焼き菓子の缶があった。リゼットが朝に用意した分だけでは足りなくなるかもしれない。
ロイは上の棚から缶を取った。
「これか」
「うん。そっと」
「分かっている」
「割れたら、かなしい」
「分かっている」
ロイは皿へクッキーを並べた。
几帳面に、等間隔で。
モルがそれを見上げる。
「ロイ、まじめ」
「普通に並べただけだ」
「クッキー、整列」
「並べただけだ」
「クッキー、逓便局」
「違う」
ロイはため息をつきかけて、少し笑った。
次に来たのは、ココだった。
「逓便局です、お届け物です!」
明るい声と一緒に、小柄なうさぎ系の獣人が入ってくる。腕には茶葉と古書の包み。いつものように耳は元気に立っていた。
「モルさん、今日も受け取りお願いします!」
「ココ」
モルはカウンターの上で前足を揃えた。
「モル、店番」
「店番!」
ココの耳がぴんと立った。
「すごいです、モルさん!」
「すごい」
「リゼットさんは?」
「お茶の道具、なおしに行った」
「なるほど。じゃあ今日はモルさんが一日管理人さんですね」
「いちにち管理人」
モルはその言葉をすぐに気に入った。
ココはそこでようやく、カウンターの脇にいるロイに気づいた。
ロイは焼き菓子の皿を整えている。しかも、逓便局の制服ではない。休日の服で、真面目な顔をしてクッキーを等間隔に並べていた。
「……ロイさん?」
「何だ」
「今日、お休みですよね」
「休みだ」
「どうして満願堂で働いてるんですか」
「働いてはいない。手伝っている」
「同じでは?」
「違う」
モルが胸を張った。
「ロイ、手伝う客」
ココはぱちぱちと瞬きをして、それから笑った。
「なるほど。ロイさん、満願堂でも真面目なんですね」
「満願堂でも、とは何だ」
「逓便局でも真面目です」
「それは悪いことではない」
「悪いとは言ってません」
ココはにこにこしながら、クッキーの皿を覗いた。
「このクッキー、ロイさんが並べたんですか?」
「そうだ」
「きれいに整列してますね」
「モルにも言われた」
「やっぱり」
「やっぱりとは何だ」
モルは二人を見比べた。
「逓便局、にぎやか」
「今日は満願堂もにぎやかですね」
ココは荷物をカウンターの端へ置いた。
「モルさん、受け取り印いけますか?」
「いける」
モルは前足で受け取り印を押した。
少し斜めだった。
「今日もちゃんと押せましたね」
ココは空いた手でモルの頭をわしゃわしゃ撫でた。白い長毛が、指の間でふわふわ乱れる。
「モル、えらい」
「えらいです」
ロイが横から受け取り帳を覗いた。
「少し斜めだな」
モルがロイを見る。
「ロイうるさい」
「事実だ」
「ココはうるさくない」
「ココさんは甘い」
「褒めて育てる方針です」
「局の後輩にもそうしてくれ」
「ロイさんは褒めなくても育ちそうなので」
「どういう意味だ」
ココは楽しそうだった。
昼前、エリアスが来た。
白い服。白銀に近い髪。いつもの穏やかな足取り。
エリアスは店内を見回し、カウンターの前で足を止めた。
「あら」
モルが胸を張る。
「モル、店番」
「そうなの」
「リゼット、お茶の道具、なおしに行った」
「リゼットさんは、外なのね」
「うん」
エリアスは少しだけ微笑んだ。
ロイは、クッキー用の小皿を手にしたまま固まっていた。
普段も配達で顔を合わせることはある。けれど、今日は休日で、しかも自分はなぜか満願堂のカウンター側にいる。
その状況で見るエリアスは、いつもよりさらに現実味が薄かった。
「ロイ」
モルが言った。
「止まった」
ロイは我に返った。
「止まっていない」
「止まってましたよ」
ココが小声で言う。
「見ていただけだ」
「見惚れてました?」
「見ていただけだ」
「二回言いましたね」
「……」
エリアスは聞こえているのかいないのか、静かに微笑んでいる。
「今日は、いつもの紅茶ではないのかしら」
「花蜜水と、クッキーならある」
「では、それをいただくわ」
モルは少しだけ驚いたように耳を動かした。
「いつものじゃない」
「そうね」
「いい?」
「ええ」
エリアスはいつもの席へ向かう。
「今日は、いつもの席で、いつもと違うものをいただくのね」
ロイがカップを用意した。モルが陶器の瓶を押す。ココがクッキーを皿にのせる。
エリアスの前に置かれたのは、いつもの紅茶ではない。
冷めても香る、薄い琥珀色のお茶。
焼き菓子が一枚。
そして、いつもの白い表紙の詩集。
エリアスはカップを持ち上げた。
「ありがとう、モル」
「モル、出した」
モルが誇らしげに言うと、エリアスはお茶を飲みながら、ゆっくりと瞬きをした。
「今日は、皆さんで店番を?」
名前を呼ばれたわけではない。
それでも、自分たちのことだと分かって、ロイは少しだけ姿勢を正した。
「少し手伝っただけです」
「ロイさん、かなり真剣でしたよ。クッキーの向きまで揃えてました」
ココが笑う。
「必要なことだ」
「お客様はそこまで見ませんって」
「見る方もいる」
ロイが真面目に答えると、モルが胸を張った。
「モル、見た」
エリアスは静かに頷いた。
「それは、よい店番ですね」
それが褒めているのか、ただ聞いているだけなのかは分からなかった。
けれどロイは、少しだけ背筋を伸ばしたままだった。
「満願堂は、今日は賑やかなのね」
それは皮肉ではなかった。
本当に、いつもより少しだけ賑やかだった。
午後になる頃には、モルの店番は少しずつ形になってきた。
紅茶は淹れられない。
けれど、瓶の花蜜水なら注げる。
焼き菓子は皿にのせられる。
奥の棚には触らせない。
受け取り印は少し斜めだが、押せる。
ロイはカップを洗い、クッキーを並べた。
ココは配達の合間にもう一度顔を出し、紙袋の口を結ぶのを手伝った。
モルはカウンターの上を行ったり来たりした。
「ロイ、カップ」
「分かっている」
「ココ、はんこ」
「はい、こちらですね」
「エリアス、クッキー」
「まだありますか?」
「ある」
店の奥で、いつもの黒鉄の扉は静かに閉じている。
表の棚の願具たちも、特に騒ぎはしなかった。小さな手鏡も、晴れ乞いの人形も、眠る香草も、いつも通り棚の上にある。
満願堂は、いつも通りではない。
けれど、壊れてはいなかった。
夕方近く、扉の鈴が鳴った。
リゼットが戻ってきた。
片手には、布に包まれた古い湯沸かし。もう片方の手には、オルスから受け取ったらしい小さな木箱。リゼットの髪には、外の風で乱れた細い髪が少しだけかかっている。
「ただいま戻りました」
モルがぱっと顔を上げた。
「リゼット」
「はい」
「モル、店番した」
「ええ」
リゼットは店内を見回した。
カウンター。少し斜めの受け取り印。きっちり並べられたクッキー。洗われたカップ。窓際で本を読むエリアス。カウンターの端で真面目に皿を拭いているロイ。配達鞄を抱えたココ。
そして、胸を張っているモル。
リゼットは、ゆっくり微笑んだ。
「たいへん立派でした」
「モル、立派」
「はい」
モルは満足そうに目を細めた。
ココが手を振る。
「リゼットさん、おかえりなさい!」
「ありがとうございます、ココさん。お手伝いしてくださったのですね」
「少しだけです。モルさん、一日管理人さんでした」
「いちにち管理人」
モルがもう一度言う。
ロイは皿を置き、少しだけ気まずそうに礼をした。
「勝手に手伝いました。すみません」
「いいえ」
リゼットは静かに頭を下げる。
「助かりました、ロイさん」
ロイは言葉に詰まった。
「いえ」
それだけ言うのが精一杯だった。
ココがロイを横目で見た。
「ロイさん、今日は大活躍でしたよ」
「大活躍ではない」
「クッキーも整列してました」
「それはもういい」
モルが言う。
「ロイ、エリアス見て止まった」
ロイの手から、皿拭きの布が落ちかけた。
「モル」
「ほんとのこと」
ココが口元を押さえた。
「事実ですね」
リゼットは一度だけ瞬きをした。
それから、いつもの穏やかな顔でエリアスを見る。
「エリアス様は、お美しい方ですものね」
「リゼットさん」
ロイの声が少しだけ裏返った。
エリアスは詩集を閉じ、柔らかく微笑んだ。
「褒められてしまったわ」
「ロイ、赤い」
「モル」
「赤い」
「二回言わなくていい」
ココはとうとう笑いをこらえきれなかった。
満願堂の空気が、いつもより軽く揺れた。
エリアスが詩集を閉じる。
「今日は、いつもの紅茶ではなかったけれど」
リゼットは少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。
「申し訳ありません、エリアス様」
「いいえ」
エリアスは微笑んだ。
「いつもの席で、違うお茶をいただくのも、悪くなかったわ」
その言葉に、リゼットはほんの少しだけ目を細めた。
「そう言っていただけると、助かります」
モルがカウンターの上で身を乗り出す。
「リゼット」
「はい」
「休めた?」
店内が少しだけ静かになった。
リゼットは一瞬だけ、答えを探すように黙った。
それから、静かに首を横へ振る。
「いいえ」
声は穏やかだった。
「今日は、お店を開けるために出ておりました」
「じゃあ、まだ」
「ええ」
リゼットは、修理された湯沸かしをカウンターに置いた。
「まだです」
モルはその言葉を聞いて、尻尾を一度だけ揺らした。
「じゃあ、また店番する」
「頼もしいですね」
「モル、できる」
「ええ。今日、分かりました」
ロイはそのやり取りを、少し不思議そうに聞いていた。
ココはモルをもう一度撫でた。
エリアスは、いつもの席で静かに紅茶ではないお茶を飲んでいる。
リゼットは、まだ片づけられていない小さなカップを手に取った。
カップの底には、ほんの少しだけ琥珀色の花蜜水が残っている。
モルが一人で出した、花蜜水。
いつもの満願堂とは違う一日。
けれど、それでも願いは迷わなかった。
リゼットはそれを、まだ言葉にはしなかった。
ただ、カップを洗い場へ運びながら、ほんの少しだけ微笑んだ。
その夜、修理された湯沸かしで淹れた紅茶は、いつもより少しだけ音が澄んでいた。
リゼットは最初の一杯を客ではなく、モルの前へ置いた。
「今日の店番へのお礼です」
「モル、飲めない」
「香りだけでも」
モルはカップに鼻を近づけ、満足そうに目を細めた。
「いいにおい」
リゼットは微笑んだ。
いつもの満願堂に戻った。
けれど、戻っただけではない。
ほんの少しだけ、別の開き方を覚えた日だった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第一章「表の棚に並ぶもの」は、これにて一区切りとなります。
次章では、満願堂という店が少しずつ奥へ近づいていきます。
またお立ち寄りいただけましたら幸いです。




