第十八話 愛を集める香水
アメリアは、愛されるということをよく知らなかった。
アメリアは、贈り物をよくもらった。誕生日には宝石。季節の変わり目には手袋。舞踏会の前には新しい靴。どれも高価で、丁寧に包まれていた。
けれど、贈り物を渡す手はいつも少し遠かった。
父は執務室で侍従に持たせた。母は「これを身につければ恥ずかしくないわ」と言った。親族は家名にふさわしい物を選んだ。
贈り物を受け取るたび、老いた執事が丁寧に箱を開け、結ばれたリボンをほどいた。
「よくお似合いになります」
彼はいつもそう言った。
優しい声だった。
けれど、それは使用人としての言葉でもあった。
大切にされている。
それは分かる。
でも、愛されているのかは分からなかった。
アメリアは、誰かが自分のために少しだけ予定を変えてくれることを望んでいた。手袋よりも、宝石よりも、呼べば振り返ってくれる時間が欲しかった。
その願いは、子どもの頃からずっと彼女の中にあった。
貴族の家に生まれ、礼儀作法は教えられた。笑い方も、歩き方も、食事の仕方も、返事の仕方も学んだ。
けれど、誰かに無条件で抱きしめられた記憶は少ない。
父は忙しく、母はいつも体裁を気にしていた。使用人は丁寧だったが、それは仕事だった。友人はいたが、皆、家柄や婚約や噂の中で笑っている。
愛されたい。
そう思うことは、子どもじみていると分かっていた。
子どもの頃、アメリアはよく窓辺に座っていた。
庭で遊ぶ使用人の子どもたちを見ていた。彼らは泥で服を汚し、転んで泣き、誰かに抱き起こされていた。泣けば叱られることもある。けれど、誰かが必ず手を伸ばす。
アメリアには、その手が羨ましかった。
彼女の周りには、いつも人がいた。乳母、侍女、家庭教師、母の友人。けれど、彼らの手はすべて丁寧で、距離を測っていた。
大切にされていないわけではない。
それでも、愛されているとは少し違った。
ある日の茶会で、年上の伯爵夫人が言った。
「あなたは不思議ね」
「何がでしょう」
「皆に好かれているのに、誰にも甘えられていない顔をしているわ」
アメリアは笑った。
いつもの笑顔だった。令嬢として教えられた、美しい笑顔。
伯爵夫人はその顔を見て、小さな紙片を差し出した。月と扉の古い紋章が描かれている。
「もし本当に欲しいものがあるなら、訪ねてみるといいわ」
「お店ですか?」
「願いを扱う店よ」
アメリアは紙片を受け取った。
その日の夜、寝る前に何度もその紋章を眺めた。
欲しいものなら分かっている。
宝石ではない。
新しいドレスでもない。
もっと曖昧で、もっと子どもじみたものだ。
翌週、アメリアは月環街を訪れた。
満願堂で最初に出されたのは、淡い桃色のリボンだった。
「好意のリボンです。身につけると、少し話しかけられやすくなります。表の棚の願具です」
リゼットは、一人の時間が少し寂しくなることがあるとも告げた。
アメリアは笑った。
「今でも寂しいわ」
アメリアは好意のリボンの代金を支払った。
リボンは優しく効いた。
茶会で声をかけられる。廊下で微笑まれる。使用人が少しだけ長く話してくれる。
小さな好意。
それだけでも、アメリアの胸は温かくなった。
けれど、すぐに足りなくなった。
少し話しかけられるだけではなく、もっと強く求めてほしい。
満願堂へ戻ると、リゼットは奥の棚から香水瓶を出した。
小さな硝子瓶だった。中の液体は淡い琥珀色で、光を受けると金色に揺れる。
「愛を引く香水です。魔願具にあたります」
「愛を」
「香りをまとった方へ、周囲が好意を抱きやすくなります」
「返りは?」
「好意の境目が曖昧になります。友愛、恋慕、所有欲、依存。そういったものが混ざることがございます」
アメリアは瓶を見つめた。
金貨を数枚出せば買える額だった。
高い。
だが、愛が買えるなら安いのではないかと思ってしまった。
アメリアは香水の代金を支払った。
リゼットは納願帳を開く。
アメリアは書いた。
愛されたい。
モルが匂いを嗅いだ。
「あまいにおい」
香水はよく効いた。
最初の香りは、控えめだった。
首筋に一滴。手首に一滴。アメリアが部屋を出ると、廊下にいた侍女が顔を上げ、いつもより長く目を合わせた。
「お嬢様、今日はとてもお綺麗です」
その言葉は仕事の礼儀かもしれない。だが、声の温度が違った。
茶会では、隣に座る令嬢がアメリアの手を取った。普段なら挨拶だけで終わる青年が、庭の花について話しかけてきた。母は珍しく、娘の髪に触れた。
アメリアはその夜、香水瓶を抱くようにして眠った。
茶会で、人々がアメリアを囲んだ。褒める。笑う。手紙が増える。贈り物が届く。婚約者候補が増える。使用人が彼女のために先回りする。
アメリアは満たされた。
だが、愛はすぐに重くなった。
友人は彼女と誰が一番親しいかを争うようになった。若い男は彼女の返事を待ち、返事が遅れると傷ついた顔をした。使用人は彼女の部屋へ入る役を取り合った。
一人になれない。
それなのに、一人になると香水をつけたくなる。
もっと愛されたい。
誰でもいい。どんな形でもいい。自分だけを見てほしい。
屋敷の空気が変わっていく中で、老いた執事だけは、いつもより少し離れて立つようになった。
「どうしたの?」
アメリアが尋ねると、執事は静かに頭を下げた。
「お嬢様が、お疲れではないかと」
「疲れてなんかいないわ」
そう答えながら、アメリアは香水瓶を握りしめた。
執事はそれ以上、何も言わなかった。
言える立場ではなかった。
ただ、部屋を出る前に一度だけ振り返った。その目が、アメリアには少し寂しそうに見えた。
その夜、アメリアは香水をもう一滴だけ増やした。
翌朝、侍女が扉の前で待っていた。
「お嬢様、お会いしたくて」
アメリアは嬉しかった。
嬉しいはずだった。
けれど、扉を開けた瞬間、胸の奥がほんの少しだけ苦しくなった。
母は昼食にアメリアを呼んだ。父は珍しく、執務室から顔を出した。友人からは三通の手紙が届いた。
皆がアメリアを見ている。
皆がアメリアを気にしている。
皆が、アメリアに何かを渡そうとしている。
それでも、夕方になると、アメリアは香水瓶を見つめていた。
まだ足りない。
そう思った時、自分でも少し怖くなった。
「でも、まだ足りないの」
翌日、アメリアは再び満願堂へ向かった。
付き添ったのは、その老いた執事だった。彼は店の外で待つつもりだったが、リゼットは静かに首を振った。
「よろしければ、ご一緒に」
執事は一礼し、少し離れた場所に立った。
アメリアはカウンターの前で、香水瓶を握りしめていた。
「もっと強いものが欲しいの」
リゼットは香水瓶を見た。
「愛を引く香水よりも、ですか」
「ええ。みんな私を見てくれる。声をかけてくれる。心配してくれる」
アメリアは少しだけ笑った。
「でも、まだ足りないの」
執事がかすかに顔を上げた。
叱るでも、止めるでもない。ただ、その言葉を聞き逃せなかった者の顔だった。
リゼットは静かに目を伏せた。
「それは、おすすめ致しません」
「なぜ?」
「愛以外の関係が、落ちていきます」
「愛があるなら、いいじゃない」
「愛は、優しさだけではございません」
「それでもいい」
アメリアは言った。
「誰でもいい。どんな形でもいい。私だけを見てほしい。私を愛してほしい」
リゼットはしばらく黙っていた。
「本当に、それだけでしょうか」
アメリアは眉をひそめた。
「どういう意味?」
「何が足りないのでしょう」
「愛よ」
「どなたの愛ですか」
アメリアは答えようとして、言葉を止めた。
父。母。友人。婚約者候補。使用人。
誰か一人を思い浮かべようとしても、うまく形にならない。
「みんな」
ようやく出た言葉は曖昧だった。
リゼットは何も言わない。
「みんなが私を大切にしてくれれば、それでいいわ」
「そうでしょうか」
アメリアは少しだけ苛立った。
愛されたい。
その願いのどこが間違っているのだろう。
「満願具をお望みですか」
「ええ」
執事が小さく息をのんだ。
リゼットは鍵を取り出した。
モルが立ち上がる。
「いく?」
「ええ」
重い扉の前で、リゼットは静かに言った。
「開けるのは、貴方様です」
アメリアは迷わなかった。
扉へ手をかける。
押す。
動かない。
少し驚いて、もう一度押した。
開かない。
「どうして?」
返事はない。
アメリアはさらに力を込めた。
けれど扉は沈黙したままだった。
「私は願っているわ」
開かない。
「愛されたいの」
開かない。
静かな廊下に、自分の息だけが響く。
その時だった。
ふと、昔の景色を思い出した。
子どもの頃。
窓辺から庭を眺めていた日。
転んだ使用人の子どもが泣きながら抱き起こされていた。
あの時。
羨ましかったのは何だっただろう。
愛されること。
本当に?
違う。
もしかすると。
誰かを信じて泣けることだったのかもしれない。
助けを求めても大丈夫だと思えることだったのかもしれない。
アメリアは扉から手を離した。
その瞬間。
ガチャリ。
小さく音がした。
アメリアは顔を上げる。
扉はほんの少しだけ動いていた。
指が入るほどでもない。
だが、確かに先ほどまでとは違った。
「開いた?」
「いいえ」
リゼットは静かに微笑んだ。
「まだです」
アメリアは扉を見つめた。
不思議と悔しくなかった。
むしろ、初めて自分の願いを考えた気がした。
「今日は、ここまでのようです」
リゼットはそう言った。
アメリアは香水瓶を見た。
そして少し迷ったあと、それを差し出した。
「返せるのかしら」
「納めることはできます」
リゼットは瓶を受け取った。
モルが鼻を近づける。
「あまい」
少し考えてから付け加えた。
「でも、わからないにおい」
アメリアは小さく笑った。
それは、初めて自分でもそう思った言葉だった。
帰り道、執事はアメリアの半歩後ろを歩いていた。
いつもと同じ距離だった。
けれどアメリアは、ふと振り返った。
「あなたは、私を心配していたのね」
執事は足を止めた。
「恐れながら」
「仕事だから?」
執事はすぐには答えなかった。
道の端で、月環街の灯りがゆっくり揺れている。
「お仕事でもございます」
そう言ってから、彼は深く頭を下げた。
「ですが、それだけではございません」
アメリアは何も言えなかった。
胸が温かいのか、寂しいのか、自分でも分からなかった。
けれどその日は、香水がなくても、屋敷まで歩けた。
数か月後。
満願堂へ一通の手紙が届いた。
黒い紐も封蝋もない。
ごく普通の便箋だった。
父と食事をしました。
母と散歩をしました。
友人とお茶を飲みました。
以前と何が違うのかは分かりません。
でも、少しだけ話せるようになった気がします。
愛されたいと思わないわけではありません。
けれど最近は、誰かを信じてみたいと思います。
リゼットは手紙を読み終えた。
モルが覗き込む。
「ひらかなかった?」
「ええ」
リゼットは便箋を畳んだ。
「今回は」
「だめだった?」
リゼットは首を横に振る。
窓から柔らかな光が差し込んでいる。
「まだ、仕上がっていないだけです」
モルは少し考えた。
それから小さく頷いた。
「つづきだ」
「ええ」
リゼットは手紙を納願帳の間へ挟む。
願いには、叶うものもある。
叶わないものもある。
そして時には、願いそのものがまだ形になっていないこともあるのだった。
お読みいただきありがとうございます。
また満願堂へお立ち寄りいただけましたら幸いです。




