第二十七話 笑わない人形劇
パウルの人形劇は、昔よく笑われた。
パウルが初めて人形を作ったのは、十二の頃だった。
木片に布を巻き、母の裁縫箱から糸をもらい、目だけを黒く塗った。動きはぎこちなく、腕はすぐに外れた。それでも、近所の小さな子どもが笑った。
その笑い声を、パウルは一生忘れないと思った。
誰かを笑わせることは、世界のどこかに小さな窓を開けることに似ていた。
暗い家でも、貧しい通りでも、病気の子どもの寝台のそばでも、人形が転べば一瞬だけ空気が軽くなる。
だからパウルは人形劇師になった。
金持ちにはなれなかった。尊敬もされなかった。それでも、舞台の前で子どもが笑うなら、それで十分だった。
十分だったはずなのに、笑い声が減ると、自分の中の何かまで薄くなるのを感じた。
子どもたちは舞台の前に座り、木の人形が転べば笑い、布の王様がくしゃみをすれば笑った。小さな竜が帽子から顔を出すと、歓声が上がった。
だが、最近の子どもたちは目が肥えている。
新しい仕掛けの劇。鮮やかな布。音楽を鳴らす箱。街には面白いものが増えた。パウルの古い人形劇では、足を止める子どもが減っていた。
子どもを笑わせたい。
それだけが、彼の願いだった。
カウンターに置かれたのは、淡い色の小さな紙花だった。
「和みの紙花です。表の棚の願具です。舞台の端に飾ると、場が少し和みます」
リゼットは、飾った者の肩に、終演後まで少し緊張が残ることも告げた。
パウルは紙花を見た。
「客が笑うなら、それでいい」
パウルは和みの紙花の代金を支払った。
紙花は効いた。
子どもがまた笑った。古い人形の動きにも、少しだけ新しさが戻ったように見えた。
だが、足りない。
もっと笑わせたい。
次に満願堂へ来た時、リゼットは奥の棚から細い糸束を出した。
「笑わせる糸です。魔願具にあたります」
「どう使う」
「人形に結ぶと、客が笑いやすくなります」
返りについても、リゼットは説明した。
人形が客を笑わせるほど、操る者の顔が少しずつ硬くなること。
パウルは黙って頷いた。
笑うのは、客でいい。
パウルは笑わせる糸の代金を支払った。
リゼットは納願帳を開いた。
パウルは書いた。
子どもを笑わせたい。
糸はよく効いた。
糸を結んだ日、人形の動きは変わった。
王様は少し大げさに転ぶ。姫はちょうどよいところで裾を踏む。小さな竜は、子どもたちが飽きかけた瞬間に帽子から顔を出す。
パウル自身が考えた動きではない。けれど、彼の指は自然にそう動いた。
客席の笑い声が増える。
一人が笑うと、隣の子どもも笑う。大人が笑えば、遠巻きに見ていた人も足を止める。笑い声が輪になって広がっていく。
パウルは舞台裏で、その輪の中心にいる気がした。
ただ、自分の口元だけが動かない。
終演後、子どもたちが人形に触りたがる。パウルは以前なら一緒に笑っていた。今は、笑う代わりに丁寧に人形を箱へ戻す。
箱の蓋を閉める音が、拍手よりもはっきり耳に残った。
人形たちはよく動いた。王様は大げさに転び、竜はくしゃみをして、姫はスカートを踏んで転げ回る。子どもたちは笑った。大人も笑った。
パウルは舞台裏で糸を操った。
客席の笑い声が大きくなるほど、自分の顔から笑いが消えていくのを感じた。
それでもよかった。
笑うのは客でいい。
彼はそう思った。
ある日、子どもが言った。
「おじさんは、笑わないの?」
その子は、最前列にいた。
膝に古い帽子を抱え、劇の間ずっと口を開けて笑っていた子だった。王様が転ぶたびに手を叩き、竜がくしゃみをすれば床に転がりそうになるほど笑った。
だからこそ、終演後の一言は深く刺さった。
「おじさんは、笑わないの?」
責めている声ではない。純粋な疑問だった。
パウルは笑おうとした。
頬の動かし方が分からなかった。
口角を上げる。目を細める。声を出す。どれも、舞台の人形にさせる動きとしては知っている。自分の顔でどうすればいいのかだけが分からない。
子どもは少し不安そうに人形を見た。
「人形は笑ってるのに」
パウルは答えられなかった。
その夜、宿の小さな鏡の前で笑おうとした。
鏡の中の男は、口だけを不器用に持ち上げた。目は動かない。頬も動かない。糸をつけ忘れた人形のように、表情のどこかだけが置き去りになっていた。
舞台の箱を開けると、人形たちはきちんと笑っているように見えた。布の王様も、小さな竜も、黒く塗られた目の奥で、客席を待っている。
笑わせられる。
けれど、自分は笑えない。
それでも、舞台は笑いで満ちていた。
翌朝、パウルは人形の箱を抱え、満願堂へ戻った。
カウンターの前で、彼は言った。
「子どもが笑うなら、私の笑いはいらない」
リゼットは静かに彼を見た。
「それは、おすすめ致しません」
「どうして」
「笑い以外のものが、落ちていきます」
「子どもが笑うなら、私が人形でもいい」
リゼットはそれ以上、すぐには言葉を重ねなかった。
モルがカウンターの端から、パウルの指を見ていた。
その指は、人形を持っていないのに、細かく動いていた。見えない糸をたぐるように。
「奥へ」
リゼットがそう言った時、パウルには、客席のざわめきが遠くから聞こえた気がした。
黒鉄の扉は、店の奥にあるはずなのに、ひどく遠くに見えた。
近づいているはずなのに、出口だけが遠ざかっているようでもあった。
扉の前で、リゼットは鍵をかざす。
ガチャリ、と重い音がした。
「開けるのは、貴方様です」
その声も、幕の向こうから聞こえるようだった。
パウルは扉を押した。
重い。
子どもを笑わせたい。その願いに嘘はない。だが、自分が笑わなくなる怖さが、まだ残っていた。
それでも、客席の笑い声が聞こえる。
聞こえてしまう。
パウルは扉を開けた。
地下へ続く階段は、舞台袖の暗がりに似ていた。
客席からは見えない場所。そこで誰かが糸を持ち、息を殺し、明るい方だけを動かす。
階段を下りるほど、笑い声は近づいた。
地下で見つけたのは、小さな舞台だった。
笑い続ける人形舞台。
幕は降りているのに、向こうから子どもの笑い声が聞こえる。
「満願具は、願いを根付かせます。根付いた願いは、仕上がりまで止まりません」
リゼットの声が静かに響いた。
パウルは納願帳に書いた。
子どもが笑うなら、私の笑いはいらない。私が人形でもいい。
人形劇は大人気になった。
舞台はいつも笑い声で満ちていた。人形たちは鮮やかに動き、失敗し、転び、踊る。子どもたちは腹を抱えて笑った。
舞台裏のパウルは、糸に吊られたように立っていた。
指が動く。腕が動く。体が動く。まるで自分自身も人形の一つになったようだった。
本人は満足していた。
自分が笑わなくても、劇場が笑うなら。
数日後、満願堂に納め物が届いた。
黒い紐。暗い赤の封蝋。納め札。
箱の中には、小さな人形舞台が入っていた。
幕は降りているのに、奥からかすかな笑い声が聞こえる。
モルは耳を伏せた。
「にぎやか」
リゼットは人形舞台を黒布に置いた。
「ええ」
「でも、パウルの声がない」
「そうですね」
箱の中で、人形舞台だけが小さくからころと鳴った。
パウルが仕上がった後も、劇場は明るかった。
子どもたちは笑い、大人たちは懐かしそうに目を細めた。人形たちは以前よりもよく動く。古い木の王様も、布の姫も、小さな竜も、まるで何年も若返ったようだった。
けれど、舞台の裏手へ回る者は少ない。
そこにいるパウルを見れば、笑い声は少しだけ形を変えてしまうからだ。
彼は糸を持っている。
糸を操っているようにも見えるし、糸に支えられて立っているようにも見える。表情は穏やかだった。苦しそうではない。むしろ、舞台の笑い声が大きくなるほど、彼の肩から力が抜けていくようだった。
ある日、以前「おじさんは笑わないの」と聞いた子どもが、また劇を見に来た。
終演後、その子は舞台裏の入口まで来て、そっと覗いた。
パウルは笑っていなかった。
でも、子どもを見ると、人形の竜をひょいと動かした。竜は帽子をかぶって、お辞儀をした。
子どもは少しだけ笑った。
それから、すぐに笑うのをやめた。
パウルはその顔を見ていた。
笑わせるための指だけが、まだ正しく動いていた。
お読みいただきありがとうございます。
また満願堂へお立ち寄りいただけましたら幸いです。




