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満願堂の仕上がり  作者: 高山 墨人
第一章 表の棚に並ぶもの

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第十七話 終わらずの羽ペン

ハロル・エインは、終わりが嫌いだった。


学者として、彼は長い年月を研究に費やしてきた。古代の願具記録、月環街以前の納め札、逓便制度の起源、満願堂という名前が文献に現れる前の記述。


彼の机には、いつも紙が積まれていた。


インクの匂い。古紙の匂い。乾いた指で頁をめくる音。


歳を取ってから、その音が少しずつ遠くなった。


目が霞む。手が震える。夜更かしをすると翌日まで響く。階段を上がるだけで息が切れる。


まだ足りない。


まだ読みたい文献がある。まだ繋がっていない記録がある。まだ、結論へ届かない。


終わるには早すぎる。


ハロルの弟子たちは、彼を尊敬していた。同時に、少し怖がってもいた。


ハロルは若い弟子がひとつの文献を読み終えると、すぐに別の書名を告げる。書き写した記録に空白があれば、その空白がなぜ空白なのかを尋ねる。答えられなければ、答えられるまで調べさせた。


「先生、少し休まれては」


弟子の一人が言うと、ハロルは笑った。


「休んでいる間に、紙は読めん」


「紙は逃げません」


「わしが逃げる」


冗談のように聞こえた。だがハロルは本気だった。


老いは、毎日少しずつ彼の時間を盗んでいく。昨日読めた文字が今日は霞む。昨日登れた階段が今日は重い。昨日覚えていた注釈が、今日は頁の端からこぼれる。


文献は逃げない。


だが、自分がそこへ辿り着けなくなる。


それが怖かった。


若い頃のハロルは、終わりが好きだった。


一冊を読み終える。論文を書き終える。調査を終え、結論に辿り着く。終わりがあるから次へ進めるのだと信じていた。


けれど老いてから、終わりは別の顔を見せ始めた。


読み終えられない本。書き終える前に震える指。次の調査へ行く前に息切れする体。終わることは、次へ進むことではなく、自分が置いていかれることになった。


それが許せなかった。


満願堂へ来た時、ハロルは杖をついていた。


「疲れを遠ざける品はあるかね」


リゼットは表の棚から杯を出した。


「長持ちの杯です。一晩だけ疲れを遠ざけます。返りとして、翌日に強い疲労が戻ります」


「一晩か」


「はい」


「それでは足りないな」


ハロルは笑った。


「私の研究は、一晩では終わらん」


リゼットは奥の棚から水瓶を出した。


小さな水瓶だった。青灰色の陶器で、口元に銀の輪がかかっている。


「延命の水瓶です。魔願具にあたります。一月の間、毎日この水瓶から水を飲むことで、体が死へ向かいにくくなります」


「良い」


「返りは、眠りが浅くなること。疲労が終わりにくくなることです」


「疲労が終わらない?」


「はい。体が終わりへ向かいにくくなるぶん、休息の終わりも曖昧になります」


「構わん」


ハロルは即答した。


魔願具の値は高かった。


だが、研究室の蔵書を一部売れば払える額だった。知識を完成させるためなら、古書の数冊など惜しくない。


ハロルは代金を支払った。


リゼットは納願帳を開く。


まだ研究を続けたい。


モルが匂いを嗅いだ。


「ながいにおい」


水瓶はよく効いた。


最初の一週間、ハロルは若返ったように働いた。


朝まで写本を読み、昼には古い逓便記録を訪ね、夕方には研究室へ戻って注釈を書く。弟子たちは驚いた。老いた師が、まるで時間を取り戻したように動いている。


弟子の一人が、休むように言った。


「先生、少し眠ってください」


ハロルは笑った。


「眠っている間に、誰かがこの記録を読み違えるかもしれん」


「記録は逃げません」


「人は逃げる」


そう言って、彼はまた頁へ目を落とした。


本当は分かっていた。逃げているのは記録でも人でもない。自分の残り時間だ。


だが、二週目には眠りが浅くなった。


目を閉じても、眠りへ落ちきらない。体は横になっているのに、意識だけが薄い水の上を漂う。疲労はある。だが疲労が終わらない。休んだという感覚が来ない。


それでも、ハロルは水を飲んだ。


研究は進んでいた。


ハロルは眠らずに読める日が増えた。夜明けまで机に向かい、震える手で書き写し、昼にはまた別の書庫へ向かう。


体は弱っているはずなのに、倒れない。


疲れはある。


だが、終わらない。


それは苦しみでもあり、同時に恵みでもあった。


彼は研究を進めた。


満願堂が店になる前、月環の堂と呼ばれていた記録。逓便局より古い納め札。扉と目と鍵の意匠。すべてが少しずつ繋がっていく。


だが、完成には届かない。


あと一枚。あと一冊。あと一つの証言。


そうしているうちに、一月が過ぎた。


ハロルは満願堂へ戻った。


「もっと強いものがあるだろう」


リゼットは水瓶を見た。


「お疲れですね」


「疲れているが、終わってはいない」


「何をお望みですか」


「眠りも休息もいらない。痛みも構わない。私は終わりたくない」


リゼットは静かに目を伏せた。


「それは、おすすめ致しません」


「なぜ」


「終わりに向かうものが、落ちていきます」


「それでいい」


ハロルは杖を握った。


「終わらなければ、続けられる」


その言葉を聞いた時、リゼットは水瓶ではなく、ハロルの手を見た。


しわの深い手。インクの染みた爪。何十年も紙と向き合ってきた指。そこには確かに願いがあった。知りたい、残したい、繋げたいという願い。


けれど今、その願いはひとつの方向へ澄みすぎていた。


終わりたくない。


それだけが、残り始めていた。


リゼットは少しだけ微笑んだ。


「たいへん澄んでいますね」


モルはカウンターから降り、奥へ向かった。


扉の前で、リゼットは鍵をかざした。


ガチャリ、と重い音がする。


「開けるのは、貴方様です」


ハロルは扉を押した。


重い。


終わりたくない。迷いはない。けれど、心のどこかに、完成という終わりを望む自分がいた。研究を終える日。最後の頁に点を打つ日。その小さな終わりまで手放すのか、と扉は問うているようだった。


ハロルは押した。


その問いごと、押しのけた。


地下で彼が見つけたのは、一本の羽ペンだった。


黒でも青でもない。


乾いたインクの色をした古い羽ペンだった。


羽根の部分は色褪せているのに、ペン先だけは妙に新しい。今も誰かが使い続けているような、不思議な光沢があった。


「終わらずの羽ペンです」


リゼットは言った。


「満願具は、願いを根付かせます。根付いた願いは、仕上がりまで止まりません」


「望む」


ハロルは納願帳へ書いた。


私は終わりたくない。


「ハロル様の願いには、こちらの品がよく合うかと」


ハロルは羽ペンを握った。


驚くほど手に馴染んだ。


長年使ってきた筆記具よりも自然に指へ収まる。


まるで最初から、自分のために作られていたかのようだった。


それから、ハロルは終わらなくなった。


眠れない。気絶できない。痛みは続く。疲労も続く。思考も続く。


死は来ない。


だが、休息も来ない。


研究は進んだ。


進んで、進んで、進み続けた。


羽ペンは止まらない。


紙を埋め、余白を埋め、注釈を書き足し、さらに別の紙を求める。


しかし完成しない。


なぜなら完成もまた、ひとつの終わりだったからだ。


最後の頁が書けない。結論が結べない。章を閉じられない。書き終えようとすると、次の疑問が生まれる。疑問が終わらない。終わらないから、答えも終わらない。



終わらずの羽ペンが根付いたあと、ハロルの弟子たちは一度だけ満願堂へ来た。


彼らは羽ペンを返してほしいとは言わなかった。返しても、ハロルが戻るわけではないとどこかで分かっていた。


代わりに、研究ノートを一冊持ってきた。


「先生は、完成させたかったんです」


若い弟子が言った。


「終わりたかったわけじゃない。完成まで生きたかっただけなんです」


リゼットは静かに聞いていた。


「最初は、そうだったのでしょう」


「今は違うんですか」


「願いは、澄むほど形を変えることがございます」


弟子は唇を噛んだ。


研究室では、ハロルがまだ書き続けている。食事も眠りも遠くなり、紙とインクと疑問だけが増えていく。弟子たちはその背中を見て、尊敬よりも恐怖を覚えるようになっていた。


「先生は幸せなんでしょうか」


リゼットは答えない。


モルがノートに鼻を寄せた。


「終わらないにおい」


弟子は泣きそうな顔をした。


「それが、先生の望みなんですね」


「ええ」


リゼットは頷いた。


「ハロル様の願いは、叶っています」


ハロルの研究ノートは、以後も時々届いた。


一冊、また一冊。どれも黒い紐で括られ、納め札がついている。差出人は弟子たちだった。


ノートには、進んだ研究が書かれていた。古い納め札の分類、月環街以前の願い物の記述、満願堂という名称が現れる前の記録。どれも学術的には価値がある。


だが、最後の頁だけはいつも同じだった。


まだ終わらない。


まだ終わらない。


まだ終わらない。


ある弟子は、手紙を添えた。


先生は今も書いています。眠ってはいないようです。食事は取りますが、味を覚えていないようです。こちらの問いには答えてくださいます。けれど、答えの最後が必ず次の問いになります。


リゼットは手紙を畳んだ。


モルがノートの上に前足を置く。


「終わらない、ふえる」


「ええ」


「いっぱいになったら?」


「奥の部屋は、広いですから」


「ずっと?」


「ずっと、かもしれません」


モルは少しだけ耳を伏せた。


リゼットはノートを黒布に包む。


終わらないことは、ハロルの願いだった。だから満願堂はそれを否定しない。


けれど、閉じられない本を納めるたび、リゼットはほんの少しだけ、頁を閉じるということの優しさを思い出した。


ハロルはある時、弟子に手紙を書いた。


文字は整っていた。震えもない。若い頃よりもむしろ、筆圧は強かった。


そこには、研究の指示が細かく記されていた。どの文献を写すか。どの納め札の形式を照合するか。月環街以前の記述をどこから探すか。


最後に、一行だけ私的な言葉があった。


わしは元気だ。終わっていないからだ。


弟子はそれを読んで泣いた。


元気という言葉が、こんなにも遠いものに見えたのは初めてだった。


ハロルは死んでいない。倒れてもいない。研究も進んでいる。誰かに危害を加えているわけでもない。


それでも、彼の周りから休息というものが消えていた。


完成とは、終わりの意味でもある。


ハロルは、もう完成できなかった。


満願堂へ届けられるノートの間には、時々、弟子たちの手紙が挟まっていた。


先生を止めるべきでしょうか。


先生の願いを否定することになるのでしょうか。


リゼットはその手紙に返事を書かない。


満願堂は相談所ではない。願いの行き着く場所を見届ける店だ。


けれど、手紙は納願帳の間に挟まれる。


ハロルの終わらない研究だけでなく、それを見守る弟子たちの迷いもまた、満願堂へ届いていた。


モルは納め札の紋章を鼻でつついた。


「でも、つかれたにおい」


「そうですね」


リゼットはノートを奥の部屋へ納めた。


閉じたはずの表紙の内側で、まだペンが紙を擦る音がしているようだった。


お読みいただきありがとうございます。

また満願堂へお立ち寄りいただけましたら幸いです。

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