第二十六話 君を待つ時計
ロザは、停留所で待つことに慣れていた。
月環街の北門近くにある駅馬車の停留所で、切符を売り、荷物を預かり、時刻を告げる。旅立つ者と帰る者を見る仕事だった。
彼女には息子がいた。
ロザの息子は、よく旅の話をした。
子どもの頃から、月環街の外に強い憧れを持っていた。遠くの港。大きな橋。砂色の街。雪の降る村。停留所に貼られた行き先の名を、彼はまるで宝石の名前のように読み上げた。
ロザは笑って聞いていた。
行っておいで、と言ったのは彼女だった。
外の世界を見たいなら、見ておいで。帰る場所はここにあるから。
そう送り出した。
最初の手紙には、道中の花のことが書かれていた。二通目には、働き口が見つかったこと。三通目には、冬が寒いこと。四通目には、もう少ししたら帰るかもしれない、とあった。
それが最後だった。
死んだ知らせがないことは、希望になった。
生きている知らせがないことは、同じだけの苦しみになった。
二十年前、遠くの街へ行った。手紙は最初の数年だけ届いた。その後、途切れた。死んだという知らせはない。生きているという知らせもない。
ロザは待った。
停留所で働きながら、毎日馬車を見た。
降りてくる人の顔を見て、息子ではないと確認する。それを一日に何度も繰り返した。
待つことは苦しかった。
けれど、待たなくなることの方が怖かった。
満願堂へ来たのは、冬の終わりだった。
「待っている人が来たら、分かるような品はありますか」
リゼットは表の棚から、小さな銀のベルを出した。
「迎え音のベルです。待っている方が近くまで来ると、小さく鳴ります。表の棚の願具です」
リゼットは返りについても告げた。鳴らない時間が、少し長く感じられること。
ロザは小さく笑った。
十分長い時間を、もう二十年も持っている。
ロザは迎え音のベルの代金を支払った。
ベルは鳴らなかった。
ベルは、いつもロザの腰に下がっていた。
切符を渡す時、荷物札を結ぶ時、馬車の到着を告げる鐘を鳴らす時。小さなベルは、彼女の服の内側で鳴らずに揺れている。
鳴らないことにも、音がある。
ロザはそれを知った。
朝一番の馬車が来る。鳴らない。
昼の急ぎ便が来る。鳴らない。
夕方の遠方便が、車輪をきしませながら停まる。鳴らない。
鳴らないたびに、ロザは小さく息を吐いた。落胆しているのか、安心しているのか、自分でも分からなくなっていった。
もし鳴ったら。
もし本当に息子が近くにいると分かったら。
その時、自分はどういう顔をすればいいのだろう。
一日待っても、十日待っても、ひと月待っても、鳴らなかった。
鳴らない時間は長かった。
それでも、ベルがあることで、待つ理由が形になった。
やがてロザは、もっと強い品を求めた。
リゼットは奥の棚から時計を出した。
「君を待つ時計です。魔願具にあたります」
古い懐中時計だった。蓋には小さな月環の模様がある。
「待つ相手が戻る可能性のある時間だけ、針が進みます」
「止まっていたら?」
「その時間には戻らないということです」
リゼットは、使うほどにそれ以外の時間が意味を失っていくことも告げた。
ロザは時計を見たまま頷き、代金を支払った。
リゼットは納願帳を開いた。
ロザは書いた。
息子を待ちたい。
時計は、ほとんど止まっていた。
懐中時計は、止まっている時間の方が多かった。
だが、完全な沈黙ではない。まるで眠っている獣のように、時折かすかに内側で音を立てる。その音を聞くたび、ロザの背筋は伸びた。
針が動くのは、決まって馬車が近づく少し前だった。
ロザはその数分を恐れ、待ち、愛した。
停留所の他の者は、彼女が最近ぼんやりしていると言った。客に切符を渡し忘れそうになる。茶を冷ます。隣人の話に頷いていながら、何も聞いていない。
ロザにとって、針が止まっている時間は、もう薄い紙のようだった。
破れても、濡れても、構わない。
針が動く時間だけが、厚みを持っていた。
朝、馬車が来る頃に少しだけ針が動く。夕方、遠方便が着く頃にまた動く。それ以外の時間は、ただの金属の塊のように止まっている。
ロザは、針が動く時だけ生きているような気がした。
食事をしていても、時計が止まっていれば味がしない。近所の人が話しかけても、針が動かない時間なら耳に入らない。夜はただ、次に針が動くまでの余白になった。
ある日、リゼットは尋ねた。
「ロザさんは、息子さんが戻られることを望んでいらっしゃいますか」
「もちろんよ」
「それとも、待つ時間を失いたくないのでしょうか」
ロザは怒ろうとした。
だが、言葉が出なかった。
息子が帰ってきたら、自分は何を待てばいいのだろう。
もし帰ってこないと分かったら、自分は何だったのだろう。
二十年分の朝と夕方は、何のためにあったのだろう。
ロザは時計を見た。
針は止まっている。
「私は、あの子を待っていたのかしら」
リゼットは何も言わなかった。
「それとも、待っている私を、手放せなかったのかしら」
その声は、老女のものにしては小さかった。
ロザは時計を納めた。
「魔願具ですので、納めることはできます」
リゼットは時計を受け取る。
「もう待てなくなりますか」
「待つことはできます。けれど、時計が時を選ぶことはなくなります」
「そう」
ロザは少しだけ寂しそうに笑った。
「では、私が選ぶしかないわね」
停留所へ戻った日、馬車はいつも通り着いた。
息子は降りてこなかった。
ロザはその顔ぶれを見て、少しだけ肩を落とした。
そして、次の客へ切符を渡した。
待つ時間はまだ痛かった。
けれど、時計が止めていた他の時間も、少しずつ戻ってきた。
朝の茶。昼の市場。夕方の空。隣家の子どもの声。
どれも、息子ではない。
けれど、無意味ではなかった。
満願堂では、モルが懐中時計を嗅いでいた。
「待つにおい」
「ええ」
「まだ待つ?」
「きっと」
リゼットは時計を奥の棚へ納めた。
「待つことも、願いですから」
時計を納めてから、ロザは停留所の時刻表を張り替えた。
古い紙は端が丸まり、雨で少し波打っていた。今までは、そんなことに気づかなかった。馬車の到着時刻だけを見ていたからだ。
新しい時刻表を貼ると、停留所が少し明るく見えた。
隣の菓子屋の娘が言った。
「ロザさん、今日は機嫌がいいの?」
「そう見える?」
「いつもより、こっち見てる」
ロザは少し笑った。
今まで、自分がどれほど遠くばかり見ていたのか、その時初めて分かった。
息子を待つことはやめていない。
馬車が着けば、今でも顔を上げる。遠方便の乗客が降りるたび、胸の奥が小さく痛む。
けれど、降りてこない顔を確認した後、彼女はすぐ次の人へ切符を渡せるようになった。
待つ時間だけが人生ではない。
そう思える日と、思えない日がある。
その揺れを、時計はもう選んでくれない。
だからロザは自分で選ぶ。
夕方、停留所の椅子に座り、遠い街へ向かう若者に切符を渡した。
「帰る場所はありますか」
若者は少し驚いて笑った。
「あります。たぶん」
「なら、手紙を書きなさい」
ロザは言った。
若者はきょとんとして、それから真面目に頷いた。
その夜、ロザは久しぶりに息子宛ての手紙を書いた。
届くかどうかは分からない。
それでも、待つだけではない時間をひとつ作れた気がした。
季節が一つ変わっても、息子からの返事は来なかった。
ロザはそれを、以前ほど世界の終わりのようには受け取らなかった。
悲しくないわけではない。
馬車の屋根に雨が当たる日、遠くから来た若い男の横顔が息子に似ていた日、切符売り場の隅から古い手紙が出てきた日。そういう時には、胸が強く痛む。
けれど、痛みが来るたび、ロザは停留所の椅子へ座る。
待っている自分を、少し横から見る。
二十年も待っていた女。
それは愚かかもしれない。立派かもしれない。どちらでもないかもしれない。
ただ、その時間の中に、自分の暮らしもあった。
切符を買いに来る人々の顔。荷物を預ける手。帰る者の笑顔。旅立つ者の不安。
息子だけを待っていたつもりで、ロザはずっと、たくさんの人の行き来を見ていた。
ある日、小さな子どもが停留所で泣いていた。母親が乗る馬車を間違えたらしい。
ロザはその子の隣に座り、次の便まで一緒に待った。
「待つの、いや」
子どもは言った。
「そうね」
ロザは頷いた。
「でも、待っている間に見えるものもあるわ」
子どもは泣き止まなかった。
それでも、馬車が来る頃には、ロザの手を握っていた。
満願堂に納められた時計は、時々かすかに針を動かした。
誰かが待っている時。誰かが待つことをやめようとしている時。あるいは、待たれていることに気づかない誰かが、遠くの道を歩いている時。
モルはその音を聞くと、耳を立てた。
「また待ってる」
リゼットは棚を見た。
「待つ願いは、なかなか終わりませんから」
「終わらない?」
「ええ。帰ってこない人がいても、待った時間まで消えるわけではございません」
ロザは時々、満願堂へ来るようになった。
時計を納めた後でも、待つことが終わったわけではない。むしろ、時計がなくなった分だけ、待つ時間は自分のものになった。
エリアスのいる窓際から少し離れた席で、ロザは紅茶を飲む。停留所で見る人の流れとは違う、静かな時間だった。
ある日、彼女はリゼットに言った。
「息子が帰ってきたら、私は怒ると思う」
リゼットはカップを置いた。
「そうですか」
「泣くとも思う。でも、最初に怒るわ。二十年も待たせて、と」
ロザは少し笑った。
「そんなこと、前は思えなかった。帰ってきてくれればそれだけでいいと思っていたから」
「今は違うのですね」
「ええ。待っていた私にも、言いたいことがあるみたい」
それは、小さな変化だった。
待つだけの女ではなく、帰ってきた人に何かを言える女になること。
ロザはその変化を、少し恥ずかしく、少し大切に思った。
ロザは、時計を納めた後も停留所の掃除を続けた。
待つ人が帰ってくるかどうかに関係なく、朝は来る。馬車は出る。客は切符を買う。荷物は預からなければならない。
以前は、それらすべてが息子を待つための背景だった。
今は少しだけ違う。
ある日、旅立つ若い娘が切符を買いに来た。遠くの街で働くらしい。母親は泣いていた。
ロザは切符を渡しながら言った。
「手紙は出しなさい」
娘は笑った。
「はい」
「最初の数年だけではなく」
娘は不思議そうな顔をしたが、もう一度頷いた。
それだけの会話だった。
だが、馬車が出た後、泣いていた母親がロザに礼を言った。
「ありがとう。私が言うと、きっと喧嘩になるから」
ロザは首を横へ振った。
「私も、昔言えばよかったと思っただけです」
待つことは、ただ黙っていることではない。
そう思えるまでに二十年かかった。
満願堂の奥の棚では、君を待つ時計が止まっている。針はもうロザの時間を選ばない。
けれど、ロザ自身の時間は進んでいる。
モルがその時計の前で言う。
「待つのに、進む?」
「ええ」
リゼットは答える。
「待つことと、止まることは同じではありませんから」
モルは少し考え、丸くなった。
「むずかしい」
「そうですね」
リゼットは棚を閉じる。
「だから、人は時計を持つのかもしれません」
お読みいただきありがとうございます。
また満願堂へお立ち寄りいただけましたら幸いです。




