第九話 仕切る
雲は薄く広がり、空は淡く白に染まっていた。
梅雨が明けたばかりの空気には、まだ湿り気が残る。日光を受けて濡れた地面がかすかに照り返し、風が吹くたびに木々の葉先から雫が落ちた。
そんな穏やかな空模様とは裏腹に、訓練場には張り詰めた空気が満ちていた。
霧島はその中央で刀を正面に構え、目を閉じたまま立ち尽くす。
一方、時を同じくして、駐屯地の廊下を、内閣情報調査室の調査官である姫氏原が歩いていた。
後ろで艶のある黒髪をまとめ、首元まで覆う衣服の上に羽織った上着が、歩調に合わせて揺れる。
彼女は廊下の先へ目を向け、周囲を確かめるように視線を巡らせた。
「一体どこに……」
そう言って姫氏原は小さく息を吐く。
そのまま廊下を進んだ先で、開け放たれた訓練場の入り口が目に留まった。何気なくそちらへ視線を向けた彼女は、そこで足を止める。
訓練場の中央に、刀を構えた霧島の姿があった。
姫氏原は思わず息を潜める。
ただ刀を構えているだけにもかかわらず、その場には容易に踏み込めないような緊張感が漂っていた。
やがて、霧島の指先がわずかに動いた。刀を引き、ゆっくりと鞘へ納める。乾いた金属音が小さく響き、閉じられていた瞼が開かれた。
その瞬間、二人の視線が交差する。
「……」
だが霧島は何も言わず、姫氏原を一瞥しただけで訓練場を出ていこうとした。
「ま、待ってください」
考えるより先に、姫氏原の声が飛び出す。
「……何だ」
霧島は足を止め、顔を向けることなく視線だけを横へ流した。
姫氏原は一瞬、言葉に詰まるが、すぐに気を取り直して姿勢を正す。
「よ、呼び止めてしまってすみません。沢渡1佐がどこにいらっしゃるか、ご存知でしょうか」
「……あいつなら自分の部屋にいるだろ」
「それが、いらっしゃらないんです」
その返答を聞いた時、霧島の瞳が細く尖った。
「会って何する気だ」
「自衛隊が再び超能力者の抹殺に動き出したという情報を得ました。ですので、それについての確認をと。霧島2尉は何かご存知ですか?」
「……」
姫氏原が問いかけると、霧島は面倒そうに顔を伏せる。
「新たな抹殺作戦が始まるとき、自衛隊は外部との調整も兼ねて、本部で報告会議を開く。お前の情報があっているのなら、沢渡がいないのはそのせいだ」
「報告会議……それはどちらで?」
「今から聞いても無駄だ。もう終わっている時間だ。それに恐らくもう——」
言葉の途中で、霧島の視線が窓の外へと向いた。
姫氏原もつられてそちらを見る。
駐屯地の正門を、三台の黒塗りの車が続けて通過してきた。先頭と最後尾の車に挟まれた中央の一台が建物の前で停車し、後部座席の扉が開く。
姿を現したのは、沢渡だった。
霧島はその姿を確かめると、何事もなかったかのように視線を戻した。
ほどなくして、廊下の向こうから複数の足音が近づいてきた。足早に訓練場へ入ってきた沢渡は、霧島を見つけて足を止めた。そして、その隣に立っていた姫氏原へと目を向ける。
「……内調はもう嗅ぎつけたか」
その声音には、隠すつもりもない嫌味が滲んでいた。
「沢渡1佐。自衛隊が再び抹殺作戦を開始するとの情報を得ています。現状を見る限り、それは事実のようですね。つきましては、今回も監督に入らせていただきます」
姫氏原は相手の態度に動じることなく、淡々と告げた。
沢渡は舌打ちを一つ漏らす。
「……相変わらず面倒な連中だ」
吐き捨てるように言ったものの、すぐに肩をすくめた。
「いいだろう。これから作戦会議を開く。そこへの参加を許可してやる」
そう言いながら、続けて沢渡は霧島へ視線を移す。
「霧島2尉、お前も来い」
数分後、会議室には霧島や姫氏原を含め、数十人の自衛官が集まっていた。
広々とした室内には長机が整然と並び、正面には大型のスクリーンが設置されている。やがて扉が閉じられると、スクリーンに資料が映し出される。
「これより、次の作戦について説明する」
前方に立つ沢渡は、集まった者たちを見渡した。
「先に言っておくが、今回の作戦は困難になる。標的の異常性を考えれば、我々が取れる行動はかなり制限されるからな」
スクリーンの資料を切り替えながら、沢渡は続ける。
「おそらく、警察の連中もその点を理解して安堵するだろう。だが、だからこそ我々は奴らの想定をさらに上回る必要がある」
その言葉を最後に、沢渡の視線が一人の男へと向けられた。
「今回の任務には、真壁 仁を投入する。そこで霧島2尉にはその制御を頼みたい。あの男は我々の言うことには聞く耳を持たないからな」
名指しされた霧島は、わずかに目を細める。
「……あれを使うのは愚策だ。どれだけ強くたって団体行動に不向きなただ馬鹿だぞ。そんな事も忘れたのか?」
吐き捨てるように答え、霧島は沢渡を睨み返し、会議室の空気がわずかに張り詰めた。
そんな中、話の内容に疑問を抱いた姫氏原が手を挙げる。
「すみません。その真壁という人物は、いったい何者なのでしょうか。話を聞く限り、単なる一個人でありながら、作戦の成否を左右するほどの力を持っているようですが……ということは、やはり」
そこで一度言葉を切り、周囲の反応を確かめるように視線を巡らせた。
「その人物は超能力者なのですね。そして、私がその存在を知らなかったということは、自衛隊はその情報を内調に隠していた」
「フッ、勘がいいな」
沢渡は小さく息を吐くと、頬杖をつく。
「まあ、その話は後だ。今は真壁の投入について話したい」
「……分かりました。ただし、会議が終わった後、真壁という超能力者についての情報は共有していただきます」
姫氏原は不満を滲ませながらも、ひとまず追及を引き下げた。
「さて、話を戻そう。霧島2尉。お前は真壁の投入に異論があるようだな」
「……ああ、そうだ。あの男は周りがどうなろうと関係ない。そんな奴を戦場に放り込めばどうなるか、それくらい分かるだろ」
その言葉の端々には明確な苛立ちが滲んでいた。
しかし沢渡はそれを咎めるどころか、むしろ面白がるように口元を歪める。
「だからそのような事態にならないよう、お前が制御するんだろ?」
「できると思っているのか」
「お前にできるかどうかなど、どうでもいい」
頬杖を解き、沢渡は言い放つ。
「お前は命令された以上、最善を尽くすしかない。それが契約だからな」
最後に、まるで話は終わったとでも言うように軽く手を振った。
「ということだ。任せたぞ」
霧島はしばらく黙っていた。
沢渡を見据えるその瞳には、反抗の色が消えていない。だが彼は歯を食いしばって怒りを押し止め、視線を逸らした。
「……なら、最初から俺に聞くな。命令だけしていればいいだろ」
それだけ言い残すと、霧島は椅子を引いて立ち上がり、脚が床を擦る音が会議室に響く。
「お前の見解を聞いてみたかったんだ」
沢渡は引き留めることもなく、去っていく霧島の背中を横目で追った。
霧島が会議室を出ると、廊下には先ほどまでの緊張が嘘のように静けさが広がっていた。
そのまま訓練場へと戻り、入り口に差しかかった時、
「霧島2尉」
背後から、落ち着いた声がかかった。
霧島は足を止めず、わずかに首を巡らせる。
そこにいたのは姫氏原だった。会議室を出た彼を追いかけてきたのか、呼吸が少し乱れている。
「……何だ」
「き、聞きたいことがありまして」
姫氏原は歩調を速めて隣に並ぶ。
「真壁 仁について、事前に情報をいただけませんか」
「……無駄だ。説明したところで、理解できるような相手じゃない」
「それでも構いません」
即座に返された言葉に、霧島は小さく息を吐いた。
「あの男は、傍若無人という言葉が服を着て歩き回っているような男だ……あとは自分で考えろ」
「……それだけ、ですか」
姫氏原の瞳に、わずかな困惑が浮かんだ。
しかし直後、彼女はすぐに気を取り直す。
「では、霧島2尉。私も真壁仁のところまで同行させていただきます」
その言葉に、霧島は初めて足を止めた。
「……その許可が欲しいなら、沢渡に言え」
「いえ、許可を求めているわけではありません。内調は自衛隊の監督機関です。私は私の判断で動けますし、必要とあれば、そのように行動します」
それは異論を認めないというきっぱりとした口調だった。
その様子に、霧島は呆れたように額を抑え、低く吐き捨てる。
「……どいつもこいつも、勝手にしろ」
* * * * *
一台の装甲車が、山道を進んでいた。
窓の外には濃い緑が広がり、張り出した枝葉が車体をかすめるたび、乾いた擦過音が車内に届く。車輪が凹凸の激しい地面を踏み越え、車体が大きく揺れ動いていた。
その車内で、姫氏原は落ち着かない様子で窓の外を眺める。
「あ、あの……この車はどちらへ向かっているんですか」
「真壁のいる場所だ」
向かいに座る霧島は、腕を組んだまま目を閉じていた。
装甲車は次第に山深くへと入り込んでいく。両脇から迫る木々が視界を塞ぎ、頭上を覆う高木が陽光を遮る。薄暗い木陰の中を、装甲車は重い車体を軋ませながら進み続けた。
しばらくして、前方に仰々しいフェンスが姿を現した。
山の斜面を横切るように設置された金属製の柵は、周囲一帯を封鎖するように延びている。人の立ち入りを拒むその無機質な佇まいは、山中の風景からひどく浮いていた。
装甲車が減速し、フェンスの手前で停止する。
そして、霧島は刀を携えて車外へ降り、柵の前まで歩み寄った。
「一閃」
そう唱え、刀を素早く二度振るう。
鋭い音が続けて響き、フェンスの一部が切断され、人ひとり分ほどの隙間が生まれた。
そして刀を収めると、その隙間をくぐって山の中へと入っていく。
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
姫氏原は慌てて車を降り、切断されたフェンスを通り抜けた。置いていかれまいと霧島の背中を追いながら、周囲へ視線を巡らせる。
「真壁仁はこんなところにいるんですか?」
「……」
問いかけても、返事はない。
霧島は足を止めることなく、木々の間を進んでいく。
しばらくすると、頭上を覆っていた枝葉がまばらになり、周囲に差し込む光が増えてきた。同時に、折れた木々や、地面から無理やり引き抜かれたかのような根が目につき始める。
まるで、その一帯が何かに蹂躙された後のようだった。
その時、不意に強い風が二人の横を吹き抜けた。
姫氏原は反射的に顔を背け、髪を押さえる。風が収まってから前を向き、そこで初めて異様な光景に気づいた。
「……っ!」
視界の先に、巨大な窪地が広がっていた。
大地そのものが抉り取られたかのような、途方もない大穴。円形に近いその地形は、まるで月面のクレーターを思わせた。
むき出しになった地層が何重にも重なり、崩れた斜面には土砂や岩石が散乱している。
自然に形成された地形とは、到底思えなかった。
「……これは」
姫氏原は言葉を失った。
理解の及ばない光景を前に、胸の奥から得体の知れない恐怖が込み上げてくる。
その隣では霧島も足を止め、眼下を見下ろす。
「あれが真壁仁だ」
短い言葉に促され、姫氏原は視線を穴の底へと落とした。
そこに、小さな人影があった。
距離があるため、顔までははっきりと見えない。だが、その人物が何をしているのかはすぐに分かった。
男は拳を振り上げ、地面へと叩きつけていた。
一度、二度、三度。
何度も繰り返される拳打のたび、地表が震え、周囲の木々がざわめく。地面には新たな亀裂が走り、土埃が舞い上がった。
「……まさか、あ、あれが……?」
姫氏原が呆然と呟いたその刹那、穴の底で男の動きがぴたりと止まった。
拳を地面に向けたまま、ゆっくりと男の顔が上がる。そして、その視線が真っ直ぐにこちらを捉えた。
次の瞬間、男は穴の斜面を蹴りつけ、凄まじい勢いで跳躍した。一度の跳躍で届かない高さは、壁面を踏み台にして補う。岩肌を蹴り、土砂を散らし、再び宙へと身を躍らせる。
その動きは、大柄な体躯からは想像もできないほど軽やかだった。
跳躍を重ねるごとに、人影はみるみる大きくなっていく。
———ズンッ!!
重い衝撃音とともに、男が二人の目の前へと着地した。
足元の土が弾け、周囲に土埃が舞い上がる。押し寄せた風圧が二人の身体を叩き、姫氏原は思わず後ずさった。霧島もわずかに重心を引いて衝撃を受け流す。
土埃の向こうから、男の姿が露わになる。
隆々とした筋肉で覆われた肉体は、ただ立っているだけで周囲を圧倒するほどの存在感を放っていた。
男は霧島の姿を認めると、口元を吊り上げる。
「久しぶりだなァ、霧島ァ!!」
放たれた咆哮が更に大地を唸らせた。
一週間連続投稿も、残るはあと1日となりました。
来週からは週2日投稿に戻りますが、ここから始まる新章は、物語の解像度が一変し、描かれる激動の渦も一気に跳ね上がっていきます。
どんどんと加速してゆく展開を、ぜひこれからも見届けていただけると嬉しいです!




