第二十八話 願いを量る秤
オルスは、また面倒なものを持って満願堂へ来た。
オルスの作業場では、その朝から秤が鳴っていた。
古い真鍮の皿が、誰も触れていないのにかすかに揺れる。窓は閉めていた。猫もいない。床板も鳴っていない。
それでも、秤は時々、ちり、と小さく音を立てた。
オルスは分銅を載せた。傾く。
同じ重さの分銅を反対の皿へ載せる。傾きは戻らない。
羽根を載せる。石を載せる。古い釘を載せる。自分の工具袋から小さな金具を出して載せる。
全部、秤は違う反応をした。
重さではない。
なら何を量っているのか。
そう考えた時点で、オルスはもう満願堂へ行くしかないと分かっていた。
古い真鍮の秤だった。
左右に皿があり、中央の支柱は少し曲がっている。骨董品としてなら珍しくない。修理すれば、薬草屋か菓子屋が使えるだろう。
だが、皿に何を載せても釣り合わなかった。
石を載せても、羽根を載せても、同じ重さの分銅を載せても、片方だけが沈む。
沈む皿は決まっていない。物によって変わる。
「重さじゃない」
オルスはカウンターに秤を置いた。
「こいつは別のものを量ってる」
リゼットは秤を見た。
「願いを量る秤ですね」
「やっぱり願具か」
「満願堂の品ではございません」
リゼットは静かに言った。
「ですが、願いを覚えすぎています」
モルが秤の周りを回る。
何かを嗅ぐように鼻を近づけたが、すぐには何も言わなかった。
オルスは椅子に腰を下ろした。
「持ち主は、商人だ。誰の願いが一番重いか分かれば、良い品を売れると思ったらしい」
その商人は、ひどく嬉しそうに秤を持ち込んだ。
「人が何を本気で欲しがっているのか分かれば、商売は簡単だろう」
彼はそう言った。
「重い願いには高い品を売ればいい。軽い願いには安い品で十分だ。客本人より、秤の方が正直だろうからな」
オルスは、その時点で修理を断りたくなった。
だが、秤は壊れているわけではない。むしろ、妙に正確に何かを量っているように見えた。
商人は、最後にこう言った。
「直ったら、満願堂にも売り込めるかもしれん。願いを扱う店なら、こういう秤は欲しいだろう」
オルスはその言葉を聞いて、秤を預かることにした。
売り込まれる前に、持ってくるべき場所があると思ったからだ。
「願いの重さを」
「量ろうとしたんだろうな。馬鹿な話だ」
リゼットは小さく首を横へ振る。
「重い願いが、よく届くわけではございません」
「違うのか」
「ええ」
リゼットは秤の皿に、表の棚から小さな栞を置いた。もう片方には、奥の棚から黒布に包まれた古い銀針を置く。
秤はわずかに揺れた。
そして、どちらにも傾かなかった。
「願いは、重いから叶うのではありません」
リゼットは言った。
「澄んだ時に、よく届くのです」
その時、扉の鈴が鳴った。
入ってきたのはロイだった。
「逓便局です。お届け物です」
「オルスさん、お疲れ様です」
「なんだ、ロイか」
オルスは作業台の代わりにしていたカウンターから顔を上げた。
ロイはカウンターの上の秤を見た。
「……修理中ですか」
「修理できるなら、俺の店に持って帰ってる」
ロイは少し困ったように会釈した。
リゼットが荷を受け取り、帳面に署名する。
その時、リゼットの指先が、カウンターの隅に置かれた納願帳の表紙に触れた。
秤が小さく鳴った。
誰も触れていないのに、片方の皿が沈んだ。
沈んだのは一瞬だった。
ほんの少し。目を逸らしていれば気づかなかったかもしれない。
けれど、ロイは見てしまった。
リゼットの指先が納願帳に触れた時、真鍮の皿はまるで深い水を受けたように沈んだ。重い音はしない。ただ、静かに、確かに傾いた。
リゼットは何も言わなかった。
モルも、何も言わなかった。
その沈黙の方が、ロイには怖かった。
聞けば答えてくれるかもしれない。けれど答えを聞けば、リゼットをただ美しい管理人として見ることができなくなる気がした。
もうとっくに、ただの管理人としては見られなくなっているのに。
ロイはそれを見た。
オルスも見た。
モルは見ていたのかいないのか、尻尾だけを揺らした。
リゼットは署名を終えた。
「ありがとうございます、ロイさん」
「……はい」
ロイは聞きたかった。
今のは何ですか。
なぜ、納願帳に触れただけで秤が動いたのですか。
けれど、聞かなかった。
満願堂では、聞いていいことと、聞くには早いことがある。
それくらいは、もう分かり始めていた。
ロイが帰ったあと、オルスは眉をひそめた。
「今のは」
「この秤が、量ろうとしたのでしょう」
「何を」
リゼットは少しだけ考えた。
「重さ、と呼ぶと違うものになります」
「では何だ」
「私にも、まだうまく言えません」
リゼットは納願帳の表紙に手を置いた。
「ただ、量るべきものではなかったのだと思います」
オルスはしばらく彼女を見た。
「分かりにくい答えだな」
「ええ」
リゼットは微笑んだ。
「分かりやすく言えるものばかりではございませんから」
オルスはそれ以上聞かなかった。
深く踏み込むには、まだ早い。そういう場所が満願堂にはあると、彼も少しずつ分かっていた。
モルが秤に鼻を寄せる。
「これは、表?」
「まだ表には置けません」
「奥?」
「奥の棚で休ませましょう」
リゼットは秤を黒布に包んだ。
「願いの重さを量ろうとする方は、重さに引かれてしまいますから」
オルスは工具袋を持ち上げた。
「人の願いなんて、量らない方がいいってことか」
「量らずとも、届く願いはございます」
「職人には難しい話だ」
「そうでしょうか」
リゼットは微笑んだ。
「オルスさんは、物の痛みをよく見ていらっしゃいます」
「痛みは見える。願いは見えない」
モルが言った。
「モルは、少し分かる」
「お前にはな」
オルスは呆れたように言い、少しだけ笑った。
満願堂の奥の棚で、真鍮の秤は静かに休むことになった。
それでも時々、誰も近づいていないのに、小さく皿が揺れることがあった。
まるで、まだ何かを量りたがっているように。
数日後、秤の持ち主だった商人が満願堂へ来た。
彼はオルスの店から品が戻らないと聞き、不機嫌そうだった。
「あれは私のものだ」
リゼットは穏やかに答えた。
「ただの秤ではなくなっています。今は満願堂で休ませています」
「勝手に困る。商売に使うつもりだった」
「だからこそです」
商人は眉を寄せた。
「願いの重さを量って、何が悪い」
「重い願いほど高く売れるとお考えでしたか」
「商売とはそういうものだ」
リゼットは少しだけ首を傾けた。
「願いの重さを値段に変えようとすると、いつか値段の方を願いだと思うようになります」
商人は鼻で笑った。
「説教か」
「いいえ」
リゼットは微笑んだ。
「返りの説明です」
商人は言葉を失った。
カウンターの下で、モルが小さく鼻を鳴らす。
「重い。けど、まざってる」
「なら」
商人が身を乗り出す。
「俺の願いは重いか」
モルは首を傾けた。
「重い。でも、にごってる」
商人は怒った。
オルスは工具袋を肩にかけながら言う。
「重い荷物ほど、運べば偉いってわけじゃないだろ」
「職人風情が」
「職人だから言ってる。重さを間違えたら、物は壊れる」
秤は奥の棚で、かすかに揺れた。
まるで、その会話まで量りたがっているようだった。
秤の件以来、ロイは満願堂のカウンターを見る時、少しだけ視線を低くするようになった。
リゼットの顔を見ると緊張する。声を聞くとさらに緊張する。だから視線を逸らす。すると、今度はカウンターの端に置かれた納願帳が目に入る。
あの日、秤が沈んだ。
あれは、風でも気のせいでもなかった。
けれど、リゼットが何かを隠したとも思わなかった。
ただ、ロイがまだうまく受け取れないものを、秤だけが量ろうとしたのだと思う。
ある日、ココが言った。
「ロイさん、最近リゼットさんの顔を見ないようにしてません?」
「仕事に集中しているだけだ」
「顔を見ないで仕事するんですか」
「伝票を見る」
「満願堂では伝票よりリゼットさん見た方がいいですよ」
「なぜだ」
「綺麗なので」
ロイは咳き込んだ。
ココはけろりとしている。
「でも、リゼットさんって不思議ですよね。重そうじゃないのに、時々すごく古い感じがします」
ロイは答えなかった。
重い願いが届くわけではない。澄んだ時に届く。
リゼットの言葉が頭に残っている。
では、あの秤は何を量ったのか。
重さではないなら、あれは何に傾いたのか。
ロイはまだ知らない。
ただ、満願堂へ行くたびに、自分の中の何かも少しずつ傾いていることだけは分かっていた。
オルスは帰り際、真鍮の秤をもう一度振り返った。
修理屋としては、歪んだ支柱を直したい。皿の鎖を替えたい。磨けばもっと良い色になる。
だが、直したところで、この秤が量りたがるものは変わらないだろう。
人は、見えないものに目盛りをつけたがる。重さにすれば安心できる。数にすれば扱える。値にすれば売れる。
オルスにも、その気持ちは少し分かった。
物の傷なら測れる。木の厚みなら測れる。金具の歪みなら直せる。
けれど、願いだけは、測った途端に別のものになるのかもしれない。
その後、リゼットは秤をしばらく表には出さなかった。
願いを量る品は、客の目に触れるだけで危うい。人は自分の願いが軽いと言われることを恐れ、重いと言われれば安心する。だが、重いから深いわけではない。軽いから薄いわけでもない。
ある日、エリアスがその棚の前で足を止めた。
「これは、何を量るの?」
「願いを量りたがる秤です」
リゼットは答えた。
「量りたがる?」
「ええ。量れるとは限りません」
エリアスは静かに微笑んだ。
「私の願いは、重かったのかしら」
リゼットは少しだけ考える。
「重いというより、とても静かでした」
「そう」
エリアスは納得したように頷いた。
「静かなものは、量りにくそうね」
リゼットは微笑んだ。
「ええ。だから秤も、少し困るかもしれません」
棚の中で、真鍮の皿がかすかに揺れた。
願いを量る秤は、その後も時々小さく揺れた。
誰も触れていないのに、皿がかすかに動く。表の棚の願具が売れた日、奥の棚の魔願具が納められた日、納願帳に迷いのない文字が書かれた日。
オルスはそれを気に入らないと言った。
「道具は勝手に動くな」
「願いを覚えた品ですから」
「だから気に入らない」
リゼットは笑った。
ある日、秤の皿にモルが表の棚にあった小さな飾りの鍵を乗せようとした。
秤は動かなかった。
「軽い」
モルが言う。
「飾りですからね」
「本物は?」
リゼットはモルの首元を見る。
古い鍵は、リボンの下で静かに揺れている。
「量らない方がよろしいでしょう」
「重い?」
「重いか軽いかではございません」
モルは納得したような、していないような顔で鍵を見下ろした。
ロイはそのやり取りを見ていた。
満願堂には、量ってはいけないものがある。聞いてはいけないことも、触れてはいけない棚もある。だが、それらは隠しているというより、まだその時ではないのだと感じる。
秤は奥の棚で休むことになった。
それでも、ロイは満願堂へ来るたび、どこかで自分の願いも量られているような気がした。
リゼットに会いたいという願い。
役に立ちたいという願い。
納め物を正しく届けたいという願い。
それらは重いのか、軽いのか。
ロイには分からなかった。
その時、モルが急に振り向いた。
目が合う。
「ロイ、まだ」
何がまだなのか、ロイは聞けなかった。
ただ、聞いてはいけないというより、まだ聞ける場所に立っていないのだと思った。
お読みいただきありがとうございます。
また満願堂へお立ち寄りいただけましたら幸いです。




