第10話 掛け軸の向こう側
――その日は、朝から妙に静かな一日だった。
「……よし」
己道流古武術道場。
まだ誰もいない広い道場の中央で、蘭丸は一人、白い道着と袴、薙刀を構えていた。
祖父から受け継いだ道場を立て直すと決めてから、蘭丸は以前にも増して稽古に励んでいた。
「一、二……!」
踏み込み。
薙刀を振り下ろし、素早く返す。
足を運び、身体を回転させる。
祖父から叩き込まれた型を、一つ一つ丁寧に繰り返していく。
「……まだだ」
額から汗を流しながら、蘭丸は呟いた。
「もっと速く……もっと鋭く!」
祖父が生きていた頃なら、きっと言われていた。
『蘭丸。力任せに振るな。薙刀は身体全体で振るものだ』
その声を思い出し、蘭丸はさらに踏み込んだ。
「――せやっ!」
ブンッ!
鋭い風切り音が道場に響く。
しかし――。
「――あっ!」
踏み込んだ右足が、ほんのわずかに滑った。
「うおおおおっ!?」
身体の勢いが止まらない。
薙刀を横へ逃がし、とっさに壁を避ける。
だが、その先にあったものは――。
「うわっ!」
道場の正面に掛けられていた、一幅の掛け軸だった。
――ズサァッ!
「痛ててて……」
蘭丸は見事に掛け軸へ突っ込んだ。
幸い、薙刀は手放していたので怪我はない。
「……ったく。何やってんだ、俺は」
苦笑しながら立ち上がる。
だが。
「……ん?」
蘭丸はそこで、妙な違和感に気づいた。
掛け軸が――揺れている。
風など吹いていない。
それなのに、紙面だけが水面のように、ゆら……ゆら……と波打っていた。
「なんだ、これ?」
蘭丸は近づいた。
そこに描かれているのは、あの古い掛け軸。
例の秘蔵の部屋で見つけた、あの美しい女性の姿だった。
長い黒髪。
どこか悲しげな瞳。
そして、こちらを見つめているようにも見える、不思議な表情。
「……前から思ってたけど、この人……誰なんだ?」
蘭丸が掛け軸へ手を伸ばす。
指先が紙に触れた。
その瞬間――。
「――っ!」
指が沈んだ。
「え?」
紙に触れたはずの指先が、まるで水の中へ入っていくように消えた。
「な、なんだこれ!?」
慌てて手を引く。
すると、今度は掛け軸全体が大きく波打った。
まるで、その向こう側に何かがあるように。
「…………」
蘭丸は息を呑んだ。
恐る恐る、もう一度手を伸ばす。
――ズブッ。
「……入る」
指先だけではない。
手首まで。
そして腕まで。
「う、嘘だろ……」
掛け軸は紙のはずだった。
なのに、その向こうには確かに“空間”が存在している。
蘭丸はしばらく固まっていた。
そして――。
「……まさか」
脳裏に、あの洞窟の光景が蘇った。
大量の甲州金。
古い甲冑。
火縄銃。
刀や槍。
そして、あの謎の女性が描かれた掛け軸。
「……これも、じいちゃんが残したものなのか?」
祖父は何も語らなかった。
蘭丸はごくりと唾を飲み込んだ。
「もしかして……」
掛け軸の向こう側。
そこには、こちらの世界とは違う“何か”がある。
そう考えると、恐怖よりも好奇心が勝った。
「……行ってみるか」
蘭丸は薙刀を先に掛け軸にさし、まるで深さを測るように投げ入れた。
そして、掛け軸の前に立つ。
「何があるか知らないけど……」
一度、深呼吸。
「じいちゃんが残したものなら、確かめてみるしかないよな」
そして――。
蘭丸は掛け軸の中へ、一歩踏み込んだ。
身体が、すうっと沈んでいく。
「うわっ――!」
次の瞬間。
視界が真っ白になった。
身体が宙に浮いたような感覚。
上下も左右も分からない。
そんななか、どこからか女性の声が聞こえた
「戻りたくば つがいはなれし みをいかにせん と唱えよ」
蘭丸に聞き取れていない様子。
頭の中に何か変な感覚も。
そして――。
「――うわあああああっ!?」
ドサッ!
何か柔らかな草の上へ落下した。
「いってぇ……」
蘭丸は頭を押さえながら、少し先の草むらに突き刺さっていた、先ほど投げた薙刀を使い起き上がった。
そして、顔を上げる。
「…………え?」
そこには――。
見たこともない巨大な森が広がっていた。
空には巨大な二つの天体。
遠くには、雲を突き抜けるほど高い山。
そして――。
「……あれ、何だ?」
森の上空を、巨大な翼を持つ生き物が飛んでいる。
鳥……ではない。
どう見ても――。
「……ドラゴン?」
蘭丸は呆然と呟いた。




