表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第一章 表の棚に並ぶもの

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/71

第二十三話 選ばれる赤い靴

ベアトは、舞踏会に憧れていた。


大広間の灯り。磨かれた床。音楽に合わせて回る裾。差し出される手。名を呼ばれ、選ばれ、誰かの視線の中心になる瞬間。


彼女は裕福な家の娘ではない。仕立屋で働きながら、余った布切れで自分用のリボンを作る。舞踏会へ招かれることなどほとんどなかったが、月環街では春と秋に、身分の低い者でも参加できる小さな夜会がある。


ベアトはそこで、誰かに選ばれたかった。


好きな人はいた。


けれど、本当はその人でなくてもよかったのかもしれない。


誰かが自分の前で足を止め、手を差し出し、選んでくれれば。


ベアトの部屋には、赤い布切れが箱いっぱいに入っていた。


大きな布は買えない。けれど仕立屋で働いていると、端切れだけは少しずつ手に入る。深い赤、薄い赤、夕暮れのような赤、熟した木の実のような赤。彼女はそれを小さなリボンにし、鏡の前で髪に当てた。


赤は、選ばれる色だと思っていた。


白い布は清らかで、青い布は上品で、灰色は慎ましい。けれど赤だけは、遠くからでも視線を引く。


ベアトは自分の顔を特別醜いとは思っていない。けれど、人込みに入るとすぐに背景になる顔だった。誰かの友人。誰かの同僚。仕立屋の娘。そう呼ばれることはあっても、ただベアトとして視線を止められることは少ない。


夜会の話を聞くたび、胸が痛んだ。


踊りたいのではない。


たぶん、本当に欲しかったのは、差し出される手だった。


満願堂で、最初に選んだのは赤いリボンだった。


「目を引くリボンです。髪や帽子に結ぶと、少しだけ人目につきやすくなります。表の棚の願具です」


リゼットは、人目を引く分、誰にも見られていない時間が少し寂しくなると告げた。


ベアトはリボンを見た。


夜会から帰ったあとの部屋の静けさなら、もう知っている。


ベアトは目を引くリボンの代金を支払った。


リボンはよく効いた。


夜会で、いつもより何人かに声をかけられた。踊りに誘われるほどではなかったが、名前を聞かれた。ドレスを褒められた。顔を覚えてもらえた。


嬉しかった。


けれど、足りなかった。


満願堂へ戻ると、リゼットは奥の棚から赤い靴を出した。


「選ばれる赤い靴です。魔願具にあたります」


赤い革の靴だった。派手すぎない。けれど、一度見れば忘れられない色だった。


「これを履いて踊ると、誰かに誘われやすくなります」


その代わり、自分が誰を選びたいのか、分かりにくくなることがある。


リゼットはそう告げた。


ベアトは靴から目を離せなかった。


赤い靴は、靴箱を開けた瞬間から、彼女の足の形を知っているようだった。


履くと、少しだけ背が伸びた気がした。足首がきれいに見える。歩幅が自然に整う。鏡の中のベアトは、いつもの作業着姿の自分とは違った。


靴は高かった。


仕立屋の給金では、すぐに出せる額ではない。けれど、秋の夜会は一度きりだった。選ばれる夜があるなら、そこで使わずにいつ使うのか。


ベアトはそう自分に言い聞かせ、赤い靴の代金を支払った。


リゼットは納願帳を開いた。


ベアトが書いた文字は、少しだけ震えていた。


誰かに選ばれたい。


リゼットはその文字を見ても、何も言わなかった。モルだけが、靴の赤をじっと見ていた。


「選ばれるなら、誰でも」


言いかけて、自分で驚いた。


リゼットは責めなかった。


モルは靴ではなく、ベアトの足元を見ていた。


赤い靴を履いた夜、ベアトは何度も踊りに誘われた。


一曲目。二曲目。三曲目。音楽が変わるたび、誰かが手を差し出す。彼女は笑い、手を取り、踊った。


嬉しかった。


足が痛くても、嬉しかった。


だが、帰り道で分からなくなった。


誰と踊った時が一番楽しかったのか。誰にもう一度会いたいのか。誰に選ばれたいと思っていたのか。


記憶には手だけが残っている。


差し出された手。握った手。離れていった手。


夜会の終わり、ベアトは広場の端で靴を脱ぎたくなった。


足が痛い。けれど、痛みよりも、誰の手も残っていないことの方が不思議だった。あれほどたくさんの手を取ったのに、どれも同じ温度に思える。


最初の青年は何色の上着だったか。


二人目は何を話したか。


三人目は、名前を名乗っただろうか。


思い出そうとするほど、手だけが増えていく。差し出される手。握る手。離れていく手。


ベアトは、初めて怖くなった。


選ばれることは、誰かを選ぶことだと思っていた。けれど自分が誰を選びたいのか分からなければ、差し出された手は全部同じだった。


家に帰って、赤い靴を箱へ戻した。


蓋を閉めても、靴の赤だけが瞼の裏に残った。


相手の顔は、どれも少し曖昧だった。


次の夜会でも、ベアトは靴を履いた。


さらに多くの人に誘われた。笑顔が増えた。名前を呼ばれた。褒められた。


そのたび、彼女の中から「選びたい」という気持ちが薄くなっていった。


誰でもよくなる。


選ばれるなら。


ある晩、ベアトは満願堂へ来た。


「もっと強いものはありますか」


リゼットは静かに聞いた。


「何をお望みですか」


「私を選ぶ人なら、誰でもいい」


その言葉は、喉から自然に出た。


リゼットはすぐには動かなかった。


モルが足元で鼻を鳴らす。


「まだ、さびしいだけ」


ベアトは眉を寄せた。


「何が?」


リゼットは赤い靴を見た。


「ベアトさん。これ以上強い品は、お渡しできません」


「どうして。私、ちゃんと願っているわ」


「ええ。ですが、その願いにはまだ、ご自身で選びたいお気持ちが残っています」


「残っていないわ」


「そうでしょうか」


リゼットは赤い靴を見る。


「本当に誰でもよいのでしたら、今日ここへは来られなかったと思います」


ベアトは黙った。


選ばれたい。


でも、誰でもいいと言いながら、誰かに選ばれたあと、自分が何も感じなくなることが怖かった。


彼女は赤い靴を脱いだ。


「納めます」


リゼットは両手で受け取った。


「魔願具ですので、納めることはできます」


「また、誰にも誘われなくなりますか」


「誘われにくくなるかもしれません」


「寂しいですね」


「はい」


リゼットは静かに言った。


「けれど、選ぶことは、寂しさの中にもございます」


ベアトは満願堂を出た。


次の夜会では、彼女は普通の靴を履いた。


誘われたのは一度だけだった。


相手は上手く踊れない青年で、何度も足を踏みそうになった。ベアトは笑った。


不思議と、その顔はよく覚えていた。


満願堂では、モルが赤い靴を覗き込んでいた。


「まだ、踊りたい?」


「ええ」


リゼットは靴を奥の棚へ納める。


「けれど、今は休ませましょう」


「選ぶの、むずかしい」


「そうですね」


リゼットは少し微笑んだ。


「ですから、願いになるのでしょう」


赤い靴を納めた日、ベアトはまっすぐ家へ帰れなかった。


夜会の開かれた広場を通る。昼間の広場は、夜とはまるで違った。灯りはなく、音楽もなく、磨かれた床の代わりに石畳が白く乾いている。誰も彼女へ手を差し出さない。


それが寂しいのか、ほっとするのか、ベアトには分からなかった。


仕立屋へ戻ると、同僚の娘が声をかけた。


「夜会、楽しかった?」


ベアトは答えに詰まった。


楽しかった。


それは本当だ。


何度も踊った。選ばれた。笑った。自分が広間の光の中にいると感じた。


でも、誰と踊ったのかを話そうとすると、言葉が曖昧になる。手しか思い出せない。声も、顔も、自分の胸が跳ねた瞬間も、みんな赤い靴の色に染められている。


「楽しかったけど」


ベアトはゆっくり言った。


「次は、私が誘いたい人を決めてから行く」


同僚は目を丸くした。


「強気ね」


「怖いけど」


ベアトは笑った。


「選ばれるより、そっちの方が怖いみたい」


その夜、彼女は箱の中の赤い布切れを少し整理した。全部を捨てるわけではない。赤はまだ好きだった。


ただ、全部を赤にしなくてもいいと思った。


一枚だけ、淡い青のリボンを取り出す。


誰かに見つけてもらうためではなく、自分で好きだと思った色を、明日の髪に結ぶために。


満願堂の奥の棚で、赤い靴は静かに休んでいる。


モルは時々その前を通り、鼻を鳴らす。


「まだ、踊りたいにおい」


リゼットは棚を見て答えた。


「ええ。けれど今は、踊る相手を待っているのでしょう」


次の小さな夜会で、ベアトは赤い靴を履かなかった。


代わりに、淡い青のリボンを髪に結んだ。誰かの目を強く引く色ではない。広間の灯りの中では、ほとんど背景に溶ける色だった。


それでも、ベアトはその色を選んだ。


夜会の途中、一度だけ手を差し出された。前の夜会でも踊ったはずの青年だった。顔を見ても、最初は思い出せなかった。けれど、話し方のゆっくりした感じで、少しだけ記憶が戻る。


「今日は赤ではないんですね」


青年は言った。


ベアトは少しだけ笑った。


「今日は、自分で選びました」


「赤は選んでいなかったんですか」


「選ばれたかったんです」


言ってから、ベアトは驚いた。こんなことを初対面に近い相手へ言うつもりはなかった。


青年は笑わなかった。


「では、今日は踊りますか」


手が差し出される。


ベアトはその手を見た。


前なら、差し出されたことだけで取っていただろう。


今は、ほんの少し考えた。


この人と踊りたいか。


答えは、すぐには出なかった。だから彼女は首を横へ振った。


「少し休みます」


断ったのに、胸は思ったより軽かった。


誰かに選ばれない時間にも、自分は消えない。


そのことを、ベアトはまだ練習している。


満願堂の奥の棚で、赤い靴は時々かすかに鳴った。


誰かが近くを通ると、靴底が床を探すように小さくこすれる。踊りたいのか、選ばれたいのか、それとも選ぶ足を待っているのかは分からない。


リゼットは赤い靴を、少しだけ棚の奥へずらした。


モルはその音を聞いて、前足を引っ込める。


「まだ、待ってる」


「ええ」


リゼットは棚を閉じた。


「けれど、待つことと、選ばせることは違います」


赤い靴を納めた後、ベアトは自分で靴を買った。


夜会用ではない。赤くもない。柔らかな茶色の、歩くための靴だった。靴屋はもっと華やかなものをすすめたが、ベアトは首を横へ振った。


「歩きやすいものがいいんです」


そう言った自分に、彼女は少し驚いた。


以前なら、誰かに見られることを一番に考えた。足元へ視線が落ちた時、可愛いと思われるか。踊りに誘われるか。選ばれるか。


今は、少しだけ違う。


この靴でどこへ行けるかを考えていた。


新しい靴で、ベアトは夜会以外の場所へ出かけるようになった。朝市、川沿い、古書市、満願堂。踊りのない日にも、街には人がいて、話すことがある。


ある日、以前夜会で話した青年と出会った。彼は杖をついていて、踊りは苦手だと言った。


「それでも夜会へ?」


「音楽は好きなので」


「踊らなくても?」


「ええ」


ベアトはその答えを、以前ならつまらないと思ったかもしれない。


けれど今は、踊らなくてもそこにいるという選び方があるのだと知った。


満願堂へ行くと、リゼットは彼女の靴を見た。


「新しい靴ですね」


「歩くための靴です」


「よくお似合いです」


その言葉は、赤い靴で誰かに選ばれた時よりも静かに胸へ入った。


モルが足元で鼻を鳴らす。


「踊らないにおい」


「変?」


「歩くにおい」


ベアトは笑った。


選ばれたい願いは消えていない。きっとこれからも消えない。誰かの手が自分へ伸びるのを夢見る夜はある。


けれど、その手が伸びるまで何もできないわけではない。


彼女は自分の足元を見た。


茶色い靴は地味だった。


でも、どこへ行くかは自分で決められる。


お読みいただきありがとうございます。


また満願堂へお立ち寄りいただけましたら幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ