第十六話 オルス・バルカの修理台
オルス・バルカは、物が壊れる音をよく知っていた。
木が割れる音。金具が歪む音。革が乾いて裂ける音。布の糸が弱っていく時の、ほとんど聞こえない音。
古道具修理職人として、彼はそういう音を聞いて暮らしている。
月環街の裏通りにある小さな工房には、いつも何かが持ち込まれる。脚の折れた椅子。留め具の外れた箱。歯の欠けた櫛。持ち手の緩んだ鞄。捨てるには惜しいが、新しく買うには高い。そういう物たちだ。
オルスは物を直す。
人の気持ちは直せない。
それでいいと思っていた。
オルスが初めて、物が願いを覚えると感じたのは、十五の頃だった。
師匠の工房に、小さな木馬が持ち込まれた。耳が片方折れている。持ち主の母親は、直してほしいと言いながら、何度も「捨ててもいいのだけれど」と付け加えた。
師匠は木馬を見て、すぐには工具を持たなかった。
「これは、折れた耳を直す仕事じゃない」
「じゃあ何です」
「持ち主が、まだ遊び終えていない」
オルスには意味が分からなかった。
だが、耳を直した木馬を返すと、母親は泣いた。数日後、病で外へ出られない子どもが、その木馬に乗る真似をして笑ったと聞いた。
それからオルスは、壊れた物の中に残るものを少しだけ気にするようになった。
木目、傷、手垢、布の擦れ。
物は、使った者の癖を覚える。
願具は、たぶん、それを覚えすぎたものなのだ。
オルスの工房には、願具ではないものも多く来る。
壊れた椅子。古い箱。母親の櫛。祖父の杖。恋人にもらった留め具。
そのほとんどは、ただの物だ。
ただの物だが、雑に扱っていいわけではない。
オルスはよく、客に言う。
「直すなら直す。捨てるなら捨てる。だが、どっちにするか決めるのはあんただ」
客はたいてい迷う。
迷っている物を預かる時、オルスは少しだけ面倒だと思う。面倒だが、嫌いではなかった。
だからこそ、願具になりかけの品は厄介だった。
物の方が、決めてしまっているからだ。
帰りたい。
壊れたい。
待ちたい。
忘れられたくない。
そういう癖が、木や布や金具の奥に染みている。
人の迷いなら待てる。
物の迷いは、時々、待ってくれない。
オルスの工房には、客がよく泣きに来た。
祖母の椅子を直してほしい。母の箱を捨てられない。子どもが使っていた木馬の耳が折れた。そういう依頼は、たいてい物の修理だけでは済まない。
客は壊れた物を持ちながら、壊れた日の話をする。誰が使っていたか、いつ買ったか、なぜ捨てられないのかを話す。
オルスは聞く。相槌は少ない。慰めもしない。
ただ、直せるものなら直す。
それが自分にできる全部だと思っていた。
だが、その櫛だけは違った。
飴色の古い櫛だった。細かい彫りがあり、丁寧に使われていたことが分かる。持ち込んだのは年老いた男で、亡くなった娘のものだと言った。
「直せるか」
「欠けてるだけならな」
オルスはそう答え、櫛を預かった。
欠けた歯を整え、弱った部分を補強する。古い艶を殺さないように磨く。仕事としては難しくない。
だが、翌朝、櫛はまた同じ場所が欠けていた。
オルスは眉をひそめた。
見落としではない。
もう一度直した。
翌日、また欠けた。
その次の日も。
同じ場所が、同じ形に、戻るように欠ける。
オルスは作業台の前で櫛を睨んだ。
「……壊れてるんじゃないな」
呟いた声に、工房の空気が少しだけ重くなる。
これは、壊れたままでいたがっている。
そう思った瞬間、背筋が冷えた。
物が何かを望む、という考えをオルスは好まなかった。
職人は木目を読む。革の癖を見る。鉄の疲れを知る。だが、それは物が喋るという意味ではない。あくまで、物に残った使い方の跡を読むだけだ。
それでも、その櫛は違った。
直すたびに、同じ欠け方へ戻る。まるで、そこに欠けた歯があることでしか、誰かを覚えていられないと言うようだった。
オルスは櫛を布で包み、満願堂へ向かった。
満願堂には、何度か来たことがあった。修理屋の間では、扱いきれない品はあそこへ持っていけ、と古くから言われている。
捨てるな。
燃やすな。
直そうとしすぎるな。
納める場所がある。
そういう言い方をする。
扉を開けると、紅茶と古書の匂いがした。
「いらっしゃいませ」
黒髪の管理人が顔を上げる。
オルスはカウンターへ布包みを置いた。
「面倒な品だ」
「ありがとうございます、オルスさん」
「礼を言われるようなことはしてない」
「ここへ運んでくださいました」
「持ってくるしかなかったんだ」
オルスはそう言いながら、視線をカウンターの上のモルへ向けた。
モルは工具袋に興味津々だった。鑿の柄に鼻を寄せ、糸巻きを前足で転がそうとしている。
「触るな。指を挟むぞ」
「はさむ?」
「痛い」
モルは少し考えた。
「じゃあ、そっと」
「触るなと言った」
リゼットは静かに笑っていた。
工具袋のそばにいたモルが、少しだけ工具袋に鼻を寄せた。
「だから、工具袋には触るな」
「さわらない」
「木と鉄のにおい」
「当たり前だ」
オルスは布を開いた。
飴色の櫛が現れる。
リゼットはすぐに手を伸ばさなかった。
「持ち主の願いは?」
「亡くなった娘の髪を、もう一度梳きたいそうだ」
リゼットは目を伏せた。
「そうですか」
「直しても直しても、同じところが欠ける。こいつは壊れてるんじゃない。壊れたままでいたがってる」
モルが櫛の匂いを嗅いだ。
「こわれたいにおい」
少し間を置いて、
「でも、だいじにされてた」
リゼットはようやく櫛に触れた。
「願具になりかけています」
「作った覚えはないぞ」
「願具は、職人が作るものではございません」
オルスは黙った。
リゼットは櫛を黒布の上へ置く。
「人の願いが、品に宿るのです。長く使われたもの。強く願われたもの。手放せなかったもの。そうした品は、時々、願いを覚えすぎます」
「物は、使ったやつの癖を覚える」
オルスは櫛を見た。
「願具は、それを覚えすぎるわけか」
「ええ」
リゼットは頷いた。
「この櫛は、表の棚には置けません。けれど、奥の棚ほどでもございません。まだ、誰にも根付いていません」
「なら、どうする」
「少し休ませます」
リゼットは小さな箱を出した。
内側に柔らかな布を敷き、櫛を納める。
オルスはその手つきを見ていた。
物を扱う手だった。
ただ飾るのでも、捨てるのでもない。終わったものを乱暴に片づけるのではなく、まだ終わっていないものを静かに寝かせる手。
「持ち主には何と言えばいい」
「もう直せない、と」
「それだけか」
「直すことが、必ずしも救いではないこともございます」
オルスは小さく息を吐いた。
「言いづらいな」
「ええ」
「俺は職人だ。直せないと言うのは、負けた気がする」
リゼットは少しだけ微笑んだ。
「納められる方も、職人です」
その言葉が、妙に腹に落ちた。
オルスは工房へ戻った。
翌日、老いた男が来た。
オルスは櫛を返さず、満願堂へ納めたと伝えた。
男は怒らなかった。
ただ、長い時間黙っていた。
「そうか」
やがて、そう言った。
「直らんか」
「直さない方がいい」
オルスは言った。
「たぶん、あんたも分かってる」
男は両手で顔を覆った。
泣いているのか、笑っているのか分からなかった。
櫛の次にオルスが満願堂へ持ち込んだのは、古い椅子だった。
座面は沈み、脚は一本だけ短くなっている。普通なら修理は難しくない。脚を継ぎ、座面を張り替えれば済む。
けれどその椅子は、修理台の上に置くと必ず工房の入口を向いた。
向きを変えても、翌朝には入口を向いている。
オルスは最初、誰かのいたずらかと思った。だが夜は鍵をかけている。床に傷もない。
持ち主は、帰らない息子を待っていた老人だった。
老人はすでに亡くなっている。だが椅子だけが、まだ入口を見ていた。
オルスは椅子の脚を撫でた。
「お前は、まだ待ってるのか」
椅子は答えない。
答えないが、入口を向いている。
オルスは工具を置いた。
直せば、もっと長く待てるようになる。だが、それがよいことなのか分からない。
その時、彼は自分が物の修理ではなく、願いの延命をしようとしていることに気づいた。
だから満願堂へ持っていった。
リゼットは椅子を見て、すぐに言った。
「帰りたいのではなく、待っていたい品ですね」
オルスは舌打ちした。
「そういう言い方をされると、余計面倒だ」
「面倒な品を、よくお持ちくださいました」
モルは椅子の下に潜り込み、丸くなった。
「ここ、落ち着く」
「座るな」
「座ってない。寝てる」
「同じだ」
リゼットは笑った。
オルスは結局、椅子を直さずに納めた。
直さないという仕事もあるのだと、少しずつ覚え始めていた。
数日後、満願堂の棚には小さな箱が置かれていた。
表の棚でも、奥の棚でもない。カウンターの奥、リゼットの手が届く場所。
モルがその前で丸くなる。
「帰りたいにおい」
リゼットは箱にそっと触れた。
「まだ、帰る場所を間違えていません」
「いいこと?」
「ええ」
リゼットは静かに言った。
「よい納め時でした」
オルスはその後、満願堂へ来るたびに少しずつ慣れていった。
慣れたくはなかった。だが、茶器を割らずに持てるようになり、モルが工具袋を覗いても怒鳴らなくなり、リゼットの「ありがとうございます」にいちいち居心地悪くならなくなった。
ある日、彼は割れた肖像額を持ってきた。
中の絵はない。持ち主は、絵だけを失くしたと言った。だが、枠だけが毎晩壁から落ちる。壁に掛けても、翌朝には床にある。
「中身を探してる」
オルスは言った。
「絵を入れれば直るかもしれん」
「どの絵を?」
リゼットが聞く。
「それが分からんから持ってきた」
モルは肖像額の縁を嗅いだ。
「顔のにおい、ない」
「ないのか」
「ない。でも、見たいにおい」
リゼットは額を受け取り、表の棚には置かなかった。
「まだ、願具になりきってはいません」
「じゃあ何だ」
「願いかけです」
オルスは眉をひそめた。
「厄介な言葉を増やすな」
「物が願いを覚え始める前です」
「直せるか」
「持ち主が、何を見たかったのか思い出せるなら」
オルスはため息をついた。
物を直すより、人に思い出させる方が難しい。
けれど、それもまた物を扱う仕事の端なのかもしれないと、彼は少しだけ思った。
オルスは、願具になりかけの品をすべて満願堂へ持っていくわけではなかった。
まだ持ち主のところで眠れるものは返す。まだ使えば落ち着くものは直す。納めるより、手元に置いた方がいい品もある。
その見分けは難しかった。
ある若い女が、割れた鏡を持ってきた。恋人に別れを告げられた日に落として割ったという。鏡には願いが染みかけていた。自分を見てほしい、自分を選んでほしい、という願い。
オルスは満願堂へ持っていこうとして、やめた。
鏡の割れ目を磨き、縁を直し、ただし真ん中のひびだけは少し残した。
「完全には直らない」
女にそう言うと、彼女は鏡を見て泣いた。
「でも、見えるわ」
「ああ」
「前より少し、歪んでる」
「割れたからな」
彼女は鏡を抱えて帰った。
数日後、オルスは満願堂へ行き、リゼットにその話をした。
「納めなくてよかったんですか」
「たぶんな」
モルが言う。
「まだ、あの人のにおい」
「そうか」
オルスは紅茶を受け取った。
満願堂へ納めることと、持ち主へ返すこと。どちらが正しいか、いつも分かるわけではない。
だからこそ、モルの匂いとリゼットの目が必要なのだと、彼は少しずつ理解し始めていた。
職人の仕事に、厄介な判断が増えた。
それでも、彼は満願堂へ来るのをやめなかった。
その夜、オルスは工房の明かりを落とす前に、修理台の上を見た。
そこには、壊れたままのものも、直しかけのものも、明日取りに来る客の椅子もある。
物は壊れる。
物は直る。
だが、直らない方がいいものもある。
そのことを知ってしまった職人の手は、以前より少しだけ慎重になった。
オルスは工具を布で包み、ひとつずつ箱へ戻した。
「面倒なことになったな」
そう呟いた声は、けれどそれほど嫌そうではなかった。
後日、オルスは満願堂へ椅子の件で礼を言いに来た持ち主の話をした。
礼と言っても、言葉は短かったらしい。
「納めてよかった」
ただそれだけだった。
オルスはその報告を終えると、カウンターに出された紅茶を見下ろした。薄く、軽いカップだった。工房の木杯とは違い、力を入れれば割れそうだった。
モルは工具袋から少し離れた場所に座り、じっと中を見ている。
「見るだけだぞ」
「見るだけ」
「前足も入れるな」
「入れない」
「鼻もだ」
モルは少し考えた。
「鼻も?」
「鼻もだ」
「むずかしい」
「難しくない」
リゼットはそのやり取りを見て、静かに笑った。
「オルスさんは、物に優しいのですね」
「人に厳しいみたいに言うな」
「人にも優しい方です」
オルスは紅茶を飲んだ。香りが良かった。腹立たしいほど落ち着く味だった。
「俺は、直すだけだ」
「はい」
「願いまでは直せない」
「ええ」
「だから、ここへ持ってくる」
リゼットは頷いた。
「よい納め時を見つけてくださいます」
その言葉を聞いて、オルスは少しだけ息を吐いた。
直せないものを、無理に直さずに済む場所がある。
職人にとって、それは救いなのか厄介なのか、まだ分からなかった。
けれど、その場所があることを知った手は、以前と同じには戻らない。
オルスはカップを置き、工具袋を肩にかけた。
「次は、ただの椅子だけにしてくれ」
「そう願っております」
モルが言う。
「でも、また来る」
「来るなと言っても来るんだろうな」
「うん」
「勝手に決めるな」
そう言いながら、オルスは扉へ向かった。
満願堂の鈴が鳴る。
外の通りへ出ると、工具袋がいつもより少しだけ重く感じた。
中身は変わっていない。
変わったのは、たぶん持つ手の方だった。
お読みいただきありがとうございます。
また満願堂へお立ち寄りいただけましたら幸いです。




