第二十三話 選ばれる赤い靴
ベアトは、舞踏会に憧れていた。
大広間の灯り。磨かれた床。音楽に合わせて回る裾。差し出される手。名を呼ばれ、選ばれ、誰かの視線の中心になる瞬間。
彼女は裕福な家の娘ではない。仕立屋で働きながら、余った布切れで自分用のリボンを作る。舞踏会へ招かれることなどほとんどなかったが、月環街では春と秋に、身分の低い者でも参加できる小さな夜会がある。
ベアトはそこで、誰かに選ばれたかった。
好きな人はいた。
けれど、本当はその人でなくてもよかったのかもしれない。
誰かが自分の前で足を止め、手を差し出し、選んでくれれば。
ベアトの部屋には、赤い布切れが箱いっぱいに入っていた。
大きな布は買えない。けれど仕立屋で働いていると、端切れだけは少しずつ手に入る。深い赤、薄い赤、夕暮れのような赤、熟した木の実のような赤。彼女はそれを小さなリボンにし、鏡の前で髪に当てた。
赤は、選ばれる色だと思っていた。
白い布は清らかで、青い布は上品で、灰色は慎ましい。けれど赤だけは、遠くからでも視線を引く。
ベアトは自分の顔を特別醜いとは思っていない。けれど、人込みに入るとすぐに背景になる顔だった。誰かの友人。誰かの同僚。仕立屋の娘。そう呼ばれることはあっても、ただベアトとして視線を止められることは少ない。
夜会の話を聞くたび、胸が痛んだ。
踊りたいのではない。
たぶん、本当に欲しかったのは、差し出される手だった。
満願堂で、最初に選んだのは赤いリボンだった。
「目を引くリボンです。髪や帽子に結ぶと、少しだけ人目につきやすくなります。表の棚の願具です」
リゼットは、人目を引く分、誰にも見られていない時間が少し寂しくなると告げた。
ベアトはリボンを見た。
夜会から帰ったあとの部屋の静けさなら、もう知っている。
ベアトは目を引くリボンの代金を支払った。
リボンはよく効いた。
夜会で、いつもより何人かに声をかけられた。踊りに誘われるほどではなかったが、名前を聞かれた。ドレスを褒められた。顔を覚えてもらえた。
嬉しかった。
けれど、足りなかった。
満願堂へ戻ると、リゼットは奥の棚から赤い靴を出した。
「選ばれる赤い靴です。魔願具にあたります」
赤い革の靴だった。派手すぎない。けれど、一度見れば忘れられない色だった。
「これを履いて踊ると、誰かに誘われやすくなります」
その代わり、自分が誰を選びたいのか、分かりにくくなることがある。
リゼットはそう告げた。
ベアトは靴から目を離せなかった。
赤い靴は、靴箱を開けた瞬間から、彼女の足の形を知っているようだった。
履くと、少しだけ背が伸びた気がした。足首がきれいに見える。歩幅が自然に整う。鏡の中のベアトは、いつもの作業着姿の自分とは違った。
靴は高かった。
仕立屋の給金では、すぐに出せる額ではない。けれど、秋の夜会は一度きりだった。選ばれる夜があるなら、そこで使わずにいつ使うのか。
ベアトはそう自分に言い聞かせ、赤い靴の代金を支払った。
リゼットは納願帳を開いた。
ベアトが書いた文字は、少しだけ震えていた。
誰かに選ばれたい。
リゼットはその文字を見ても、何も言わなかった。モルだけが、靴の赤をじっと見ていた。
「選ばれるなら、誰でも」
言いかけて、自分で驚いた。
リゼットは責めなかった。
モルは靴ではなく、ベアトの足元を見ていた。
赤い靴を履いた夜、ベアトは何度も踊りに誘われた。
一曲目。二曲目。三曲目。音楽が変わるたび、誰かが手を差し出す。彼女は笑い、手を取り、踊った。
嬉しかった。
足が痛くても、嬉しかった。
だが、帰り道で分からなくなった。
誰と踊った時が一番楽しかったのか。誰にもう一度会いたいのか。誰に選ばれたいと思っていたのか。
記憶には手だけが残っている。
差し出された手。握った手。離れていった手。
夜会の終わり、ベアトは広場の端で靴を脱ぎたくなった。
足が痛い。けれど、痛みよりも、誰の手も残っていないことの方が不思議だった。あれほどたくさんの手を取ったのに、どれも同じ温度に思える。
最初の青年は何色の上着だったか。
二人目は何を話したか。
三人目は、名前を名乗っただろうか。
思い出そうとするほど、手だけが増えていく。差し出される手。握る手。離れていく手。
ベアトは、初めて怖くなった。
選ばれることは、誰かを選ぶことだと思っていた。けれど自分が誰を選びたいのか分からなければ、差し出された手は全部同じだった。
家に帰って、赤い靴を箱へ戻した。
蓋を閉めても、靴の赤だけが瞼の裏に残った。
相手の顔は、どれも少し曖昧だった。
次の夜会でも、ベアトは靴を履いた。
さらに多くの人に誘われた。笑顔が増えた。名前を呼ばれた。褒められた。
そのたび、彼女の中から「選びたい」という気持ちが薄くなっていった。
誰でもよくなる。
選ばれるなら。
ある晩、ベアトは満願堂へ来た。
「もっと強いものはありますか」
リゼットは静かに聞いた。
「何をお望みですか」
「私を選ぶ人なら、誰でもいい」
その言葉は、喉から自然に出た。
リゼットはすぐには動かなかった。
モルが足元で鼻を鳴らす。
「まだ、さびしいだけ」
ベアトは眉を寄せた。
「何が?」
リゼットは赤い靴を見た。
「ベアトさん。これ以上強い品は、お渡しできません」
「どうして。私、ちゃんと願っているわ」
「ええ。ですが、その願いにはまだ、ご自身で選びたいお気持ちが残っています」
「残っていないわ」
「そうでしょうか」
リゼットは赤い靴を見る。
「本当に誰でもよいのでしたら、今日ここへは来られなかったと思います」
ベアトは黙った。
選ばれたい。
でも、誰でもいいと言いながら、誰かに選ばれたあと、自分が何も感じなくなることが怖かった。
彼女は赤い靴を脱いだ。
「納めます」
リゼットは両手で受け取った。
「魔願具ですので、納めることはできます」
「また、誰にも誘われなくなりますか」
「誘われにくくなるかもしれません」
「寂しいですね」
「はい」
リゼットは静かに言った。
「けれど、選ぶことは、寂しさの中にもございます」
ベアトは満願堂を出た。
次の夜会では、彼女は普通の靴を履いた。
誘われたのは一度だけだった。
相手は上手く踊れない青年で、何度も足を踏みそうになった。ベアトは笑った。
不思議と、その顔はよく覚えていた。
満願堂では、モルが赤い靴を覗き込んでいた。
「まだ、踊りたい?」
「ええ」
リゼットは靴を奥の棚へ納める。
「けれど、今は休ませましょう」
「選ぶの、むずかしい」
「そうですね」
リゼットは少し微笑んだ。
「ですから、願いになるのでしょう」
赤い靴を納めた日、ベアトはまっすぐ家へ帰れなかった。
夜会の開かれた広場を通る。昼間の広場は、夜とはまるで違った。灯りはなく、音楽もなく、磨かれた床の代わりに石畳が白く乾いている。誰も彼女へ手を差し出さない。
それが寂しいのか、ほっとするのか、ベアトには分からなかった。
仕立屋へ戻ると、同僚の娘が声をかけた。
「夜会、楽しかった?」
ベアトは答えに詰まった。
楽しかった。
それは本当だ。
何度も踊った。選ばれた。笑った。自分が広間の光の中にいると感じた。
でも、誰と踊ったのかを話そうとすると、言葉が曖昧になる。手しか思い出せない。声も、顔も、自分の胸が跳ねた瞬間も、みんな赤い靴の色に染められている。
「楽しかったけど」
ベアトはゆっくり言った。
「次は、私が誘いたい人を決めてから行く」
同僚は目を丸くした。
「強気ね」
「怖いけど」
ベアトは笑った。
「選ばれるより、そっちの方が怖いみたい」
その夜、彼女は箱の中の赤い布切れを少し整理した。全部を捨てるわけではない。赤はまだ好きだった。
ただ、全部を赤にしなくてもいいと思った。
一枚だけ、淡い青のリボンを取り出す。
誰かに見つけてもらうためではなく、自分で好きだと思った色を、明日の髪に結ぶために。
満願堂の奥の棚で、赤い靴は静かに休んでいる。
モルは時々その前を通り、鼻を鳴らす。
「まだ、踊りたいにおい」
リゼットは棚を見て答えた。
「ええ。けれど今は、踊る相手を待っているのでしょう」
次の小さな夜会で、ベアトは赤い靴を履かなかった。
代わりに、淡い青のリボンを髪に結んだ。誰かの目を強く引く色ではない。広間の灯りの中では、ほとんど背景に溶ける色だった。
それでも、ベアトはその色を選んだ。
夜会の途中、一度だけ手を差し出された。前の夜会でも踊ったはずの青年だった。顔を見ても、最初は思い出せなかった。けれど、話し方のゆっくりした感じで、少しだけ記憶が戻る。
「今日は赤ではないんですね」
青年は言った。
ベアトは少しだけ笑った。
「今日は、自分で選びました」
「赤は選んでいなかったんですか」
「選ばれたかったんです」
言ってから、ベアトは驚いた。こんなことを初対面に近い相手へ言うつもりはなかった。
青年は笑わなかった。
「では、今日は踊りますか」
手が差し出される。
ベアトはその手を見た。
前なら、差し出されたことだけで取っていただろう。
今は、ほんの少し考えた。
この人と踊りたいか。
答えは、すぐには出なかった。だから彼女は首を横へ振った。
「少し休みます」
断ったのに、胸は思ったより軽かった。
誰かに選ばれない時間にも、自分は消えない。
そのことを、ベアトはまだ練習している。
満願堂の奥の棚で、赤い靴は時々かすかに鳴った。
誰かが近くを通ると、靴底が床を探すように小さくこすれる。踊りたいのか、選ばれたいのか、それとも選ぶ足を待っているのかは分からない。
リゼットは赤い靴を、少しだけ棚の奥へずらした。
モルはその音を聞いて、前足を引っ込める。
「まだ、待ってる」
「ええ」
リゼットは棚を閉じた。
「けれど、待つことと、選ばせることは違います」
赤い靴を納めた後、ベアトは自分で靴を買った。
夜会用ではない。赤くもない。柔らかな茶色の、歩くための靴だった。靴屋はもっと華やかなものをすすめたが、ベアトは首を横へ振った。
「歩きやすいものがいいんです」
そう言った自分に、彼女は少し驚いた。
以前なら、誰かに見られることを一番に考えた。足元へ視線が落ちた時、可愛いと思われるか。踊りに誘われるか。選ばれるか。
今は、少しだけ違う。
この靴でどこへ行けるかを考えていた。
新しい靴で、ベアトは夜会以外の場所へ出かけるようになった。朝市、川沿い、古書市、満願堂。踊りのない日にも、街には人がいて、話すことがある。
ある日、以前夜会で話した青年と出会った。彼は杖をついていて、踊りは苦手だと言った。
「それでも夜会へ?」
「音楽は好きなので」
「踊らなくても?」
「ええ」
ベアトはその答えを、以前ならつまらないと思ったかもしれない。
けれど今は、踊らなくてもそこにいるという選び方があるのだと知った。
満願堂へ行くと、リゼットは彼女の靴を見た。
「新しい靴ですね」
「歩くための靴です」
「よくお似合いです」
その言葉は、赤い靴で誰かに選ばれた時よりも静かに胸へ入った。
モルが足元で鼻を鳴らす。
「踊らないにおい」
「変?」
「歩くにおい」
ベアトは笑った。
選ばれたい願いは消えていない。きっとこれからも消えない。誰かの手が自分へ伸びるのを夢見る夜はある。
けれど、その手が伸びるまで何もできないわけではない。
彼女は自分の足元を見た。
茶色い靴は地味だった。
でも、どこへ行くかは自分で決められる。
お読みいただきありがとうございます。
また満願堂へお立ち寄りいただけましたら幸いです。




