表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第一章 表の棚に並ぶもの

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/72

第二十五話 嘘を飾る口紅

ミレーヌは、本当のことを言うのが苦手だった。


ミレーヌの母は、言葉の美しい人だった。


怒る時でさえ、声は荒げない。相手を刺す言葉も、白い手袋で包むように差し出す。社交界ではそれが教養であり、家を守る術だった。


「本当のことを、そのまま言ってはいけません」


母はよく言った。


「本当のことほど、角を削ってお出しなさい」


幼いミレーヌは、その言葉を素直に覚えた。角を削り、色を整え、香りを足す。そうすれば、誰も傷つかない。誰からも嫌われない。


けれど、大人になるにつれ、彼女は気づいた。


角を削った言葉は、時々、中身までなくなる。


美しく笑った後、自分が何を思っていたのか分からなくなる夜が増えた。鏡の前で唇を整えるたび、これは自分の顔なのか、誰かに見せるための仮面なのか、少しだけ分からなくなった。


社交の場では、言葉は花飾りのようなものだ。少し香りを足し、色を整え、棘を隠す。そう教えられて育った。


楽しくない時にも、楽しいと言う。会いたくない相手にも、またお会いしたいと言う。嫌いなドレスにも、よくお似合いですと言う。


それは嘘ではなく、礼儀だと言われてきた。


だが、ミレーヌには分からなくなっていた。


どこまでが礼儀で、どこからが嘘なのか。


リゼットが表の棚から出したのは、薄い包みに入った飴だった。


「言葉を整える飴です。舐めている間、少しだけ口調が柔らかくなります。表の棚の願具です」


リゼットは、言いたかったことが少し遅れて出てくることもあると告げた。


ミレーヌは飴を見た。


遅れるなら、むしろ助かる。


そう思って、彼女は代金を支払った。


飴はよく効いた。


人前で言葉に詰まることが減った。角の立つ言い方を避けられるようになった。少しだけ、社交が楽になった。


だが、飴が溶けると本音が戻る。


戻った本音は、以前よりも重かった。


満願堂へ戻ると、リゼットは奥の棚から小さな口紅を出した。


「嘘を飾る口紅です。魔願具にあたります」


黒い筒に収められた、深い薔薇色の口紅だった。


「塗ると、どんな嘘も美しく聞こえます」


ミレーヌは口紅を見つめた。


「……では、飾れない言葉はどうなるの」


「本当の言葉ほど、醜く感じられることがございます」


リゼットはそう告げた。


ミレーヌは少しだけ迷った。


けれど、社交の場で醜い本音など必要ない。


ミレーヌは嘘を飾る口紅の代金を支払った。


リゼットは納願帳を開いた。


ミレーヌは書いた。


美しく話せるようになりたい。


モルは口紅を見て、少しだけ鼻を引いた。


口紅はよく効いた。


口紅は、塗った瞬間から違った。


鏡の中の唇が、ほんの少しだけ深い色になる。派手ではない。けれど、言葉がそこを通れば必ず美しくなると分かる色だった。


最初の夜会で、ミレーヌは苦手な婦人に会った。いつも人の服や噂を、柔らかな声で傷つける人だった。


「まあ、ミレーヌさん。そのお色、少し大人びすぎではなくて?」


いつもなら、胸の奥に小さな棘が刺さる。


だが、その夜のミレーヌは微笑んだ。


「ありがとうございます。背伸びをしていると気づいていただけるなんて、よく見てくださっているのですね」


婦人は一瞬言葉を失い、それから笑った。


刺したのか、褒めたのか、自分でも分からない。


ただ、周囲の人々はそれを優雅な受け答えとして聞いた。


ミレーヌはその時、口紅の力を好きになった。


ミレーヌの言葉は、花のようになった。断る時も美しく、褒める時はもっと美しい。誰かを遠ざける言葉でさえ、相手は微笑んで受け取った。


彼女は社交界で評判になった。


ミレーヌさんの言葉は優雅だ。ミレーヌさんに褒められると、自分が特別に思える。ミレーヌさんは誰を傷つけない。


そう言われるたび、彼女は口紅を手放せなくなった。


やがて、好きな相手ができた。


青年の名はエドガーといった。


彼は社交場でよく壁際に立っていた。人の輪に入るのが嫌いなわけではない。ただ、言葉を選びすぎる人々の中で、少し息苦しそうに見えた。


ミレーヌは、彼といる時だけ、口紅を塗り直す回数が減った。


彼は褒め言葉を求めなかった。気の利いた冗談にもあまり笑わない。代わりに、彼女が言葉に詰まると、黙って待った。


待たれることに、ミレーヌは慣れていなかった。


美しい言葉をすぐに返さなければ、相手は退屈する。そう思ってきたからだ。


けれど、エドガーは退屈しなかった。


だからこそ、彼にだけは本当のことを言いたかった。


言いたかったのに、いちばん言えなくなった。


寡黙な青年だった。飾った言葉をあまり好まない人で、ミレーヌの話を静かに聞いてくれる。


ある夕方、彼は言った。


「あなたの本当の言葉が聞きたい」


ミレーヌは唇に触れた。


口紅は塗っている。


言えるはずだった。


あなたといると安心する。飾らなくていい気がする。そんな言葉が胸にあった。


けれど、それを口にしようとすると、ひどく醜く思えた。


飾りのない言葉。形の悪い石ころのような本音。そんなものを差し出せば、相手が幻滅する気がした。


代わりに、彼女は美しく笑った。


「あなたは、どなたにもそう仰るのでしょう」


青年は少し悲しそうな顔をした。


「そうですか」


そのまま、距離ができた。


ミレーヌは満願堂へ行った。


「これを納めます」


口紅を差し出す。


リゼットは両手で受け取った。


「はい。魔願具ですので、納めることはできます」


「本当の言葉は、戻りますか」


「戻るでしょう。けれど、言わなかった時間は戻りません」


ミレーヌは俯いた。


「彼に、何と言えばいいのか分からないの」


「美しくなくてもよいのではありませんか」


リゼットの声は静かだった。


「本当の言葉は、飾りではございませんから」


ミレーヌは泣きそうになった。


涙も、きっと美しくない。


それでも、目の奥が熱くなった。


モルは口紅を嗅ぎ、少しだけ舌を出した。


数日後、ミレーヌは青年に会った。


何度も言葉を選びかけ、そのたびにやめた。


最後に出た言葉は、ひどく短かった。


「好きでした」


過去形になってしまった。


青年は黙って聞いた。


「今も、かもしれません。でも、上手く言えません」


それは、美しくなかった。


けれど、青年は初めて少しだけ笑った。


「その方が、あなたの声に聞こえます」


満願堂では、リゼットが口紅を奥の棚へ納めていた。


黒い筒の表面には、まだ深い薔薇色の光が残っている。


モルは少し離れたところから、それを見ていた。


「まだ、にがい」


「ええ」


リゼットは棚を閉じた。


「けれど、苦い言葉にも届く場所はございます」


口紅を納めてからしばらく、ミレーヌは社交の場に出るのが怖くなった。


美しく話せない自分が、どれほど不器用なのかを知ったからだ。


褒める言葉は短くなる。断る言葉はぎこちない。嫌なことを嫌と言うと、相手が眉を寄せる。角を削りすぎた言葉に慣れていた人々は、彼女の素の言葉を少し粗く感じたようだった。


ミレーヌ自身もそう思った。


自分の本音は、磨かれていない石のようだった。


けれど、石には重さがあった。


ある夜会で、彼女は以前なら美しく笑って受け流しただろう誘いを断った。


「今日は疲れています」


それだけだった。


相手は少し不満そうだった。周囲の空気も一瞬だけ濁った。


だが、ミレーヌの胸は軽かった。


帰り道、エドガーが隣を歩いた。


「今日の言葉は、短かったですね」


「失礼でしたか」


「いいえ」


彼は少し笑った。


「あなたが疲れていると、初めて分かりました」


ミレーヌは立ち止まりそうになった。


伝わるとは、こういうことなのかもしれない。


美しく飾れば、誰も傷つかない。けれど、誰にも届かない言葉もある。


満願堂の奥の棚で、嘘を飾る口紅は静かに眠っている。


その前を通る時、モルは時々足を止める。


けれど、以前ほど長くは鼻を近づけない。


甘さが薄れた分、苦さも少しだけ遠くなっていた。


ミレーヌは母にも会った。


本当の言葉を角を削って出しなさいと教えた人。自分を社交の場へ送り出し、どんな場でも美しく笑えるように育てた人。


母は、口紅を塗らなくなった娘を見て、少しだけ眉を上げた。


「今日はお顔が寂しく見えるわ」


以前なら、ミレーヌは美しく返しただろう。


そうでしょうか。母上の前では、つい子どもの顔に戻ってしまうのかもしれません。


それくらいのことは言えた。


けれど、その日は言わなかった。


「疲れています」


母は黙った。


「それから、少し怒っています」


「私に?」


「はい」


空気が固くなる。


ミレーヌの手は震えた。けれど、言葉は戻さなかった。


「美しく話すことを教えてくださったことは、感謝しています。でも、私は本当のことを話す方法をあまり知りません」


母はすぐには答えなかった。


長い沈黙の後、彼女は小さく息を吐いた。


「私も、知らなかったのかもしれないわ」


その言葉は美しくなかった。


でも、ミレーヌは初めて、母の声が自分の方へ届いた気がした。


ミレーヌは、それからも時々言葉を飾った。


すべての本音をそのまま出せばいいわけではない。棘を削る優しさもある。沈黙した方が守れるものもある。


ただ、以前と少し違うのは、自分が何を削ったのかを覚えていることだった。


嘘を飾る口紅はもうない。


だからこそ、彼女は鏡の前で唇を整えるたび、自分の声がどこから来るのかを確かめるようになった。


美しく言うためではなく、届かせるために。


エドガーとの関係がすぐに元へ戻ったわけではない。


言わなかった言葉は戻らない。口紅を納めても、誤解がほどけるわけではない。


二人はしばらく、短い会話を重ねた。


天気の話。読んだ本の話。社交場で出た菓子の話。どれも大事な話ではない。けれど、ミレーヌはその一つ一つを、飾りすぎないように差し出した。


エドガーも急かさなかった。


ある日、彼は言った。


「あなたの言葉は、前より少し遅くなりました」


ミレーヌは恥ずかしくなった。


「退屈ですか」


「いいえ」


彼は首を横に振る。


「待てるようになりました」


その言葉は、どんな褒め言葉よりもミレーヌの胸に残った。


美しい嘘は一瞬で人を包む。


本当の言葉は、時々、出てくるまでに時間がかかる。


それを待ってくれる人がいるなら、醜くても少しずつ差し出せる。


ミレーヌは、まだ上手く話せない。


けれど、上手く話せない自分を、以前ほど醜いとは思わなくなった。


口紅を納めた後も、ミレーヌの暮らしから嘘が消えたわけではない。


社交の場では、今日も誰かが飾った言葉を交わす。楽しくないのに楽しいと言い、また会いたいとは思わない相手に招待を約束する。


ミレーヌも、時々その輪の中に入る。


ただ、以前と違うのは、嘘をつく前に一度だけ考えるようになったことだった。


これは何を守るための嘘なのか。


相手を傷つけないためか。場を壊さないためか。自分を守るためか。それとも、ただ綺麗に見られたいだけなのか。


答えが分かる時もあれば、分からない時もある。


分からない時、ミレーヌは後で手帳に書いた。


書かれた言葉は、あまり美しくない。けれど、紙の上に置けば、自分から少し離れて見える。


ある日、彼女は満願堂でただの無地の手帳を買った。


願具ではない。ただの手帳。


「満願堂で普通のものを買うのは、変かしら」


「いいえ」


リゼットは微笑んだ。


「普通のものにも、行き先はございます」


モルが手帳を覗き込む。


「におい、まだない」


「これから書くの」


「うそ?」


「本音も嘘も」


モルは少し考えた。


「いっぱい?」


「たぶん」


ミレーヌは笑った。


嘘を飾る口紅は奥の棚で休んでいる。必要とする人はまた現れるかもしれない。嘘でしか自分を守れない夜もあるだろう。


けれどミレーヌは、今はまだ自分の唇の薄い色で話してみようと思った。


飾らない言葉は震える。


それでも、震えていることまで自分のものだと思えた。


お読みいただきありがとうございます。


また満願堂へお立ち寄りいただけましたら幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ