表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第一章 表の棚に並ぶもの

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/75

第二十話 鍵が見た願い

その納め物には、差出人がなかった。


納め物には、たいてい何かしらの手がかりがある。


差出人の名がなくても、封の結び方や納め札の書式、逓便局の記録、持ち込んだ者の証言が残る。どこから来たのか、誰の手を離れたのか、完全には分からずとも、辿れる糸はある。


だが、その箱には何もなかった。


まるで、箱そのものが月環街逓便局の棚に最初から置かれていたようだった。


黒い紐。暗い赤の封蝋。納め札。


だが、札が古すぎた。


月環街逓便局の誰も、今の形式だとは言わなかった。紐の結び方も、封蝋の押し方も、札の紙質も違う。封蝋には、月環と扉、それから閉じた目に見える紋章が押されている。だが、現行の逓便局紋章より、ずっと古い。


ロイはそれを両手で抱え、ヴェルナーの机の前に立っていた。


「記録にありません」


ヴェルナーは納め札を見たまま、しばらく黙っていた。


「満願堂へ運べ」


「中身は」


「見るな」


「はい」


「今日はココと二人で行け」


その声は、いつもより低かった。


ヴェルナーは、二人が出ていく直前にもう一度呼び止めた。


「ロイ、ココ」


「はい」


「満願堂で、リゼットさんが何かを聞いてきても、知らないことは知らないと言え」


ココは耳を揺らした。


「知らないことは、いつも知らないです」


「ならいい」


ヴェルナーは苦く笑った。


「知ったふりをするな。あそこでは、それが一番危ない」


ココは箱を見て、耳をぴんと立てた。


「古いですね」


「分かるのか」


「なんとなくです。かっこいいけど、いつもの納め札と違います」


ロイは苦笑しかけたが、箱の重さがそれを止めた。


重い。


物理的な重さではない。中に何が入っているのか分からないのに、胸の辺りが沈む。


満願堂へ着くと、モルが扉の前にいた。


珍しいことだった。


「モルさん?」


ココがしゃがむ。


「お出迎えですか?」


モルは箱を見た。


いつものように「いいにおい」とは言わなかった。


「……わからない」


モルはもう一度、箱の匂いを嗅いだ。


鼻先を近づけ、少し離し、首を傾ける。普段なら、いいにおい、さみしいにおい、あまいにおいと短く言う。けれど、その日は言葉が出ないようだった。


「ふるい?」


ココが小さく聞く。


モルは答えない。


ロイは初めて、モルが小さく見えた。いつもは不思議なほど満願堂に馴染んでいる白い毛玉が、その箱の前では子どものように黙っていた。


ロイの背中が冷えた。


モルが分からないと言う。


それだけで、普通ではない気がした。


扉が開き、リゼットが現れた。


彼女は箱を見て、ほんの少しだけ表情を変えた。


「これは」


声は小さかった。


「リゼットさん?」


ココが不安そうに見上げる。


リゼットはすぐにいつもの微笑みに戻った。


「ありがとうございます。お預かりします」


「受け取りをお願いします」


ロイは帳面を出した。


リゼットは署名した。


その字はいつも通り美しかったが、少しだけゆっくりだった。


ココとロイが帰ったあと、リゼットは箱をカウンターへ置いた。


モルは箱の前に座っている。


「リゼット」


「ええ」


「ふるい」


「そうですね」


リゼットは封蝋に指をかけた。


黒い紐がほどける。


中に入っていたのは、金属の破片だった。


小さな、鍵穴のような形の破片。


ただし、奥の部屋の扉には鍵穴がない。


それなのに、破片は鍵穴だった。


鍵を差し込むための丸み。金属が擦れた跡。何度も開け閉めされたものだけが持つ、縁のなめらかさ。


リゼットは、その形を知っている気がした。


覚えているのではない。知っている、としか言えなかった。


リゼットは破片を見つめた。


モルの首元の鍵が、リボンの下で小さく揺れた。


光はない。


音もしない。


ただ、鍵の中央にある閉じた目が、ほんの一瞬だけ薄く開いたように見えた。


「鍵が」


モルが言う。


「見た?」


「見たのかもしれません」


リゼットは破片を黒布の上に置いた。


その日、満願堂には珍しく、願具を求めない客が来た。


小さな子どもだった。


迷い込んだのだろう。扉を開け、店内を見回し、モルを見つけて顔を輝かせた。


「ふわふわ」


「おきゃくさま」


「さわっていい?」


モルはリゼットを見る。


リゼットは微笑んだ。


「モルがよければ」


「いい」


子どもはモルを撫でた。


モルは目を細めた。


子どもは願具を見なかった。奥の棚にも気づかなかった。紅茶も飲まず、ただ少しだけ本を眺め、モルを撫でて帰った。


鍵は反応しなかった。


それが、なぜかリゼットには少し嬉しかった。


願いがないわけではない。子どもにも、小さな望みはいくらでもある。クッキーが食べたい。モルを撫でたい。面白い本を見たい。


けれど、それはまだ生き方を変えるほどの願いではない。


ただ今日を楽しくするための、小さな欲求だった。


満願堂は、そういう客も迎えられる店でいたかった。


リゼットはその背中を見送った。


「おきゃくさま、ふつう」


「ええ」


リゼットは静かに笑った。


「普通でいられることは、たいへん穏やかです」


子どもが出ていった後、満願堂は少しだけ明るく見えた。


ヴェルナーはその夜、家に戻らなかった。


逓便局の古い倉庫で、納め札の束を一枚ずつ確認していた。ロイが運んだ箱と同じ形式の札は、もう残っていないと思っていた。だが、古い箱の底に、似た紙片が一枚だけあった。


文字はほとんど読めない。


ただ、月環の堂という言葉だけが残っている。


ヴェルナーは椅子に深く腰を下ろした。


若い頃、彼も満願堂を含む区画を担当していた。納め物を嫌がったこともある。けれど、ある日、納め物を落としかけた時、箱の中から女の子の笑い声が聞こえた。


中身は見ていない。


だが、忘れられない。


あの時、リゼットは言った。


「大丈夫ですよ。まだ、行き先は失われておりません」


何が大丈夫だったのか、今でも分からない。


ただ、ヴェルナーはそれ以来、納め物を軽く扱う局員を叱るようになった。


彼は古い納め札を鍵付きの引き出しにしまう。


局章の閉じた目は、夜の逓便局の壁で静かに眠っている。


「まだ、終わっていないか」


ヴェルナーは低く呟いた。


その言葉は、満願堂の奥へ届くことはなかった。


けれど同じ頃、モルの首元の鍵が、小さく揺れていた。


翌日、ロイはヴェルナーに尋ねた。


「あの納め札は、今の満願堂のものではないんですか」


「見るなと言ったはずだ」


「中身は見ていません」


「なら、聞くな」


そこで会話は終わるはずだった。


だがロイは、その日は退かなかった。


「月環の堂、という名前があったんですか」


ヴェルナーの手が止まる。


古い書類の束の上で、右手の傷が白くなった。


「誰から聞いた」


「誰からも。納め札の紋章が、いつものものと違いました。局長補佐も、知っている顔をしていました」


ヴェルナーは長く黙った。


「満願堂について、知りたいと思うな」


「なぜですか」


「知るほど、戻れなくなることがある」


ロイはリゼットの顔を思い出した。聞けば答えてくれる気がする。けれど答えを聞いた後、自分が前と同じ顔で戻れるか分からない。


ヴェルナーも、似たようなことを知っているのだ。


「それでも、俺は担当です」


「担当なら、届けろ」


ヴェルナーはようやく顔を上げた。


「余計なものを背負うな。納め物は、満願堂へ届ける。それだけで十分だ」


ロイは頷いた。


十分だとは思えなかった。


けれど、その日、それ以上は聞かなかった。


満願堂の奥でリゼットが何を見ているのか、モルが何を知っているのか、まだ知らない。


知らないまま、彼は次の伝票を手に取った。


そこには普通便の印がある。


茶葉、古書、焼き菓子。


ロイは少しだけ安堵した。


満願堂には、まだ普通の荷物も届く。


そのことが、妙に大切に思えた。


その夜、リゼットは欠片を納願帳のそばへ置いた。


納願帳の表紙には、月環と小さな鍵の押し紋がある。押し紋の線は、欠片に刻まれた目の線よりずっと整っている。


古いものと、今のもの。


同じ願いから分かれた枝のようにも見えた。


モルは欠片と納願帳の間で丸くなる。


「ここ、あったかい」


「そうですか」


「ふるいの、さみしい」


「ええ」


リゼットは椅子に座った。


閉店後の満願堂は静かだ。客の声も、逓便局の足音もない。紅茶の香りだけがかすかに残っている。


欠片は何も言わない。


だが、満願堂が店ではなかった頃の空気を、ほんの少しだけ連れてきていた。


リゼットはそれを恐れなかった。


ただ、いつか話すべきことが少しずつ近づいているのを感じていた。


まだ終わっていない。


その言葉は、奥の扉だけでなく、リゼット自身にも向けられていた。


さらに夜が深くなってから、リゼットは鍵穴の破片を手に、奥の部屋の扉の前に立った。


黒鉄の両開き扉。


中央の閉じた一つ目。


鍵穴はない。


けれど、リゼットの手の中には鍵穴の破片がある。


モルが足元に座った。


「リゼット」


「はい」


「これ、ふるい」


「ええ」


「モルより、ふるい」


リゼットはしばらく黙っていた。


「満願堂が、まだ店ではなかった頃のものかもしれません」


「店じゃない?」


「ええ」


リゼットは破片を扉の前へかざした。


「願い物を納める場所でした。紅茶も、本も、椅子もありませんでした」


「モル、いた」


「ええ。きっと」


「しゃべらない」


「そうですね」


モルは目を細めた。


「リゼットが、しゃべった」


「私が?」


「うん」


リゼットは少しだけ笑った。


「そうかもしれません」


扉の目が、薄く開いたように見えた。


それが鍵を見たのか、リゼットを見たのか、モルを見たのかは分からない。


「いつか、お話ししましょう」


「いつか?」


「ええ」


リゼットは微笑んだ。


「まだ、終わっておりませんから」


何が終わっていないのか、モルは聞かなかった。


ただ、首元の鍵が小さく揺れた。


満願堂の奥で、黒鉄の扉は静かに目を閉じた。


お読みいただきありがとうございます。

また満願堂へお立ち寄りいただけましたら幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ