第二十九話 優しい毒杯
サヴィルは、長く医師をしていた。
若い頃のサヴィルは、助けられなかった命の数を数えていた。
最初の年は三人だった。二年目は七人。三年目からは数えるのをやめた。数えることで覚えていられると思っていたが、数字にしてしまうと、かえって顔が薄れていく気がしたからだ。
それでも、忘れられない夜がある。
熱に浮かされた子どもが、母親の指を握ったまま朝を迎えられなかった夜。
老いた男が、痛みのせいで自分の息子に罵声を浴びせ続け、最後に謝る力もなく眠った夜。
若い女が、もう少しで春になるのにと呟いた夜。
医師は救う者だと教わった。
けれど、救うという言葉の中には、時々、あまりにも長い苦しみが混じる。
それを何十年も見続けると、終わりという言葉が、少しずつ優しい形を持ち始める。
人を救うために学んだ。熱を下げ、傷を縫い、薬草を煎じ、骨を整えた。助かる命もあった。助からない命もあった。
若い頃は、助からない命を悔しいと思った。
歳を取ると、苦しみが長引くことを恐れるようになった。
痛みに体を折り、眠れず、食べられず、ただ息だけを繋いでいる人を見る。家族は泣き、本人はもう声も出ない。
そういう夜を何度も越えるうち、サヴィルは思うようになった。
終わらせてあげることも、優しさではないのか。
満願堂へ来た時、彼は穏やかな顔をしていた。
「痛みを静かにする品はあるか」
リゼットは表の棚から小さな匙を出した。
「痛みを鈍らせる匙です。表の棚の願具です」
「返りは」
「喜びも少し鈍ることがございます」
「痛みが強すぎる者に、喜びなど残っているかな」
リゼットは答えなかった。
サヴィルは痛みを鈍らせる匙の代金を支払った。
匙は役に立った。
匙を使う時、サヴィルは必ず患者の家族に説明した。
「痛みは少し遠のきます。ただ、楽しいことも少し遠く感じるかもしれません」
たいていの家族は頷いた。
楽しいことなど、今は必要ない。痛みが和らぐなら、それでいい。
その言葉は間違っていない。間違っていないからこそ、サヴィルは匙を使った。
患者は眠る。眉間の皺が少しだけ緩む。握りしめていた布を離す。家族は泣きながら礼を言う。
医師として、これ以上の何を望むのか。
そう思う日もあった。
だが、目を覚ました患者が、孫の声にも花の匂いにも反応しなくなった時、サヴィルの胸には小さな影が落ちた。
痛みだけを取り分けることはできない。
リゼットが最初に説明した通りだった。
苦しむ患者が、少しだけ眠れるようになった。家族は感謝した。サヴィルも安堵した。
だが、もっと深い苦しみには足りなかった。
再び満願堂へ行くと、リゼットは奥の棚から小さな薬瓶を出した。
「眠りへ近づける薬瓶です。魔願具にあたります」
白磁の薬瓶だった。薄く、軽く、細い首元に小さな月環の模様がある。
「中の滴を水に落とすと、苦痛を深い眠りへ寄せます」
「返りは」
「使う者自身も、死への距離感が薄くなることがございます」
サヴィルは薬瓶を見た。
「医師には、もともと近いものだ」
サヴィルは眠りへ近づける薬瓶の代金を支払った。
リゼットは納願帳を開いた。
サヴィルは書いた。
苦しむ者を、少しでも楽にしたい。
薬瓶はよく効いた。
苦痛で泣いていた老人が眠った。息が荒かった女が、少し穏やかな顔になった。家族は泣きながら礼を言った。
サヴィルは、自分の願いが正しいものに思えた。
しかし、薬瓶を使うたびに、彼は別のことを考えるようになった。
この人は、もう終わった方が楽なのではないか。あの人も、この子も、この老人も。苦しみの先に何があるのか。眠りのさらに奥へ送ってしまえば、どれほど静かだろう。
ある夜、少年が苦しんでいた。
少年は十歳だった。
助かる可能性は低かった。けれど、完全に閉じてはいなかった。熱は高く、呼吸は浅い。小さな胸が上下するたび、母親は祈るように手を組んだ。父親は部屋の隅で立ったまま、壁だけを見ていた。
「先生」
母親は言った。
「この子は助かりますか」
サヴィルは答えられなかった。
医師は、嘘をついて希望を与えるべきではない。けれど、希望を奪いきるほどの確信もなかった。
薬瓶は鞄の中にあった。
眠らせれば、少年は楽になる。
さらに深く眠らせれば、苦しみは終わる。
その考えが浮かんだ瞬間、サヴィルは自分の手を見た。
救う手なのか。終わらせる手なのか。
長い年月をかけて、その境目が薄くなっていた。
助かる可能性はあった。
低いが、ゼロではない。
家族は助けてほしいと泣いた。
サヴィルは薬瓶を見た。
楽にしてあげたい。
その言葉が、初めて恐ろしいほど甘く聞こえた。
その後、少年は助かった。
サヴィルが薬瓶を使わなかったからなのか、別の薬が効いたからなのか、誰にもはっきりとは分からない。熱は何日も続いた。母親は何度も泣き、父親は壁を見るのをやめて水を運ぶようになった。
少年の呼吸が落ち着いた朝、サヴィルはその家を離れた。
長く、道端に立っていた。
助かった命を見て、喜びだけが来ればよかった。
だが、彼の中には別の声もあった。
あの苦しみを、終わらせてやれたのに。
その声を聞いた時、サヴィルは自分の優しさが、もう治療の形だけでは収まらなくなっているのだと分かった。
翌日、サヴィルは満願堂へ行った。
「苦しむくらいなら、終わらせてあげたい」
リゼットは彼を見た。
「それは、おすすめ致しません」
「罪だろうな」
「終わりを与える者は、終わりから離れられなくなります」
「それでも」
サヴィルは静かに言った。
「それが優しさなら、罪でもいい」
リゼットは目を伏せた。
「……優しさだけが、残ってしまいましたね」
モルはカウンターから降り、何も言わず奥の通路へ歩いた。
黒鉄の扉の前で、リゼットは鍵をかざす。
ガチャリ、と重い音がした。
「開けるのは、貴方様です」
サヴィルは扉を押した。
重かった。
医師として救いたい。終わらせたい。楽にしたい。自分は優しいのか、それとも疲れただけなのか。
迷いはまだ残っていた。
だが、その迷いよりも、苦しむ息の音の方が近かった。
扉は開いた。
地下で見つけたのは、杯だった。
優しい毒杯。
黒に近い深い青の杯で、内側だけが白い。底には閉じた目のような模様があった。
「満願具は、願いを根付かせます」
リゼットの声が響いた。
「根付いた願いは、仕上がりまで止まりません」
サヴィルは、その言葉を症状の説明のように聞いていた。
根付く。止まらない。仕上がりまで進む。
危険だということは分かった。だが、苦しみの終わりを待つ患者の横で手をこまねいているよりは、ずっと明確な処置のようにも聞こえた。
「お代はございません」
「ないのか」
「はい。満願具は、お売りするものではございません」
サヴィルは納願帳に書いた。
苦しむ者に、安らかな終わりを与えたい。
「サヴィル様の願いには、こちらの品がよく合うかと」
その後、サヴィルのもとを訪れる者は増えた。
苦しみを終わらせてくれる医師がいる。
そういう噂が流れた。
彼の手にかかると、人は穏やかに眠る。苦しみの皺が消え、息は静かになり、家族は泣きながら安堵する。
サヴィルは優しかった。
誰よりも穏やかに、終わりを差し出した。
だが、彼はやがて、どんな患者を見ても思うようになった。
この人には、終わりを与えるべきだろうか。
熱を出した子どもにも。怪我をした若者にも。老いた者にも。疲れ切った母親にも。
苦しみが少しでもあるなら、終わらせることは優しさになりうる。
そう考えてしまう。
満願堂へ戻ってきたのは、杯だった。
杯が戻るまでの数日、サヴィル本人はどこにも見つからなかった。
逃げたのか、眠ったのか、誰かの終わりに寄り添い続けているのか。噂だけが街を歩いた。
苦しむ者を救った医師。
終わりを配った医師。
優しい人。
恐ろしい人。
どの言葉も、少しずつ正しかった。
リゼットは噂を集めなかった。
満願堂に戻ってきた杯を見れば、願いがどこへ行き着いたのかは分かったからだ。
黒い紐。暗い赤の封蝋。納め札。
箱の中で、深い青の杯は静かに伏せられていた。
モルは箱の縁に前足をかけた。
「あれ、やさしい?」
リゼットは杯を見た。
「優しさの形をしています」
「こわい?」
「ええ」
リゼットは黒布をかけた。
「静かすぎる仕上がりです」
その夜、満願堂の奥の部屋で、杯は一度だけ小さく鳴った。
誰かの終わりを待つように。
サヴィルの杯が納められた後、満願堂には一通の手紙が届いた。
差出人の名はなかった。けれど、文面から患者の家族だと分かった。
先生は、父を静かに眠らせてくださいました。
あの夜、父は初めて苦しまない顔をしていました。私はそれをありがたいと思いました。今も思っています。
けれど時々、考えます。
父は、本当に終わりたかったのでしょうか。
私たちが、父の苦しむ姿を見ていられなくなっただけではなかったでしょうか。
手紙はそこで少し途切れていた。インクのにじみがある。
リゼットはその手紙を折りたたみ、納願帳の間に挟んだ。
モルが見上げる。
「サヴィルの?」
「サヴィル様に関わる願いですね」
「終わりのにおい?」
「ええ」
リゼットは奥の部屋の方を見た。
「ですが、終わりを望む人と、終わりを望んでほしい人は、同じではありません」
モルはしばらく考えた。
「むずかしい」
「ええ。たいへん」
優しい毒杯は奥の部屋で静かにしている。
その静けさは穏やかだった。
穏やかだからこそ、近づきすぎると冷たかった。
サヴィルの願いは悪ではなかった。むしろ、苦しみを見続けた人間の、真面目で優しい願いだった。
けれど、優しさは時々、終わりに近づきすぎる。
満願堂では、そのこともまた、仕上がりとして納められる。
リゼットは、優しい毒杯を奥の部屋へ納めた後も、しばらくその場に残った。
黒布の下で、杯はもう鳴らない。けれど、静けさが濃かった。
痛みを終わらせたいという願いは、決して珍しくない。
痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。大切な人が苦しむ姿を見たくない。そこまでは誰にでもある。
けれどサヴィルは、そこからさらに進んだ。
苦しむ人に終わりを与えることを、自分の優しさにした。
それは、優しさだけが残った願いだった。
余計なものが落ちていたからこそ、遠くまで行った。
モルがリゼットの足元で丸くなる。
「リゼット、いや?」
「いいえ」
「こわい?」
「ええ」
モルはその違いが分からないように首を傾けた。
リゼットは杯の置かれた棚を見た。
「願いは、怖いから悪いのではありません」
「うん」
「優しいから安全なのでもありません」
「うん?」
モルはますます首を傾ける。
リゼットは少しだけ笑った。
「モルには、まだ難しいでしょうか」
「モル、においならわかる」
「では、この杯は?」
モルは鼻をひくつかせた。
「しずか。やさしい。さむい」
「ええ」
リゼットは頷いた。
「きっと、それで十分です」
サヴィルがどこへ行ったのか、リゼットは探さなかった。
満願堂は人を追う店ではない。願いが戻ってきたなら、そこへ納める。戻ってこないなら、まだどこかで続いている。
ただ、彼が使っていた小さな診療所の窓辺には、しばらく花が置かれたという。助けられた者の家族が置いた花。終わらされた者の家族が置いた花。どちらか分からない花。
花は枯れ、また新しい花が置かれた。
優しさは一つの形では残らない。
感謝にもなる。後悔にもなる。恐れにもなる。
その全部を、深い青の杯は静かに受けていた。
優しい毒杯が納められた後、リゼットは一度だけオルスにその杯の台座を見てもらった。
台座にひびが入っていたわけではない。けれど、置かれた杯の重みが、木でも石でもないものを沈ませているように見えたからだ。
オルスは台座を見て、顔をしかめた。
「壊れてない」
「そうですか」
「だが、長く置くなら下に布を噛ませた方がいい。直接置くと跡が残る」
「跡」
「重さじゃない。冷たさの跡だ」
リゼットは頷いた。
「では、お願いします」
オルスは作業をしながら、杯には触れなかった。
触れたくなかったからだ。触れれば、自分の中の何かが終わりを想像してしまう気がした。
「医者の願いか」
「ええ」
「優しい願いだな」
「はい」
「だから厄介だ」
リゼットは答えなかった。
オルスは布を敷き、台座の高さを調整した。
「これで少しは跡が残りにくい」
「ありがとうございます」
「跡が残らないわけじゃない」
「ええ」
リゼットは杯を見る。
「願いが納まった場所には、何かしら跡が残ります」
オルスは工具をしまった。
「この店は、跡だらけだな」
「そうですね」
リゼットは静かに微笑んだ。
その微笑みが少しだけ寂しく見えて、オルスはそれ以上何も言わなかった。
優しい毒杯は、黒布の上で静かにしている。
それは悪意の形ではない。
だからこそ、誰も簡単には目を逸らせなかった。
お読みいただきありがとうございます。
また満願堂へお立ち寄りいただけましたら幸いです。




