5-2 揺らぐ境界線上にて
――さあ、選ぶがいい。
そのまま蹲り朽ち果てるか。
立ち上がり我らと往くか。
小百合を喪った俺の前で千影が問うた。精神の生死を形にした言葉が傷だらけの体と心に染み込み、激痛を叫んで内側を切り裂きどこかに吸収されていく。
抗えぬ暴虐を前に打ちのめされ、地に手をつき嘆くだけの時間は終わった。
遺志を継がなければならない。誰かに強制されたわけではなく、土で塗り上げた偶像を崇めるわけでもなく無意味にしないために前へ進まなければならない。
だから問い返した。小百合の死を無駄にしない生き方が俺にもできるのか、と。
――貴様次第だ。貴様が殺そうと、殺すまいと死者は何も言わないよ。
分かっている。冷たくなった小百合の体は何の反応も示さない。
これから俺がどのような道を進もうと、失われた者達が妨げることはない。
死はただそこに転がっているだけの現実で、どう受け入れ噛み砕くかは生きているものが好き勝手に作り変えるからだ。殺すも生かすも自分次第だった。
差し伸べられた手を取って歩き出す。
先に歩く頭に付き従って青璃に八千翔、初が続く。
そうして俺は罪によって罪を裁く者達と共に往くと決めて、車に乗り体を揺らされている。隣には柔らかい笑顔を浮かべた青璃が座り、その先には初が仏頂面で足を組んでいた。
前の助手席で八千翔がナビを操作しつつ、運転手へ進行方向を示す。ハンドルを握る千影は道路の脇に立つ制限速度を示す標識を目にしながらも、無視して突っ走り八千翔に窘められていた。
「ああ、もうダメですってば!
この道路は時速四〇キロまでですよ。
六〇も出さないでくださいっ」
「何が問題なんだ。道を外れなければ構わないのだろう?」
「あのー、もしかしてレーシングゲームと同じだと思ってません?」
「しちら面倒臭い試験もパスできたのだ。マルオカートシリーズは名作だよ」
「……冗談ですよね。ね。いや、ホントそういうのやめてくださいよ!」
俺も冗談だと思いたい。自称一八歳ということで、法律上は運転できる資格を有しているし、実際に奇妙な笑みを浮かべた写真つき免許証を保持していることから、試験に通ったのは間違いないのだが運転が荒すぎる。
カーブで片側の車輪が浮き上がるほど車体を傾け、戻った反動で上下にバウンドし脳を揺らされる。また次のカーブで逆側に倒れ込み、あわやガードレールを突き破ってショートカットを行わんとする勢いだった。
「こうもカーブが続くと直線で行った方が楽だと思わないか?」
「千影さん、物理的に無理ですって。普通の車はゲームみたいに飛びません!」
「む。しかし前にセコい裏技でごぼう抜きにしただろう。あれの応用でだな」
「なんでそんなとこ根に持ってるんですか! あああぁぁ、ぶつかるっ!」
「おおっと、危ない危ない」
いつの間にか対向車線を走っており、カーブミラーに激突しかけていた。
何でもないように千影が神業的な立て直しで曲がる。
車体が傾ぎ、戻ってまた脳が揺らされる。
乗り心地は最悪というレベルを通り越し地獄級だ。
このまま繰り返しシェイクされ続けると吐きそうになる。
青い顔をしている初は恐らく境界線上にいるのだろう。
「――でね。神にも座席順っていうのが決まっているんス。
ボクの〈天海堕落〉は一時的に席次の並ぶ
空間を歪曲させて意図的にずらし、一体を引き摺り下ろして
自分の体に憑依させる、そういう素敵な仕組なんでスよっ!」
「全然分からない。ってか、黙って。喋らせないで」
「もう、初ちゃんは相変わらず不勉強ッスねぇ。勉強は大事ッスよ?」
「あーっ! うるさいうるさいうるさいっ!
セイリスといい後ろでいびきかいてる馬鹿といいっ!」
叫んだ直後に初が眉間に皴を寄せ、口元を抑える。まさか少女の嘔吐シーンを拝見するわけにもいかず、シートの後ろにあったエチケット袋を青璃越しに渡、そうとしたが右手で口元を抑えた初に左手と射殺すような視線で止められた。
彼女なりのプライドがあるのか、それとも単に俺を毛嫌いしているだけか。
「……あの、せめて近くじゃなく遠くを見ると楽になる、と思います、よ」
「優しかったり辛辣だったり来々木くんは不思議ッスね」
「いくらなんでも死体蹴りするほど性格悪くないですよ」
何のメリットもない。思ったままのことが口から出てしまっていることは多少反省するが、事実を言っているだけだ。
切田 初には少女らしさというものはまるで感じられない。
抱く印象と現状は別。車内で吐かれようものなら今以上に居心地が悪くなる。
車窓から見える景色は見飽きるほど延々と続く森林樹木の空間で、千影が標識を無視しても見咎める警官はいないだろうし、対向車すら見えない。見られていないから犯罪をしていい、というわけでもないが恐らく千影は徹底的に無駄を省く主義なのだろう。
安全運転に必要な要素を無意味だと削り捨てる神経を同じように思っている俺がどうこういう権利はないと思う。
背後では獣が唸るようないびきが鳴り響いている。
本来荷物を載せるスペースで、積まれたバッグを気にする素振りもなく寝っ転がっているのは、あの血塗れの少年だった。
坂敷 紅狼。さる名家の出身らしいが、その有り余りすぎる暴虐性のため勘当されたと聞いた。事実かどうかは分からないが。
とてもじゃないが問い質せる胆力がない。
初や表には出していないが八千翔も紅狼を苦手としているようだ。
初対面の俺も畏怖を覚えた。理由のない、本能的な拒絶の意志と同時にこの場で殺害しておくべき脅威を感じた。
明らかな脅威であっても放逐してあるのは千影が御せるということなのだろう。
原初から続く単純かつ明確な法則がある。弱きものはより強き力を持つ者には従わざるを得ない。従わねば殺されるというのであれば恭順を選ぶ。
他の面々も自身が生き残ることを第一目的とする場合、圧倒的な戦力である紅狼を味方側として置くことの方が有益だと捉えている。もっとも、千影が抑えることを前提としているため、不確実な制御法だ。
裏を返せば千影が絶大な信頼を持つことになる。
その根拠も強大無比な殺戮能力による。
どこまでいっても、この世界は弱肉強食だ。
理解していながら組み込まれる俺もまた、同じ場所へ堕ちようとしている。
小百合は言った。託してくれた。受け継いだ以上は誰を利用しようが構わない。あらゆる手段を用いて力を蓄える。必要であれば従順な猟犬であろうと思う。
がるるるるる、と狼が咆哮するような寝息が聞こえる。この環境で寝続けられるのは相当なものだ。でなければ、あれだけの殺戮も耐えられないのかもしれない。
「――くん、来々木くんってば!」
「あ、はい。なんでしょう」
「あ、はい。なんでしょう、じゃないッスよ! 無視しないで欲しいッス……」
「すみません」
平然と自らの異能について語り、付随する神話と伝承をご教授してくださる青璃も相当のものだ。眼帯に隠れていないライトグリーンの左目が爛々と輝いている。
初はもはや声を出すこともできず、内装の取っ手とシートで体を支えて車窓の外を見ていた。
車はさらに山奥へと向かって爆走していく。
俺達はどこへ向かうのだろう。
「天海さん、一つ聞いてもいいですか」
「まだ硬いッスねぇ。あ、ボクには双子のゼキエルがいるんで、
できれば名前で呼んでほしいッス。まぁ兄貴も来々木くんと
似たり寄ったりな堅物さんなんスけどねー。困ったもんでスよね」
「……ゼキエル?」
「セイリスの兄、もう一人の〝天使憑飼い〟
天海 赤亜さんのこと、よ……うっぷ、けぷっ」
遠くの景色を見ながら絞り出すように初が補足してくれた。
赤亜でゼキエル。どこがどうなってゼキエルになるのか全く分からない。
が、突っ込まない方がいいだろう。
言ってはいけないと本能的な何かが訴えている。
「なるほど。では、セイリスさん。改めて聞いてもいいですか」
「さん付け禁止ッス。ホントにお尻がむず痒くなってうっかり何か天使を堕としちゃうかもしれないんで、勘弁して欲しいッスね。で、何ッスか来々木くん」
「じゃあ俺も呼び捨てにしてください。セイリス、どこへ向かってるんですか」
「うんうん、亮と一歩また近付いたッスね!
セイリスって呼んでくれて嬉しいッス!」
青璃が満足そうに頷く。喜ぶのはいいのだが、話が進みそうにない。
席の間から見えるナビに目をやっても古いタイプらしく山の中を突っ切っている。どこに向かっているのかさっぱり分からない。
千影が一瞬バックミラーに視線をやってから口を開く。
「今、向かっているのは我らの本拠地、だ。今のところの、な」
「いいですか、千影さん。これからは基本的に一本道です。
でも絶対にショートカットとかブーストとか考えちゃダメですからね!
現実世界にはダッシュパネルとかないですからねっ」
「分かった分かった。全く、軽い冗談だというに……」
「冗談に思えないから言ってるんです!」
鼻息荒く諌める八千翔が叫んで、大きく溜息を吐いた。
この人も相当に苦労してそうだ。
最初に会った時から世話焼きというか、面倒見がいいお姉さん役だというのが見て取れたが最年長かつ首魁たる千影とも仲間との緩衝役になっているのだろう。
何だか自然と涙がでてきた。ようやく左右の揺れも収まり、一息ついて座席に身を沈める。初も何とか峠を越えたようで、安堵の溜息を吐いた。
「ええっと……亮、だっけ。ありがと。一応、礼は言ってあげる」
「お役に立てて光栄でございます。お嬢様」
「誰がお嬢様だ! そういうのはやち姉に言ってあげるんだよっ」
「私もお嬢様なんて柄じゃないのよ?」
「そうッスか? でも八千翔ちゃんもいいとこの出だったような……」
「そういう話は今はいいの。そう、今は無事に辿り着けそうなことを喜ぶべき」
俺も内心では胸を撫で下ろす気持ちだった。
煉瓦造りの大きな門を通らず、脇の小道へと入る。対向車線とを分ける線すら引かれておらず、道の先はますます幅を狭めていく。一応舗装はされているがほぼ山の獣道と同じだった。急な坂を下りていき、バウンドする車内で悲鳴と絶叫が響く。変わらずいびきも鳴っている。
鬱蒼と生い茂る森林へ飛び込んでいく。
光すら届かないほどに木々の葉と葉が重なっている。
鳥の鳴き声を掻き消し、エンジンを鳴らして俺達は山奥へと進む。
車輪が道幅ぎりぎりを走って八千翔がまた諫言を叫び、千影が鼻を鳴らす。初がもう嫌だと半泣きになり、青璃が優しく宥めつつ左手をつっかえ棒のようにして自身の肉体を揺らさず車内に突き立つ柱と化す。
紅狼は寝っ放しで体を跳ねさせ、俺はそんな全員の様子を観察していた。
一切の不安がないわけでもない。また、殺人者の論理を素直に受け止めることはできないが、うまくやっていけるかどうか、どんな者達がいるのか懸念材料は尽きない。
それでも、彼らを見ていると非日常の中にも日常が存在するのだと思った。
暗き森の中を走る車の前方に光が差す。森を抜けて拓けた道に出た。
澄み渡る青空から陽光が降り注ぐ。
日の恵みを浴びて燦然と輝く巨大屋敷が見えていた。