第八話 夜が明ける
重たい雲が月を隠し、街灯の明かりは鈍くにじんでいた。降り続く雨は途切れる気配もなく、地面を叩く音が静かな夜を埋め尽くしている。
その中で新は足を止めていた。
公園の東屋の下。濡れない場所にひとりの女が立っている。
長く伸びた髪は暗闇の中でもはっきりと分かるほど鮮やかな赤。風に揺れるたびにまるで炎がゆらめくように見えた。
「やっと見つけた。新」
その声は雨音を真っ二つに裂くように新の耳へ届いた。
———なんで、俺の名前を……
傘を持つ手に力が入った。指先が白くなるほど強く握っているのに気づき、新は息を呑む。
女はゆっくりと顔を上げた。
街灯の光を受けたその横顔は、年齢だけ見れば高校生ほど。しかしその瞳には場違いなほど落ち着いた光が宿っていた。
新は喉の奥で言葉を転がすようにして、ようやく声を絞り出す。
「君は、一体……誰なんだ」
「……やっぱり、私のことは忘れてるか」
そう言うと女は一歩、屋根の外へ踏み出す。
雨粒がその肩に触れる直前、新は反射的に傘を差し出していた。
「あ——」
言いかけるより早く、彼女はその手を軽く押し下げる。そして当然のように新の隣へと入り込んだ。
肩が触れるほど近い距離。湿った空気の中で、彼女の体温だけが妙に近く感じられる。
「ねぇ本当に私の名前も覚えてない?」
覗き込むようにして彼女が顔を寄せる。
至近距離で見えた瞳は赤い髪とは対照的に深く澄んでいた。逃げ場のない視線に新は一瞬言葉を失う。
———”知らない”じゃなくて”覚えてない”……
胸の奥に僅かな引っかかりがあった。
「君は俺とどこかで会ったのか?」
「あるに決まってるでしょ」
即答だった。
続けて呆れたように彼女は首を横に振る。
「初対面でこんな馴れ馴れしい女いるわけないじゃない」
「……それは、そうだな」
正論すぎて何も言い返せず新は眉をひそめる。
雨音が一瞬強くなった。
「ならいつ俺と君は会ったんだ?それも何処で——」
そう言い終わる前に彼女は傘の持ち手をぐいと引いた。
「話せば長くなるから。その前に雨をしのげる場所に行ってからでもいい?ここにいると風邪引いちゃうでしょ」
半ば強引に引かれ、新はバランスを崩しそうになりながら歩き出す。
———何なんだ、この子……
だが不思議と嫌な感じはしなかった。むしろどこか懐かしいような——そんな違和感が胸の奥に残る。
やがて二人は近くの喫茶店へと入った。ガラス越しに見える雨は相変わらず強く、店内の暖かさが現実を引き戻す。
向かい合って座ると女は適当に紅茶を二つ注文した。
「で、聞きたいのは私とあなたの過去よね」
彼女は一瞬だけ視線を落とし、それから静かに語り始める。
「私とあなたが会ったのは十年前、私はずっと病院にいた」
そう言った時、不意にその瞳が僅かに曇った。
「その頃の私は、まぁその色々あって、いつか自殺してやろうと思ってた」
そうして窓の外をちらりと見やる。その横顔は他のものには見えない遠い場所を見ているようだった。
「そんな時にあなたが来た」
「俺が……?」
「わざと階段から落ちて死のうとした私を助けてくれた。それでいきなり怒ってきて、覚えてないと思うけど、あなたその時私の胸ぐら掴んで『何で死のうとするんだ!』って怒鳴ったのよ?」
小さく笑う。
その表情に新は言葉を失っていた。
「……悪い。思い出せない」
正直にそう言うと彼女は肩をすくめた。
「でしょうね。あなたにとっては大したことじゃなかったんでしょ」
ため息混じりの声だが責める響きはなかった。
「でも私にとっては運命的なことだった。あの時のあなたのおかげでこうして今私は……」
その言葉がはっきりと重かった。
新は視線を上げる。彼女は窓の向こうの雨を見ていたおり、その容姿があの夢で見た姿と重なる。
———やっぱり、夢の中の女と同じ……
胸がざわついた。
二人が話していると、喫茶店の店員が紅茶の入ったグラスを二つ運んでくる。
女はそれをすぐに飲んだが、新は何もせずに眺めていた。
「あまり信じられないな。俺なんかが君みたいな子を助けれるはずがないし……でも、君言うことが本当だとしたら、君は何で俺に会いに?その、何か理由があるんだろ?」
「……」
問いかけると彼女は一瞬視線を逸らす。
「お礼を言いたかっただけ。でも新が覚えてないなら意味ないね」
グラスの中身を一気に飲み干して静かに置いた。
乾いた音がテーブルに響く。
「だからまずは思い出して、それが出来なくても覚えてもらわなきゃいけない」
女は袖で口を拭うと立ち上がり、真っ直ぐに手を差し出した。
「遅くなったけど、私の名前は亜禅 結衣」
「俺は池ヶ谷 新だ……知ってると思うけど」
取り敢えず新はその手に触れる。
するとその女——結衣はすかさず更に強く握り返し、不敵にニヤリと口角を上げる。
「どっせいっ!」
次の瞬間、結衣は自分の額を思いっきり新のそれに打ち付けた。
「——イ゛っ!?」
思わず短い悲鳴が漏れる。
「な、何すんだ……!」
「いや〜あなたって忘れっぽさそうだからこれくらいしないと覚えないでしょ?感動の再開は強烈にしないと」
「そうしなくても覚えるから大丈夫だ」
頭を抱えながら新は返した。
その頃、外では雨がやみ雲の切れ目から月が見え始めていた。
道路の水たまりに月光が反射し、水面が繊細に揺らいで見える。
「さて、雨がやんだし私は帰るね。もちろんここの代金は新の奢りね」
「分かった……もう、帰るのか?」
「うち門限が厳しいから。私はもっと一緒にいたいんだけど。あ、そうだ。連絡先交換してくれる?」
言いながら結衣は肩がけのバックから年季の入ったガラパゴス携帯を出した。
———こ、この時期にガラケー?
危うく新は紅茶を吹きかける。
「ん、早く貴方も携帯出してよ」
「そ、そうだな」
そうして二人は番号を交換した。
新の名前が表示された画面を眺め、結衣は嬉しそうに微笑んでいた。
「もう暗いし近くまで送るか?」
「大丈夫大丈夫、私こう見えて結構強いから。あ、心配なら『帰ったよ』って連絡するね」
立ち去り際に結衣が振り返る。
新は思わずその揺れた赤髪に見入ってしまった。
軽やかなドアベルが鳴り、気づけば客は新一人となった。
「……そういえば」
紅茶を飲み終わった後、誰も座っていない向かい側の席を見る。
「夢で見たことがあるって事、言い忘れたな」
言うと新は携帯をポケットに仕舞い直した。
外は雨上がりで湿気が多かったが、その艶やかな髪は崩れることなく繊細に輝いていた。
結衣は鼻歌を奏でながら軽快にステップする。
「……楽しそうですね。結衣様」
そんな彼女の背後から声が響いた。
「あれ、シャティミアいたの?」
結衣は足を止めてクルリと後ろを向く。
そこには丈の黒のロングドレスの上から白いエプロンを被せたような、いかにもな服を纏ったメイドが立っていた。
メイドの名はシャティミア、見た目通り結衣の従者である。
「お帰りが遅かったので私からお迎えにあがらせてもらいました」
シャティミアは手を揃えてお辞儀をした。
「表情から察するに新様とは再開になられたようですね」
「そう!やっと見つけたの。まぁ、私のことは覚えてなかったけどね」
「……そうですか。それは残念なことでございますね」
そう言いながらもそのメイドの表情には全く変化がない。
「しかし本当にそんな偶然があるのですね。まさか十年前に会った二人が———」
シャティミアの視線が結衣を捉える。
「二人とも超能力者だったなんて」
言葉が湿気を含んだかのように重く放たれた。
にわかに結衣の気配が威圧を帯びる。
赤い髪に微かな火花が散り、ほんのりと焦げた匂いが漂った。
そしてその指先に炎が灯ると彼女は息を吹きかけて消す。
「さぁ、本当に偶然かは分からないけどね。でもそのお陰で新が見つかったんだから、私にとっては好都合だったかな」
結衣は徐ろに朧月を見上げた。
柔らかく霞んだ月明かりが二人を照らしている。
「『好都合』……良くも悪くも、ですね」
シャティミアも同じように空を仰いだ。
* * * * *
その日の朝、目覚まし時計のアラームが彼の眠りを引き裂いた。
耳に刺さる電子音に意識が浮上する。
しばらく天井を見つめたまま動けずにいた。目覚めた直後のぼんやりとした感覚、まるで水底から遠くの水面を眺めているように身体が重力に囚われている。
それでも手を伸ばし床に転がっていた目覚まし時計を止めた。
ゆっくりと半身を起こし、枕元の携帯を手に取る。画面には新着の通知が一件。差出人は結衣で、何気ない短い朝の挨拶だった。
「……」
新はしばらく画面を見つめたまま固まっていた。
返すべき言葉が浮かばない。結局、何もせずに携帯を伏せて置いた。
その後、適当な残りもので朝食を済まし、最低限の身支度をして玄関を出た。
「……もう春か」
どこからか風に乗って運ばれてきたのか、淡い桜の花びらがアパートの前にいくつも落ちていた。
それを一瞥した新は歩き出す。
あの日から二ヵ月が過ぎ、その日常はすっかり変わっていた。
いままで通りいけば大学に入学するはずだったが、彼は今警察のある部隊に協力者として属している。
駅まで着くと新は通勤客に紛れ、ホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。やがて目的の駅で再び地上へ出る。
そこからさらに歩くこと数分、人通りの少ない一角にその建物はあった。
新は迷うことなく入り、音のない廊下を進む。ある扉の前まで来ると、ほんの一瞬だけ呼吸を整えた。
扉を開けるとそこにはある日常が広がっていた。
黙々と作業を進める佐倉に、その向かいで眠っている御堂。部屋の隅のソファではシアがカップを手にくつろいでいた。そして奥では東雲が暇つぶしにコーヒーを注いでいた。
その光景の一角に新は立つ。
「……おはようございます。皆さん」
その声に室内の空気が揺れる。
最初に顔を上げたのは佐倉だった。
「おはよう、新君」
短く確かな調子で返す。
「おはようございます!今日はちょっと早いっスね」
シアはぱっと表情を明るくし手を軽く振った。
一方で御堂は寝ぼけたまま片目だけ開ける。
「……朝か……」
そう言うだけで挨拶はせずに再び目を閉じた。
最後に東雲がコーヒーをカップに注ぎ終えると振り返る。
「おはよう新君。いいタイミングだよ、ちょうど淹れたところだ」
それぞれの反応が当たり前のように返ってくる。
———俺はこの人達と仕事する……
新は部屋の中へ踏み込んだ。
黎明はすでに終わりを告げていた。
この話で序章は終わり!次からは新章が始まりますので、乞うご期待!




