第二十五話 嘘を飾る口紅
ミレーヌは、本当のことを言うのが苦手だった。
ミレーヌの母は、言葉の美しい人だった。
怒る時でさえ、声は荒げない。相手を刺す言葉も、白い手袋で包むように差し出す。社交界ではそれが教養であり、家を守る術だった。
「本当のことを、そのまま言ってはいけません」
母はよく言った。
「本当のことほど、角を削ってお出しなさい」
幼いミレーヌは、その言葉を素直に覚えた。角を削り、色を整え、香りを足す。そうすれば、誰も傷つかない。誰からも嫌われない。
けれど、大人になるにつれ、彼女は気づいた。
角を削った言葉は、時々、中身までなくなる。
美しく笑った後、自分が何を思っていたのか分からなくなる夜が増えた。鏡の前で唇を整えるたび、これは自分の顔なのか、誰かに見せるための仮面なのか、少しだけ分からなくなった。
社交の場では、言葉は花飾りのようなものだ。少し香りを足し、色を整え、棘を隠す。そう教えられて育った。
楽しくない時にも、楽しいと言う。会いたくない相手にも、またお会いしたいと言う。嫌いなドレスにも、よくお似合いですと言う。
それは嘘ではなく、礼儀だと言われてきた。
だが、ミレーヌには分からなくなっていた。
どこまでが礼儀で、どこからが嘘なのか。
リゼットが表の棚から出したのは、薄い包みに入った飴だった。
「言葉を整える飴です。舐めている間、少しだけ口調が柔らかくなります。表の棚の願具です」
リゼットは、言いたかったことが少し遅れて出てくることもあると告げた。
ミレーヌは飴を見た。
遅れるなら、むしろ助かる。
そう思って、彼女は代金を支払った。
飴はよく効いた。
人前で言葉に詰まることが減った。角の立つ言い方を避けられるようになった。少しだけ、社交が楽になった。
だが、飴が溶けると本音が戻る。
戻った本音は、以前よりも重かった。
満願堂へ戻ると、リゼットは奥の棚から小さな口紅を出した。
「嘘を飾る口紅です。魔願具にあたります」
黒い筒に収められた、深い薔薇色の口紅だった。
「塗ると、どんな嘘も美しく聞こえます」
ミレーヌは口紅を見つめた。
「……では、飾れない言葉はどうなるの」
「本当の言葉ほど、醜く感じられることがございます」
リゼットはそう告げた。
ミレーヌは少しだけ迷った。
けれど、社交の場で醜い本音など必要ない。
ミレーヌは嘘を飾る口紅の代金を支払った。
リゼットは納願帳を開いた。
ミレーヌは書いた。
美しく話せるようになりたい。
モルは口紅を見て、少しだけ鼻を引いた。
口紅はよく効いた。
口紅は、塗った瞬間から違った。
鏡の中の唇が、ほんの少しだけ深い色になる。派手ではない。けれど、言葉がそこを通れば必ず美しくなると分かる色だった。
最初の夜会で、ミレーヌは苦手な婦人に会った。いつも人の服や噂を、柔らかな声で傷つける人だった。
「まあ、ミレーヌさん。そのお色、少し大人びすぎではなくて?」
いつもなら、胸の奥に小さな棘が刺さる。
だが、その夜のミレーヌは微笑んだ。
「ありがとうございます。背伸びをしていると気づいていただけるなんて、よく見てくださっているのですね」
婦人は一瞬言葉を失い、それから笑った。
刺したのか、褒めたのか、自分でも分からない。
ただ、周囲の人々はそれを優雅な受け答えとして聞いた。
ミレーヌはその時、口紅の力を好きになった。
ミレーヌの言葉は、花のようになった。断る時も美しく、褒める時はもっと美しい。誰かを遠ざける言葉でさえ、相手は微笑んで受け取った。
彼女は社交界で評判になった。
ミレーヌさんの言葉は優雅だ。ミレーヌさんに褒められると、自分が特別に思える。ミレーヌさんは誰を傷つけない。
そう言われるたび、彼女は口紅を手放せなくなった。
やがて、好きな相手ができた。
青年の名はエドガーといった。
彼は社交場でよく壁際に立っていた。人の輪に入るのが嫌いなわけではない。ただ、言葉を選びすぎる人々の中で、少し息苦しそうに見えた。
ミレーヌは、彼といる時だけ、口紅を塗り直す回数が減った。
彼は褒め言葉を求めなかった。気の利いた冗談にもあまり笑わない。代わりに、彼女が言葉に詰まると、黙って待った。
待たれることに、ミレーヌは慣れていなかった。
美しい言葉をすぐに返さなければ、相手は退屈する。そう思ってきたからだ。
けれど、エドガーは退屈しなかった。
だからこそ、彼にだけは本当のことを言いたかった。
言いたかったのに、いちばん言えなくなった。
寡黙な青年だった。飾った言葉をあまり好まない人で、ミレーヌの話を静かに聞いてくれる。
ある夕方、彼は言った。
「あなたの本当の言葉が聞きたい」
ミレーヌは唇に触れた。
口紅は塗っている。
言えるはずだった。
あなたといると安心する。飾らなくていい気がする。そんな言葉が胸にあった。
けれど、それを口にしようとすると、ひどく醜く思えた。
飾りのない言葉。形の悪い石ころのような本音。そんなものを差し出せば、相手が幻滅する気がした。
代わりに、彼女は美しく笑った。
「あなたは、どなたにもそう仰るのでしょう」
青年は少し悲しそうな顔をした。
「そうですか」
そのまま、距離ができた。
ミレーヌは満願堂へ行った。
「これを納めます」
口紅を差し出す。
リゼットは両手で受け取った。
「はい。魔願具ですので、納めることはできます」
「本当の言葉は、戻りますか」
「戻るでしょう。けれど、言わなかった時間は戻りません」
ミレーヌは俯いた。
「彼に、何と言えばいいのか分からないの」
「美しくなくてもよいのではありませんか」
リゼットの声は静かだった。
「本当の言葉は、飾りではございませんから」
ミレーヌは泣きそうになった。
涙も、きっと美しくない。
それでも、目の奥が熱くなった。
モルは口紅を嗅ぎ、少しだけ舌を出した。
数日後、ミレーヌは青年に会った。
何度も言葉を選びかけ、そのたびにやめた。
最後に出た言葉は、ひどく短かった。
「好きでした」
過去形になってしまった。
青年は黙って聞いた。
「今も、かもしれません。でも、上手く言えません」
それは、美しくなかった。
けれど、青年は初めて少しだけ笑った。
「その方が、あなたの声に聞こえます」
満願堂では、リゼットが口紅を奥の棚へ納めていた。
黒い筒の表面には、まだ深い薔薇色の光が残っている。
モルは少し離れたところから、それを見ていた。
「まだ、にがい」
「ええ」
リゼットは棚を閉じた。
「けれど、苦い言葉にも届く場所はございます」
口紅を納めてからしばらく、ミレーヌは社交の場に出るのが怖くなった。
美しく話せない自分が、どれほど不器用なのかを知ったからだ。
褒める言葉は短くなる。断る言葉はぎこちない。嫌なことを嫌と言うと、相手が眉を寄せる。角を削りすぎた言葉に慣れていた人々は、彼女の素の言葉を少し粗く感じたようだった。
ミレーヌ自身もそう思った。
自分の本音は、磨かれていない石のようだった。
けれど、石には重さがあった。
ある夜会で、彼女は以前なら美しく笑って受け流しただろう誘いを断った。
「今日は疲れています」
それだけだった。
相手は少し不満そうだった。周囲の空気も一瞬だけ濁った。
だが、ミレーヌの胸は軽かった。
帰り道、エドガーが隣を歩いた。
「今日の言葉は、短かったですね」
「失礼でしたか」
「いいえ」
彼は少し笑った。
「あなたが疲れていると、初めて分かりました」
ミレーヌは立ち止まりそうになった。
伝わるとは、こういうことなのかもしれない。
美しく飾れば、誰も傷つかない。けれど、誰にも届かない言葉もある。
満願堂の奥の棚で、嘘を飾る口紅は静かに眠っている。
その前を通る時、モルは時々足を止める。
けれど、以前ほど長くは鼻を近づけない。
甘さが薄れた分、苦さも少しだけ遠くなっていた。
ミレーヌは母にも会った。
本当の言葉を角を削って出しなさいと教えた人。自分を社交の場へ送り出し、どんな場でも美しく笑えるように育てた人。
母は、口紅を塗らなくなった娘を見て、少しだけ眉を上げた。
「今日はお顔が寂しく見えるわ」
以前なら、ミレーヌは美しく返しただろう。
そうでしょうか。母上の前では、つい子どもの顔に戻ってしまうのかもしれません。
それくらいのことは言えた。
けれど、その日は言わなかった。
「疲れています」
母は黙った。
「それから、少し怒っています」
「私に?」
「はい」
空気が固くなる。
ミレーヌの手は震えた。けれど、言葉は戻さなかった。
「美しく話すことを教えてくださったことは、感謝しています。でも、私は本当のことを話す方法をあまり知りません」
母はすぐには答えなかった。
長い沈黙の後、彼女は小さく息を吐いた。
「私も、知らなかったのかもしれないわ」
その言葉は美しくなかった。
でも、ミレーヌは初めて、母の声が自分の方へ届いた気がした。
ミレーヌは、それからも時々言葉を飾った。
すべての本音をそのまま出せばいいわけではない。棘を削る優しさもある。沈黙した方が守れるものもある。
ただ、以前と少し違うのは、自分が何を削ったのかを覚えていることだった。
嘘を飾る口紅はもうない。
だからこそ、彼女は鏡の前で唇を整えるたび、自分の声がどこから来るのかを確かめるようになった。
美しく言うためではなく、届かせるために。
エドガーとの関係がすぐに元へ戻ったわけではない。
言わなかった言葉は戻らない。口紅を納めても、誤解がほどけるわけではない。
二人はしばらく、短い会話を重ねた。
天気の話。読んだ本の話。社交場で出た菓子の話。どれも大事な話ではない。けれど、ミレーヌはその一つ一つを、飾りすぎないように差し出した。
エドガーも急かさなかった。
ある日、彼は言った。
「あなたの言葉は、前より少し遅くなりました」
ミレーヌは恥ずかしくなった。
「退屈ですか」
「いいえ」
彼は首を横に振る。
「待てるようになりました」
その言葉は、どんな褒め言葉よりもミレーヌの胸に残った。
美しい嘘は一瞬で人を包む。
本当の言葉は、時々、出てくるまでに時間がかかる。
それを待ってくれる人がいるなら、醜くても少しずつ差し出せる。
ミレーヌは、まだ上手く話せない。
けれど、上手く話せない自分を、以前ほど醜いとは思わなくなった。
口紅を納めた後も、ミレーヌの暮らしから嘘が消えたわけではない。
社交の場では、今日も誰かが飾った言葉を交わす。楽しくないのに楽しいと言い、また会いたいとは思わない相手に招待を約束する。
ミレーヌも、時々その輪の中に入る。
ただ、以前と違うのは、嘘をつく前に一度だけ考えるようになったことだった。
これは何を守るための嘘なのか。
相手を傷つけないためか。場を壊さないためか。自分を守るためか。それとも、ただ綺麗に見られたいだけなのか。
答えが分かる時もあれば、分からない時もある。
分からない時、ミレーヌは後で手帳に書いた。
書かれた言葉は、あまり美しくない。けれど、紙の上に置けば、自分から少し離れて見える。
ある日、彼女は満願堂でただの無地の手帳を買った。
願具ではない。ただの手帳。
「満願堂で普通のものを買うのは、変かしら」
「いいえ」
リゼットは微笑んだ。
「普通のものにも、行き先はございます」
モルが手帳を覗き込む。
「におい、まだない」
「これから書くの」
「うそ?」
「本音も嘘も」
モルは少し考えた。
「いっぱい?」
「たぶん」
ミレーヌは笑った。
嘘を飾る口紅は奥の棚で休んでいる。必要とする人はまた現れるかもしれない。嘘でしか自分を守れない夜もあるだろう。
けれどミレーヌは、今はまだ自分の唇の薄い色で話してみようと思った。
飾らない言葉は震える。
それでも、震えていることまで自分のものだと思えた。
お読みいただきありがとうございます。
また満願堂へお立ち寄りいただけましたら幸いです。




