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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第一章 表の棚に並ぶもの

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第二十二話 眠りを買う枕

ミロは、眠るのが怖かった。


月環街の役所で書記官をしている。日中は紙に囲まれ、夜になると紙の外のことを考える。明日の記録。上司の小言。書き間違えたかもしれない数字。消し忘れた蝋燭。まだ来ていない返事。来てほしくない返事。


寝台に横になっても、頭の中だけが起きていた。


役所の夜は、紙の音がする。


誰もいないはずの記録室で、乾いた紙が勝手に息をするように鳴る。窓は閉じている。蝋燭も消した。けれど、昼間に書いた文字だけが、机の上でまだ起きている気がする。


ミロは眠る前に、必ずその日の書類を頭の中で数え直した。


南区の営業届。橋の修繕費。春市の出店許可。徴税台帳の控え。赤い封筒の通達。上司の机に置いたはずの報告書。


ひとつでも抜けていれば、翌朝には誰かが眉をひそめる。怒鳴られることは少ない。だが、書記官にとって一番つらいのは怒声ではなく、静かな訂正だった。


「ミロさん、ここが違います」


それだけで、彼は一晩眠れなくなる。


だから、眠ることは休息ではなかった。眠る間に、何かを忘れてしまうのが怖かった。


満願堂の椅子に座った時、彼はカップを持ったまま、しばらく湯気を見ていた。湯気は文字にならない。誰にも提出しなくていい。そこに少し救われた気がした。


眠らなければならない。そう思うほど眠れない。


朝になる頃、ようやく浅く眠る。鐘の音で目を開けると、体だけが古くなったように重かった。


満願堂へ来たのは、書類を届けた帰りだった。雨が降りそうな曇り空で、どこかへ座りたかった。


「よく眠れるものはありますか」


紅茶を半分ほど飲んだあと、ミロはそう聞いた。


リゼットは表の棚から、小さな香草の包みを出した。


「よく眠れる香草です。眠る前に少し焚くと、眠りに入りやすくなります。表の棚の願具です」


リゼットは、翌朝に少し起きづらくなることもあると告げた。


ミロは香草を見た。


朝が重いことなら、もう知っている。


それでも、夜の入口が少しでも静かになるなら十分だった。


ミロは香草を買った。


香草はよく効いた。


眠りに落ちるまでの時間が短くなる。頭の中で回り続ける仕事の声が、少し遠ざかる。久しぶりに朝まで眠れた日、ミロは自分の体がまだ壊れていなかったことに驚いた。


けれど、数日もすると物足りなくなった。


眠るだけでは足りない。


眠りの中でだけ、別の場所へ行きたかった。


満願堂へ戻ると、リゼットはカウンター奥の棚へ目を向けた。


「夢を選ぶ枕がございます。ただし、魔願具です」


二度目に満願堂へ来た時、ミロは財布の中を見た。


魔願具の枕は安くなかった。書記官の給金で、迷わず払える額ではない。銀貨を数える指が一度止まる。


だが、眠れない夜に失うものを考えれば、払えない額でもなかった。


リゼットは金額を急かさない。モルはカウンターの上で丸くなり、欠伸をしている。欠伸をするたび、ミロのまぶたまで重くなるようだった。


「お支払いは、今でなくとも構いません」


リゼットが言った。


「いえ」


ミロは首を横へ振った。


「眠れるなら、先に払いたいんです。払えば、少なくとも今夜は迷わず使える」


その言葉を自分で聞いて、ミロは少しだけ笑った。


眠るために金を払う。


昔なら馬鹿らしいと思っただろう。


けれど、今の彼には、それがとても切実だった。


出されたのは、小さな枕だった。薄い灰色の布で包まれている。触れると、指の下にやわらかい羽根の気配があった。


「眠る前に見たい夢を思い浮かべてください。望む夢を見やすくなります」


リゼットは、夢の方が鮮やかになるほど、起きている時間の手触りは遠くなると告げた。


ミロは枕を見た。


それでも良かった。


現実は疲れる。夢が鮮やかなら、そこへ逃げてもいい。


納願帳に書いた。


眠る間だけでいい。楽な場所へ行きたい。


モルは枕を見て、小さく欠伸をした。


枕は、香草よりもよく効いた。


眠る前に願うと、夢の中で理想の朝が来た。書類は少なく、上司は穏やかで、誰も彼を急かさない。数字は間違えず、机の上には温かい茶があり、窓の外には明るい空があった。


夢の中のミロは、いつも正しく、いつも間に合った。


夢の中で、ミロは一度だけ、書類を破り捨てた。


現実では絶対にしないことだった。役所の紙は街の記録であり、記録は人の暮らしを支えている。そう教わってきた。


だが夢の中では、机の上の紙を一枚ずつ破っても誰も怒らなかった。破れた紙は白い鳥になり、窓から飛んでいった。上司は穏やかに茶を飲んでいる。時計は止まっているのに、遅刻にはならない。


ミロは笑った。


目覚めた時、その笑いの形だけが頬に残っていた。


役所へ行くと、現実の紙は鳥にならない。上司は穏やかではなく、時計は正確に進み続けた。


その差が、少しずつミロを削った。


夢が救いだったのか、現実を薄くするための刃だったのか、分からなくなっていった。


起きると、現実が薄く感じた。


役所の机は重い。紙の匂いは乾いている。上司の声は耳障りで、昼食のパンは味がしない。


けれど夜になれば、また夢へ行ける。


ミロは枕を手放せなくなった。


仕事中、何度も眠りそうになった。昼の光が紙の上を滑ると、それが夢の窓の光に見える。人の声が遠い。自分が今ここにいるということが、少しずつ曖昧になる。


ある日、ミロは重要な書類の日付を間違えた。


大きな失敗ではなかった。訂正できる。だが、彼はそこで初めて気づいた。


起きている時間を、自分はもう大切にしていない。


その夜、満願堂へ行った。


「これを納めます」


枕を差し出すと、リゼットは両手で受け取った。


「はい。魔願具ですので、納めることはできます」


「また眠れなくなりますか」


「眠りにくさは戻るかもしれません」


「夢は?」


「夢で見たものは、すぐには消えません」


ミロは少しだけ笑った。


「それが、つらいかもしれない」


「はい」


リゼットは頷いた。


「けれど、目覚めている時にしか書けないものもございます」


翌朝、ミロはいつもより早く起きた。


眠りは浅かった。体は重い。だが、窓を開けると冷たい空気が入ってきた。


現実は、夢ほど優しくなかった。


けれど、机の木目も、紙のざらつきも、茶の苦みも、戻ってきていた。


満願堂では、モルが枕を嗅いでいた。


「まだ、ねむい」


「ええ。しばらく奥の棚で休ませましょう」


「夢、いい?」


「よい夢もございます」


リゼットは黒布で枕を包んだ。


「ただ、帰ってくる場所がある方に限ります」


枕を納めた後、ミロの夜はすぐには優しくならなかった。


眠ろうとすると、夢で見た理想の役所が浮かぶ。誰も急がず、誰も責めず、紙は鳥になって窓から飛んでいく。あの場所に戻りたいと思うたび、現実の寝台は硬くなった。


けれど、枕はもうない。


ないものを探して手を伸ばす癖だけが残った。


役所では、同僚が彼の顔を見て言った。


「最近、少し顔色が戻ったな」


ミロは苦笑した。


「眠れてはいないんです」


「それで戻ったのか」


「起きている感じがするだけです」


その言葉は、言ってから自分でも少しおかしかった。


昼休み、ミロは机の上の紙を一枚だけ丁寧に揃えた。いつもなら、間違えないように、叱られないように、急いで整える。だがその日は、紙の端が指に触れる感触を確かめるようにゆっくり揃えた。


紙は鳥にならない。


けれど、紙には紙の手触りがあった。


夕方、彼は満願堂へ寄った。紅茶だけを頼む。


モルがカウンターから見上げる。


「ミロ、ねむい?」


「眠いよ」


「寝る?」


「夜になったら」


「夢、いく?」


ミロは少し考えて、首を横に振った。


「今日は、行かなくていいかな」


モルは不思議そうに首を傾けた。


「夢、いいのに」


「うん。いい夢だった」


ミロは紅茶を飲んだ。苦みが舌に残る。夢の中の茶より、少し渋い。


「でも、少し渋い方が、目は覚めるみたいだ」


リゼットはそれを聞いて、静かに微笑んだ。


数日後、ミロは仕事帰りに小さな失敗をした。


通達文の控えに、数字をひとつ書き間違えたのだ。以前なら、それだけで夜まで顔色を悪くしていただろう。だがその日は、同僚に指摘される前に自分で気づいた。


「直します」


そう言って、線を引き、正しい数字を書いた。


紙は少し汚れた。完璧ではなくなった。


それでも、街は壊れなかった。


その夜、ミロは香草も枕も使わずに寝台へ入った。眠りはなかなか来ない。窓の外では、遅い馬車の音がした。隣の部屋で誰かが咳をする。自分の心臓の音まで気になる。


眠れない。


けれど、眠れない時間にも、少しだけ輪郭があった。


明日の仕事を考える。書き直した数字を思い出す。夢の中なら、紙は鳥になって飛んでいっただろう。現実では、紙は机の上に残る。


残るから、直せる。


そう思った時、ミロは少しだけ眠くなった。


完全な眠りではない。深い夢でもない。


それでも朝、彼は自分の部屋の天井を見て、夢の窓ではなく現実の窓を開けた。


冷たい空気が入ってくる。


それは優しくなかった。


でも、たしかに目を覚まさせた。


待ち遠しい夜と、恐ろしい夜は似ている。


ミロはそのことを、枕を納めてから知った。眠れない夜は嫌いだった。けれど、夢へ逃げる予定のない夜も、同じくらい心細かった。


それでも、彼は寝台の横に小さな帳面を置いた。眠れない時、頭の中で回っている仕事を書き出すための帳面だ。


眠るためではない。


起きている自分を、夢に渡しすぎないためだった。


ミロは、眠りについての記録をつけるようになった。


何時に横になったか。何度目が覚めたか。夢を見たか。朝、体が重かったか。仕事中に意識が遠のいたか。


最初は役所の書類のようだった。整えすぎた字で、まるで誰かに提出するための記録のように書いていた。


だが、ある夜、彼はふと書き方を変えた。


今日は眠れなかった。けれど、窓の外で猫が鳴いた。


今日は浅く眠った。夢は覚えていない。朝のパンは少し焦げていた。


今日は眠る前に、明日の仕事が怖かった。


そんなふうに書き始めると、帳面は仕事の記録ではなくなった。自分が起きている時間の記録になった。


夢を選ぶ枕はもうない。


それでも夢を見る夜はある。


良い夢も、嫌な夢もある。


けれど、起きた後にそれを書けることが、少しだけミロを現実へ繋いだ。


満願堂へ行くたび、彼は紅茶を頼む。眠るためではない。目を覚ますためでもない。


ただ、カップを持っている間だけ、自分がここにいることが分かるからだった。


枕を納めたあと、ミロは満願堂の席で一度だけ眠ってしまった。


それは夢を選ぶ眠りではなかった。紅茶を飲んで、窓辺の音を聞いて、気づいたら目を閉じていた。目覚めた時、カップの紅茶は冷めていた。


「すみません」


慌てて起きると、リゼットは静かに首を横へ振った。


「お茶が冷めるまででした」


「それなら、許されますか」


「ええ」


ミロはその言葉に救われた。


許される範囲の眠り。


それは、彼がずっと忘れていたものだった。


役所では、眠いことは怠慢だった。遅れることは失敗だった。間違えることは責められる理由だった。だからミロは、自分の体が疲れていることすら、どこか悪いことのように感じていた。


満願堂で眠った後、彼は少しだけやり方を変えた。


帰る前に机の上へ小さな札を置く。蝋燭、窓、封蝋、書類棚。確認したら札を裏返す。子どもじみた方法だったが、夜に何度も思い出す回数は減った。


それから、同僚に一束だけ書類の確認を頼んだ。


「お前が頼み事とは珍しいな」


「明日、間違えるよりいい」


同僚は笑いながら引き受けた。


ミロはその夜もよく眠れなかった。だが、不安は少しだけ小さかった。


夢の中の理想の職場は、もう来ない。


けれど、現実の机を少し片づけることはできる。紅茶を自分で淹れることも、紙を一束だけ人に渡すこともできる。


満願堂の奥の棚で、夢を選ぶ枕は眠っている。


モルは時々その前で欠伸をした。


リゼットは棚を整えながら言う。


「夢は、帰ってくる場所がある方にだけ、優しいのかもしれませんね」


ミロはまだ眠るのが得意ではない。


けれど、眠れない夜が来ても、もう必ず夢へ逃げたいとは思わなくなった。


それは小さな変化だった。


だが、書記官の机の上では、小さな印一つで書類の行き先が変わる。


ミロはその小ささを、少しだけ信じてみることにした。


お読みいただきありがとうございます。


また満願堂へお立ち寄りいただけましたら幸いです。

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