第二十一話 火の傾く燭台
その燭台は、三度直して、三度同じ方へ火が傾いた。
一度目は、受け皿の歪みだと思った。
二度目は、芯の立て方が悪いのだと思った。
三度目の夜、作業台の上で細い炎がまた同じ方へ身を寄せるのを見て、オルス・バルカは手を止めた。
「……直りたくないのか」
燭台は答えない。
だが、黙っている品ほど厄介なものはない。
それは、オルスが満願堂と関わるようになってから、嫌というほど知ったことだった。
真鍮の古い燭台だった。
枝は二本ある。片方の受け皿だけがわずかに低く、台座には緑青が薄く浮いていた。磨けば光る。歪みも直せる。職人の目には、直すべき場所がいくつも見えた。
持ち込んだのは、痩せた老婦人だった。
「まっすぐにしていただけますか」
老婦人はそう言って、布包みを差し出した。
オルスは燭台を作業台に置き、台座の傾きを見た。
「落としたのか」
「いいえ。長く使っているうちに、こうなってしまって」
「火を灯すのか」
老婦人は少しだけ迷った。
「ええ。食卓に」
それ以上は言わなかった。
オルスも聞かなかった。
古い燭台を持ち込む客は、たいてい誰かの話を一緒に持ってくる。誰が使っていたか。どの部屋に置いていたか。いつから灯さなくなったか。
だが、話したくないことまで聞くのは職人の仕事ではない。
「歪みを取るだけならできる」
「お願いします」
老婦人は深く頭を下げた。
作業は難しくなかった。
台座を整え、受け皿を外し、曲がった枝を少しずつ戻す。真鍮は古いが、まだ強い。磨きすぎると新しくなりすぎるので、手の跡と曇りは残した。蝋の跡を削り、芯を立てる場所を整える。
夕方には、燭台はまっすぐ立った。
オルスは試しに火を入れた。
小さな炎が二つ、静かに揺れる。
しばらく見て、眉をひそめた。
片方の火だけが、わずかに横へ傾いている。
窓は閉めてある。風はない。
受け皿も、枝も、台座も直した。
それでも火だけが、誰かのいる方へ向くように細く寄っていた。
翌日、もう一度直した。
受け皿を替え、芯の位置も変えた。蝋の質まで確かめた。作業台の上で火を灯すと、最初はまっすぐ立つ。
だが、しばらくすると同じ方へ傾いた。
三度目も同じだった。
壊れているのではない。
向いている。
オルスは燭台を布で包み、満願堂へ向かった。
扉を開けると、紅茶と古書の匂いがした。
「いらっしゃいませ」
リゼットが顔を上げる。
「また、面倒な品ですか」
「分かってるなら話が早い」
オルスはカウンターへ布包みを置いた。
「直る。直るんだが、火だけが戻る」
「戻る?」
「同じ方へ傾く」
リゼットは包みを開いた。
真鍮の燭台が現れる。
モルはカウンターの端に座ったまま、燭台ではなく、その影を見ていた。
オルスは小さな蝋燭を立て、火を入れた。
炎は初め、まっすぐに立った。
やがて、片方だけが静かに傾く。
誰かの椅子へ灯りを向けるように。
リゼットは黙って見ていた。
「持ち主の願いは?」
「まっすぐにしてほしい、だそうだ」
「それだけでしょうか」
オルスは口を閉じた。
老婦人の指を思い出した。
燭台を渡す時、彼女は低い方の受け皿にだけ触れていた。触れないようにしているのではない。触れたまま離せずにいた。
「食卓に置いていたらしい」
リゼットは頷いた。
「お一人で?」
「そこまでは聞いてない」
「そうですか」
責める声ではなかった。
だから余計に、オルスは少しだけ居心地が悪くなった。
「直せと言われた。俺は直した。だが、こいつはまた傾く」
「壊れているのではなく、覚えているのでしょう」
「またそれか」
「満願堂の品ではございません。けれど、人の願いは、満願堂の外にも残ります」
リゼットは燭台に手を触れないまま言った。
「火は、照らしたい方へ向くことがございます」
「火に意思を持たせるな」
「意思ではなく、残った願いです」
「余計に厄介だ」
モルが燭台の影へ前足を伸ばした。
影は、炎と同じ方へ細く伸びていた。
「そっち、いる」
オルスは眉を寄せた。
「何が」
モルは答えなかった。
リゼットも、答えなかった。
その沈黙で十分だった。
「俺は、これを直すべきか」
リゼットは少しだけ目を伏せた。
「まっすぐにすることは、できます」
「できる」
「ですが、まっすぐになった灯りを、持ち主が望んでいるかは分かりません」
オルスは燭台を見た。
曲がった枝なら戻せる。
傾いた受け皿なら整えられる。
火が向く先までは、直せない。
直してしまえば、それはもう別の灯りになる。
「……俺の仕事じゃないな」
「いいえ」
リゼットは静かに言った。
「そこまで見分けることも、きっと職人のお仕事です」
オルスは返事をしなかった。
前にも似たようなことを言われた気がする。
腹立たしいことに、少しだけ分かるようにもなっていた。
「持ち主には何と言えばいい」
「もう一度だけ、食卓で灯していただいてはいかがでしょう」
「それで納めるかどうか決めろ、と?」
「はい」
「簡単に言う」
「簡単ではございません」
リゼットは燭台に黒布をかけた。
「だから、ご本人が決めるのです」
その夜、オルスは老婦人の家を訪ねた。
小さな家だった。
食卓には椅子が二脚あった。片方には薄い座布団が置かれている。もう片方は、使われていないのに背だけが丁寧に拭かれていた。
老婦人は燭台を見ると、少しだけ息を止めた。
「直りましたか」
「直すことはできる」
オルスは正直に言った。
「だが、火はまだ傾く」
老婦人は何も言わなかった。
オルスは燭台を食卓の中央に置き、蝋燭に火を入れた。
炎はしばらくまっすぐ立っていた。
やがて、片方の火だけが、空いた椅子の方へゆっくり傾いた。
老婦人の指が震えた。
「昔から、そうでした」
彼女は小さく言った。
「主人がそちらに座ると、いつも灯りがそちらへ寄って見えたのです。あの人は、私の方が目が悪いからだと笑っていました」
オルスは黙っていた。
「亡くなってからも、火がそちらへ向くのが嫌で」
老婦人は空いた椅子を見た。
「まっすぐになれば、食卓もまっすぐになると思いました」
炎は静かに傾いている。
それは壊れた灯りではなかった。
誰かがいた場所を、まだ照らしている灯りだった。
老婦人は長い間、その火を見つめていた。
やがて、涙を拭かずに言った。
「納めてください」
「いいのか」
「はい」
老婦人は頷いた。
「まっすぐにするのではなく、消すのでもなく、どこかへ置いてやりたいのです」
オルスは燭台の火を吹き消した。
煙が細く上がる。
その煙だけは、まっすぐ天井へ昇っていった。
翌日、オルスは燭台を満願堂へ持っていった。
リゼットは何も尋ねなかった。
ただ、黒布を広げた。
オルスは燭台をその上に置く。
磨き残した真鍮の曇りに、窓の光が鈍く映った。
「納めるそうだ」
「承りました」
「壊れてなかった」
「ええ」
「なら、直す仕事じゃない」
リゼットは燭台に黒布をかけた。
「壊れていないものを、壊れていると言わずに返すことも、直す仕事なのかもしれません」
「職人に面倒を増やすな」
「オルスさんなら、大丈夫かと」
「買いかぶるな」
モルが黒布の端を前足で押さえた。
「ひ、のこってる」
「火は消した」
「でも、のこってる」
オルスは小さく息を吐いた。
反論する気にはならなかった。
燭台は奥へ運ばれていった。
それからしばらく、オルスは工房で灯りを直す仕事が来るたびに、火がどちらへ傾くかを見るようになった。
以前なら、そんなことは気にしなかった。
芯と蝋と風だけを見ていればよかった。
だが今は、灯りの向く先に、誰かの席があるかもしれないと思う。
面倒なことを覚えてしまった。
そう思いながら、オルスは歪んだ受け皿を少しだけ指で撫でた。
直すとは、まっすぐに戻すことだけではない。
そのことを、彼はまだ好きではなかった。
けれど、少しだけ知ってしまっていた。
お読みいただきありがとうございます。
また満願堂へお立ち寄りいただけましたら幸いです。




